第32話 兄貴の手

 えーっと……どういう状況? 何かのプレイですかこれは。


「颯……!!」


 凪が地面に這いつくばりながら、悔しそうな顔でこちらを見る。どうやら普通に捕まったらしい。あんなに息巻いていたくせに何をやっているんだあいつは。


「ん? 凪の知り合いか?」


 男が意外そうな顔で俺に視線を向けてきた。凪って呼んでるって事はこいつら知り合いか。ははーん、これはギャングの親玉が元カレっていうパターンBだな。俺はてっきり『ブラックドラゴン』にひどい目にあわされた過去があるっていうパターンAを睨んでいたんだが。

 月明かりが廃ビル窓から差し込む。それまでよく見えなかった男の姿が照らし出された。うほっ……めちゃイケメンじゃねぇか。短く切りそろえられた黒髪はなんかおしゃれな感じで整えてるし、シルバーアクセサリーもいやらしい感じが全くしない。こりゃ益々パターンB説が濃厚だな。美男子美少女カップルとかなんか腹立つわ。ってか、なんか誰かに似ているような気がするんだけど。


「おたく誰さ? 凪とどんな関係よ?」


「あー……俺は氷室颯。そこに転がっている奴の……バイト仲間です」


 俺は凪を指さしながら曖昧な口調で答える。誰って聞かれて一瞬迷っちまった。元カレの手前、あんまり刺激することは言いたくねぇし、そもそも説明するほどの間柄でもねぇ。


「何を丁寧に自己紹介してるのよ!!」


「いやだって聞かれたから……」


「バカ兄の質問に答える必要なんてないのよ!!」


 まさかのパターンC。お兄様でいらっしゃいましたか。誰かに似てると思ったら、少し釣り目のとことか確かに凪にそっくりだな。


「はっはっは! 面白いな、お前!」


 凪兄が楽しそうに笑い声をあげる。


「俺の名前は夕暮ゆうぐれにわか。この出来の悪い女の兄貴さ」


「出来の悪いですって!?」


 凪が眉を吊り上げた。なるほど、さすがはお兄様。妹がポンコツである事をよく熟知していますね。


「それで? バイト君はなんでこんな場所にいるんだ?」


「なんでってそりゃ……」


 …………なんでだろう? 首を傾げる俺を見て、凪兄はますます笑みを深めた。


「本当に面白いな。おい、凪。いつの間にこんな愉快な奴と仲良くなってんだよ?」


「……別に仲良くなんかないわ」


 凪が小さい声で答えながら俺にジト目を向けてくる。いやだって、俺はお前が危険な目に合わないようついてきたんだけど、ブラックドラゴンのヘッドがまさかの肉親だったんだぞ? 正直、俺がここにいる意味はないと言っても過言じゃない。


「颯の事なんてどうでもいいわ!! バカ兄!! いつまでこんな事を続けるつもりよ!!」


 どうでもいいってひどくないですか? なんて心では思っても口には出さない。空気の読める男、それが俺。


「こんな事ってなんだよ?」


「アホな連中にかつがれて猿山の大将を気取ってる事よ!!」


 凄まじい形相で凪に睨みつけられた凪兄はどうでもよさそうに肩をすくめた。


「猿山の大将ってのはひでぇ言い方だな。俺もあいつらも猿じゃねぇ」


「猿もいいとこよ! 誰も彼も脳みそ足りなそうな顔をしていたわ!」


「……出来が悪い上に口が悪いときてる。我が妹ながら困ったもんだぜ」


 凪兄が呆れたように首を振り、ため息を吐く。


「なぁ? お前もそう思うだろ」


「いやはやまったく……」


「はぁ!?」


「……妹さんはとても素晴らしいお人です」


 凪兄に同意しようとしたけど、ギンッと凪に怖い顔で睨まれたので、後で何をされるかわかったもんじゃないからとりあえず適当にお茶を濁す。つーか、兄妹喧嘩の最中は俺に話を振らないでください。


「とにかく、だ。俺は今やっている事をやめるつもりはないし、お前にとやかく言われる筋合いはない。つまり、お前に用はない」


「っ!? ……そっちになくてもこっちにはあるのよ!!」


 体を縄で縛られているせいで腕の自由がきかないためぐるぐると地面を転がり距離をとると、凪は体のバネだけで起き上がった。


「あたしはあんたの目を覚まさせるためにここまで来たの!! そう簡単に引き下がれないわ!!」


 凪兄をキッと睨みつけながら怒声を上げて膝へと力を込める。


「"誰よりも速くアクセレート"!!」


 そして、勢い良く地面を蹴り、一直線に凪兄へと突っ込んでいった。余りのスピードにつむじ風のような突風が巻き起こり、俺は後ろに吹き飛ばされる。やばすぎるだろ、まじで。人間が出していい速度を余裕で超えてるわ。

 無様に地面を転がりながらも、どうなったか気になるので二人からは目を離さないようにする。


「……やれやれ。本当に出来の悪い妹だ。俺にそれは通じないってさっき分かっただろうに」


 猛然と向かってくる妹を見ながら、凪兄は心底呆れたように呟き、静かに手の平を凪へと向けた。


「"誰もが遅くデセレート"」


 囁くように小さな声で告げる。その瞬間、目の前まで迫っていた凪の動きが止まった。


「なっ!?」


 尻もちをつきながらその光景を見た俺は大きく目を見開いた。どういうことだ? あいつはスポーツカーみたいな速さで突っ込んでいったんだぞ? なのに時間が静止したかのように止まるなんて……まさか、凪兄もギフテッドなのか? つーか、もしそうなら相手の動きを止めるギフトって事? チートすぎるだろ、それ。


「さっき同じことをして俺に縛られたばっかりだろうが。少しは学習しろ」


「…………!!」


 凪が何か言うために口を動かそうとするが、その動きはすこぶる鈍い。よく見りゃ、体もめちゃくちゃゆっくりと動いていた。って事は、相手の動きを遅くするギフトか。自分の速度を上げる凪とは正反対の能力だな。どっちにしろ強すぎるって。

 凪兄は緩慢な動きで足を払う。それだけで凪は赤子のように地面に倒れこんだ。


「くっ……!!」


「目を覚まさせるって大口叩いた割には随分と実力不足だな。俺がその気だったらお前は既に五回は死んでるぞ?」


 その声は氷を思わせるように冷たい。声だけじゃない、凪に向ける視線も絶対零度のそれだった。


「何が狙いなのかは知らないがさっさと帰るんだな。ここはお前みたいな平和ボケした奴が来るような場所じゃない」


「…………どうしてよ?」


 地面に這いつくばりながら凪が喉から声を振り絞る。


「どうして皇聖学園を首席で卒業したお兄ちゃんがギャングのヘッドになんかなっちゃったの?」


 あの人……皇聖学園を首席で出たのか。そりゃ、こんな強力なギフトを持っていれば当然か。


「……お前には関係のない話だ」


「関係なくなんかない! だって、あたしは妹だもん!!」


 グッと体を起こし、凪が凪兄を見つめる。その瞳には強い意志が宿っていた。


「ねぇどうして!? あんなにも優秀で優しくてかっこよかったお兄ちゃんがどうしてこうなっちゃったの!?」


「どうしてもこうしてもない。俺は昔と何ら変わらねぇよ」


「そんな事ない!! 昔はもっと輝いてた!! 私の憧れだった!!」


「…………」


「なのにどうして……!! どうしてこんなバンデットまがいの事なんてしてるの!? 皇聖学園にいたころは学園にいた頃は国の軍に入るのが夢だって言ってたのに……今じゃ真逆の事してるじゃない!! お願いだからあの頃のお兄ちゃんに戻ってよ……!!」


 凪の心の叫びがこの広い部屋で木霊する。そっか……あいつが強くなろうとしてたのは兄貴の目を覚まさせるためだったんだな。道を踏み外した肉親を引き戻すために必死に自分を鍛え上げようとしてた……だから、俺みたいな奴を見てイライラしていたのか。


 凪兄は縋るような視線を向けてくる妹を何も言わずにジッと見つめていた。


「…………言いたい事はそれだけか?」


 凪兄が無機質な声でそう言い放ち、凪の胸ぐらをつかんで無理やり立たせる。そして、自分の目線まで持ち上げると、鋭利な刃のように鋭い視線を凪に向けた。


「正直息苦しいんだよ。理想を押し付けられんのは」


「っ!?」


 凪の瞳が僅かに揺れる。その目を凪兄はまっすぐに見つめ返した。


「お前がどんな兄貴像を抱いているのかは知らないが、それと俺がかけ離れていたからといっていちいち癇癪起こすな」


「そ、そんな……あ、あたしは……!!」


「現実を見ろ。俺はお前が思っているほど優秀でもないし、優しくもない」


 突き放すように凪兄が告げる。一瞬、泣きそうなほどに顔をクシャッとさせた凪だったが、すぐにいつもの強気な顔に無理やり戻した。


「それでもあたしは……あたしの信じた兄を取り戻す……!!」


 確かな覚悟を持った凪の言葉に、凪兄は盛大にため息を吐く。


「頑固だってのは知っていたがここまでとはな。……こりゃ、多少痛い目に合わせないとわからねぇみたいだ」


 そう呟くと、凪の胸ぐらを掴んでいないほうの手を後ろに引いた。それを見た瞬間、俺の体が無意識に動き出す。


 シュッ。


 凪兄の拳が無残にも空を切る。俺は間一髪のところで凪の体を抱き、地面に滑り込んだ。


「颯!?」


 俺の腕の中で凪が驚きの声を上げる。俺はすぐに体を起こすと、こちらをつまらなさそうに見ている凪兄に視線を向けた。


「……バイト君が出てくる幕じゃねぇと思うけど?」


 乾ききった声で凪兄が言ってくる。あぁ、そうだな。家族間の話だし、部外者が口出すなんてナンセンスだ。だけどさ。


「知ってるか? 凪のお兄さんよ」


 妹にやっちゃいけない事ってあるよな?


「兄貴の手ってのは妹を守るためにあるんだ。傷つけるためにあるんじゃねぇ」


 凪の体がビクッと震える。俺は優しく凪を地面に寝かせると、ひたむきな気持ちをぶつけた妹を蔑ろにしたクソ兄貴の方へと向き直った。


「それがわからん奴は兄貴の資格なんてねぇよな?」


「……資格がなけりゃ、なんだっていうんだ?」


「同じ兄って立場としちゃ、一発かましてやらねぇと気が済まねぇって話だ」


「へぇ? バイト君が?」


 凪兄がバカにしたような笑みを浮かべる。おうおう、随分と舐めてくれるじゃねぇか。いいだろう。全国のお兄さん達を代表して、そのイケメン面に一撃ぶちかましてやるぜ。

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