第26話 常連さん
「おはようございます。あの二人は?」
「おう、颯。結衣にウェイターの仕事を教えてもらっているんだ」
凪は客がいなくなった机の食器を片付けている結衣さんを真剣に見つめ、一生懸命メモを取っていた。相変わらずまじめだ。
「あの強烈なソルトトーストをお客さんに食わせるわけにはいかないだろ?」
「……確かに」
冗談交じりの口調で言ったおじさんの言葉に、俺は重々しく頷く。幸せの料理ならぬ死合わせの狂気だからな、あれは。あんなもん客に出したら二日でこの店が潰れるわ。
「つーわけで、さっさと着替えてこい。今日は二人体制で調理場を回していくぞ。こっち側が手早く作ってあの可愛い新任ウェイターさんの負担にならないようにしないとな」
「りょーかい」
俺は足早に更衣室へと向かい、バイトの制服に着替え調理場に戻った。見た感じそこそこお客さんはいるものの、みんながゆったりと時間を過ごしている。この時間帯のお客さんは大体そんなもんだ。コーヒー一杯で二時間とかざらにいる。だから、ウェイターの研修にはもってこいの時間って事だな。
「昨日、お前がトイレに籠ってから凪ちゃんにはウェイターの方をやってもらっているけど、こっちは中々筋がいいみたいだぞ?」
「そうなん?」
「あぁ。テキパキ動いてくれるし、運動神経もバランス感覚もいいから
まぁ、運動神経はいいわな。五階建ての建物をさらっと上ってたし。それにウェイターなら包丁を使う事がないから、客の指を間違って切り落とすこともないだろう。
「今日は連休前最後の日だ。彼女には夜の部を体験してもらおうと思う」
「まじ?」
「あぁ。夜の部を乗り切れないようでは連休なんて夢のまた夢だからな」
夜の部……俺が初めて夜の時間帯に仕事した時は文字通り死ねた。あいつ、大丈夫かな?
「颯がしっかりサポートしてやるんだぞ? ウェイターの仕事を教えるのは結衣の役目だが、世話係はお前なんだから」
「……わーってるよ」
あーぁ、軽々しく世話係なんて引き受けるんじゃなかったぜ。俺だってやっとこのバイトに慣れ始めたって頃だから、そんな他の奴に気をまわしてる余裕なんてないっての。
でもまぁ、今のところ順調なようだし、そこまで心配する必要ないかな? 凪も調理場の時と違って、のびのび仕事ができてるみたいだし。
……と、余裕をかましていられたのは
「な、生ビール、三! エビのアヒージョ、二! パル、パルメザンチーズサラダ、二!」
「あいよ! ほれ! ボンゴレボアンゴ、カルボナーラ、プロシュート、チーズリゾットあがりだ!」
「早っ!! さっき注文通したばっかなのに……!! え、えっと……どこだっけ?」
「左から十八、二つは同卓九、最後は十四だ!」
「わ、わかりました!」
俺が作った料理を両手で持って凪がホールへと飛んでいく。ビールサーバーを操作しながら一応あいつの動きを目で追った。……うん、テーブルは間違えていないみたいだ。確かに動きが機敏だからホール作業の方が向いてるっぽいな。
「はいはい! 凪ちゃんに見惚れてないでちゃんと手を動かす!! 私の持ってきたオーダーできたの?」
「当然。ここに並べてあるよ」
「なんですって!? 颯君……恐ろしい子……!!」
「いや、ふざけてないでさっさと持ってって」
「はーい♪」
ぺロッと舌を出すと、結衣さんは料理をもって踊るようにお客さんのところまで行く。なんとあざとい。年上なのにきゅんと来てしまう。いや、年上だからこそか?
「いやぁ、颯君も
調理場の近くのカウンターに座っているおじさんが笑いながら話しかけてきた。
「そんな事ないですよ。お客さんを待たせないよう死に物狂いでやってるだけです」
「その若さでマスターと同じくらいスピードで回せるんだから大したもんだよ!」
「あ、ありがとうございます」
やべぇ、普通に褒められた。めちゃ嬉しいんですけど。っと、まずいまずい。早く出さないとビールの泡がなくなっちまう。
「凪っ!!」
俺はビールに泡を足しながら、完全にテンパってる凪を呼んだ。
「な、なに?」
「これ、早く出してやって。料理よりも飲み物を出すのが遅れた方がクレームになりやすいから」
「わ、わかったわ!」
そう言って横においてある空のジョッキをもって行こうとする。おいおい。
「凪」
「こ、今度はなに!?」
「落ち着け」
凪の目をしっかりと見つめながら穏やかな声で告げた。びくっと凪の体が震える。
「そんなにテンパる必要ないって。初めてだけどちゃんとホールの仕事が出来てるから心配すんな」
「あっ……」
俺が極力優しい声で言うと、一瞬気の抜けた声を漏らした凪だったが、次の瞬間にはいつもの勝気な表情に戻っていた。
「ふ、ふん! 変態のくせに私に助言なんて百年早いわ! で、でも、一応お礼は言っといてあげる!!」
「はいはい。わかったからさっさと持ってけって」
これで少しは調子戻ったかな? 呆れた顔でひらひらと手を振り、凪を送り出す俺を見ておじさんは笑った。
「はっはっは! 颯君が羨ましいねぇ!! 綺麗なお花が二輪も咲いてるんだから!!」
「……どちらも棘持ちですけどね」
「誰に棘があるって?」
ギクッ!!
恐る恐る振り返ると、結衣さんが天使の微笑みで俺を見ていた。なるほど、どうやら俺はこの天使に天国へと連れていかれるらしい。
「よっ! 結衣ちゃん! 今日も可愛いねぇ!」
「もうやだー源さん! お世辞がうまいんだからー!」
「なーに言ってんだ! 俺は世辞を言わねぇ! 思った事しか口にできねぇ江戸っ子よぉ!!」
「源さんったらー! 落ち着いたらサービスするね♪」
そう言うとご機嫌な様子で結衣さんが仕事に戻っていく。源さん……まさかこの俺を助けてくれたのか……?
「……棘がある方が酸いも甘いも知れるってもんよ。颯君ももう少し年を取れば棘の痛みの心地良さがわかってくるだろうな」
ウィスキーが入ったグラスを傾けながら、源さんがニヒルに笑う。ハードボイルドすぎるだろ。まじかっけぇ。
この人は大体いつもこの席に座っている店の常連さんだ。なかなか気持ちのいい人で、俺も嫌いじゃない。ってか、むしろ好き。めちゃ憧れる。
とまぁ、常連さんって言ってもいい人ばかりとは限らない。
「きゃっ!」
小さい悲鳴が俺の耳に聞こえた。
「おっと、こりゃ失礼! 可愛いお尻が目の前にあったから、ちょっと感触を試させてもらっちまったぜ!」
……今日も来てやがったか。あのエロおやじ。
「お、お客様? おさわりは困ります」
凪が頬を引くつかせながら、必死に笑顔を作る。あれは相当きてるな。あのおやじ、殺されなきゃいいけど。
「おう悪い悪い! 次からは気を付けるよ!」
そう言って、エロおやじはグビグビっとビールを一気飲みした。まるで反省していない態度に一瞬むっとした表情を浮かべた凪だったが、気を取り直して机の後片付けを再開する。凪が背を向けるのを見計らっていたエロおやじが再びお尻に手を伸ばした。
「っ!?」
凪の体がぴくっと反応する。だが、エロおやじはニヤニヤと笑いながら触り続けていた。ご愁傷様。自業自得なので鉄拳制裁を食らってください。
……って、あれ? なんで凪の奴、ギュッと口を結んで耐えてるんだ?
「まさか、あいつ……」
客ともめ事を起こして店の迷惑になるのが嫌なのか? 真面目だしそういうところがあるのかもしれない。
それにしてもあのエロおやじ触りすぎだろ。普段は結衣さんにすかされてるから、ここぞとばかりにガードの甘い凪に絡んでるってわけか。ここは結衣さんに頼むのが最善……って、他のお客に捕まって凪に気づいてねぇな。どうしたもんか。
……仕方がねぇ。
俺は料理していた手を止め、ホールへと歩いていく。そして、そのままだらしない顔で凪のお尻を堪能しているエロおやじの手首を思いっきり掴んだ。
「いてぇ!!」
「お客さん。ここはそういう店じゃないから困るんですよ」
「は、颯……?」
振り返った凪が俺の顔を見て小さな声で呟く。今はそれに応えている場合じゃない。
「裏通りにでも行けばその手のお店はいっぱいあるでしょ? 悪いけど、うちの大切な新人にちょっかいかけるのは止めてもらえますか?」
「っ!?」
「な、なんだとぉ!?」
いきり立つエロおやじ。迫力は皆無。雷の龍の前に立った俺に怖いものなどない。
「ガキが! 調子に……!!」
ドンッ!!
エロおやじが俺に殴りかかろうとした瞬間、ビールの入ったジョッキが勢いよく机に置かれた。
「……ごめんねぇ、
全員の視線が集まる先にいたのは、ニコニコと愛想よく笑っている結衣さん。
「
戦慄の副音声が聞こえる。これほどまでに恐怖を感じる笑顔を、俺は見たことがない。
「サ、サンキューな」
震える手でジョッキを握り、一気に傾ける。アルコールを摂取しているというのに、エロおやじの顔はなぜか
「じゃ、じゃあ今日はもう帰るわ。ごちそうさん」
「ありがとうございました♪ また来てくださいね♪」
屈託のない笑みに見送られながら助さんがとぼとぼと店を出ていく。結衣さん……まじおっかねぇっす。
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