第5話 高高度へのチャレンジ 

1918年1月20日 スイス-イタリア国境付近、ヨーロッパアルプス上空 高度5,000m


 空は良く晴れていた。

 窓の外には内陸特有の濃い青空、足元には雪をまとったヨーロッパアルプスの峰々が連なっている。

 しかし、クルーたちにその美しい景色に感動を覚える余裕はなかった。

「寒い」

 メルは寒さで蒼白くなった顔でつぶやく。

 防寒服をありったけ着込んでいるにも関わらず、身体は強張り、指先が痛い。

 気温は高度100m毎に0.6℃低下すると言われている。単純計算で、高度5,000mは高度0mの気温から約30℃低い。

 今、北半球は冬。地上が10℃だとするなら、高度5,000mはおおむねマイナス20℃だ。

 それを裏付けるように計器盤のガラスにはうっすらと霜が降りていた。


 L57号に乗り込んでからもうすぐ2ヶ月がたつ。

 最初はL57号の大きさに戸惑っていたクルーたちも、船の扱いに慣れてきていた。

 さすがに最新鋭の船だけあって、操縦性は前のルイーゼ号よりもむしろ良いくらいだった。

 メルたちは、フリードリヒスハーフェン付近から徐々に飛行距離を伸ばし、最近は、ヨーロッパアルプス上空での訓練飛行を繰り返していた。

 アフリカへの飛行では、敵国であるイギリスの勢力圏の上空を通過する必要がある。イギリス本国とは違い、防空体制は薄いと予想されてはいるが、万が一、迎撃を受けたときには、高射砲や飛行機が届かない高高度に上昇して逃げなくては成らない。

 それに、アフリカの砂漠地帯では昼夜の寒暖差が激しいという。気圧や温度の変化への対応にも慣れておく必要があった。


 L57号は、山岳地帯の上空を安定して飛行している。

 ハイトクライマーの本領、高高度飛行訓練は、寒さに震えるクルーたち以外、順調に進んでいた。

「各気嚢圧力正常、浮揚ガスにはまだ余裕があります。各エンジンも順調です」

 機関士のイレーナが計器を確認しながら報告する。

 L57号は操舵室ゴンドラの後部に第1エンジンを搭載しているため、操舵室にも機関士のイレーナが配置されていた。彼女は、第1エンジンのお守りと併せ、気嚢バルブやバラストを操作して船の浮力管理も担当する。

 また、気流の複雑な山間地を飛行する今回の訓練では、アメリアが昇降舵に専念し、方向舵は操舵要員のリディアが握っていた。

 リディアは、船内の雑事や見張りを担当する船務班のクルーだが、長時間の飛行や今回のような難易度の高い操船の際にアメリアを手伝う操舵要員としても訓練を受けている。


「高度5,000mを超えました」

 メルに伝えるエリスも、さすがに寒いのか小さく手をすり合わせている。

「エリス、大丈夫?」

「大丈夫です。でも、この寒さはなかなか慣れませんね」

 メルと小さく笑い合うと、エリスは真面目な表情に戻った。

「メル様、続けますか?」

「えぇ。全員に酸素供給を。引き続き上昇、高度6,500へ」

 メルは寒さに震えながらエリスに指示を出した。今回はV級ハイトクライマーの上昇限界高度6,500mを目指す。

「はい、メル様」

 エリスは艦内各所に続く伝声管の蓋を開ける。

「こちら操舵室エリスです。総員、酸素供給を開始。マスクを着用して下さい。これより高度6,500に上昇します」

「こちら機関室、ロザリンド了解した」

「背面見張り台、ミリア了解です」

「船尾見張り台、アリス了解です」

 伝声管から各部の返事が返ってくる。

 メルは、酸素ボンベに繋がったマスクを顔に付け、操舵室の全員がマスクを付けたことを確認する。

「機関前進全速、上げ舵10!」

 エリスがエンジンテレグラフのレバーを握った。ジャリン、とベルの音がしてテレグラフの指示窓が「全速」の位置に合わせられる。

「上げ舵10、了解」

 アメリアが、操舵室の左舷側の壁に取り付けられた昇降舵輪を回す。

「前部バラスト20放出!」

 イレーネが、バラスト放出用の索を引っ張る。船体内のバラストタンクに貯められた水が空中に放出され、軽くなった船首をグッと持ち上げたL57号が、高度を上げていく。

「アップトリム10、昇降舵、水平に戻します」

 メルは小さく頷き、昇降舵輪の上に取り付けられた高度計を見た。

 現在高度5,360m、高度計の針は順調に回り続けている。


「ヘレン、イタリア側にはみ出さないように気を付けてね」

「わかりました。メル様」

 メルが、現在位置を航空地図で確認しているヘレンに注意を促す。余り実感はないが、今は戦争中だ。

 スイスは中立国であり、外国の飛行船であっても事前に通告し許可を得れば領空の飛行が認められていた。

 また、中立国の上空では、たとえ交戦国間と言えど、戦端を開くことはできないため、比較的安全な訓練場所と言えた。

 しかし、ドイツとイタリアは交戦国同士だ。イタリア領空にドイツの軍用飛行船が侵入すれば、いらぬトラブルを招きかねない。

 

「高度6,300m・・・今超えました、まもなく上昇限界高度です」

 高度計を見ていたエリスが報告する。

「メル、こちら機関室。そろそろエンジンが機嫌を損ね始めた。出力が上がらなくなってきている。さすがの新型も高度6,000を超えると厳しくなるな」

 伝声管からもロザリンドの声が聞こえてきた。

 L57号が搭載しているマイバッハMBⅣaエンジンは、高高度を飛ぶハイトクライマー用に開発された新型だ。

 それまでのエンジンは、高高度の低温環境による故障の多発、酸素不足による出力半減に悩まされており、推進力の不足で風に針路を狂わされ、爆撃の失敗や墜落事故も多く発生していた。

 この新型エンジンはシリンダーを大型化して高い圧縮比を得ることで、これを大きく改善した。マイナス20℃以下の低温環境でも安定した運転が可能となり、高度6,000mまで出力を保てるようになっていた。


「高度6,500で上昇を止めます。イレーナ、ガス放出の準備を」

「了解」

「前方、モンテ・ローザが近づきます」

 ヘレンが声を上げた。

 モンテ・ローザ山、標高4,634m。ヨーロッパアルプスでは、モンブランに次いで2番目に高い山である。

 L57号は、すでに山より高い高度にいるため、衝突の危険はないが、モンテ・ローザの山頂は、スイスとイタリアの国境となっている。イタリア側に出てしまう前に針路を変更すべきだろう。


「リディア、針路変更、面舵・・・きゃっ!」

 言いかけた時、急にガツンと下からの衝撃が走る。船体が持ち上がる感覚がして、メルはよろめいた。

「メル様!」

 咄嗟にエリスがメルの手を取るが、支えきれずメルは後ろに尻餅をつき、そこに手を引かれたエリスが倒れこむ。

「痛たた・・・?!」 

 気が付くと、メルがエリスを抱き留め、エリスがメルの肩に顔を埋める体勢となっていた。

「め、メル様・・・申し訳ありません!お怪我はありませんか?」

 慌てて身を起こしたエリスが顔を真っ赤にしている。

「・・・だ、大丈夫。ありがとうエリス。エリスこそ怪我はない?」

 メルの方も、首筋に感じたエリスの頬の感触にちょっとドキドキしていたが、エリスには言えない。


「メル様、針路変更は・・・?」

 ちょっと恥ずかし気に、リディアが半分振り返って尋ねた。アメリアの横顔がニヤついている。

 慌てて立ち上がりズボンのお尻をはたいたメルは、酸素マスクを着け直し、操舵室を見回した。他の仲間にも怪我はないようだ。

「メル様、船が上昇しています!まもなく高度6,600mを超えます」

 ヘレンが叫ぶ。

「いけない・・・!」

 瞬間、赤らんでいたメルの顔が一気に青ざめた。

 高度計の針は回転速度を緩めない。やや船首を上に向けたアップトリムの姿勢で、L57号はぐんぐん上昇していた。

 これは山岳波だ。飛行船学校で学んだ気象学の知識を思い出す。

「リディア、面舵一杯、針路反転、急いで!反転するまで絶対に舵を戻さないで」

 ただならぬメルの様子に操舵室に緊張が走る。

「は、はい!面舵一杯!針路反転します」

 ぐいっと力を込めて方向舵輪と回しながら、リディアが復唱する。

「アメリア、下げ舵10、トリムを水平に!イレーナ、気嚢の浮揚ガスを直ちに放出」

 矢継ぎ早に指示を出す。・・・間に合え・・・メルの焦りを無視するように、船の回頭は緩慢だ。

「了解。ガスを放出します・・・3、2、1・・・放出開始」

 イレーナの操作で、気嚢のバルブが順番に開かれ、詰まっていた水素ガスが放出される。浮揚ガスが抜けて船体の浮力が落ち、船体の上昇はゆっくりと止まり、下降に転じた。

「機関室、前進全速を維持。できるだけ出力を稼いで!」

 ようやく船尾が横滑りを開始し、わずかに左舷に傾きながら船の向きが変わっていく。

 足元で、モンテ・ローザ山の稜線が後方へと流れていく。

「トリム水平、昇降舵、中央に戻します」

 船の姿勢に異常はない。少しづつ降下を続けている。

「針路反転しました。・・・方向舵、中央に戻します」

「・・・間に合った・・・あー、びっくりした・・・」

 リディアの報告にメルは胸をなでおろした。

「おい、操舵室!メル、何があった!」

 機関室の伝声管からりロザリンドの声が響く。

「こちら操舵室、乱気流です。もう心配ありません・・・機関室のみんなは大丈夫?」

「そうか・・・こちらは全員大丈夫だ」

「このまま高度2,000まで降下します。各部、異常がないかチェックを・・・」

 緊張が解けたら、凄まじい寒さを感じ、ぶるりと身を震わせる。高度6,000m超、外気温はマイナス30℃に迫っていた。

「・・・見張り台、ミリア、アリス!二人とも無事?!」

 操舵室内ですらこの寒さだ。露天の見張り台にいるクルーを思い出し、慌ててメルは伝声管に叫ぶ。

「は、はい・・・こちら背面見張り台です・・・生きてます・・・」

「こちら後部見張り台・・・こちらも大丈夫です・・・」

 弱々しいながら返事が返ってきて、メルはホッとする。

「よかった・・・二人とも、船内に戻って、休憩室で休んで。酸素は外しちゃだめよ。・・・あと、梯子から落ちないように気を付けて」

「はい・・・ありがとうごございます・・・」

「気を付けます・・・」


 メルは、酸素マスクを押さえて何度か深呼吸し、肺に酸素を取り込む。続けざまに指示を出したせいか、酸欠気味で頭が痛い。

「メル様、今のは、なんだったのですか・・・?」

 リディアが尋ねた。

「たぶん、山岳波に巻き込まれたんだと思う・・・山脈に吹き付ける風が山肌に沿って上昇し、山頂付近で発生する乱気流」

「それじゃ・・・もう少しで・・・」

 それを聞いたヘレンが、今更ながら顔を青くする。

「そう、山岳波は上昇気流の後、山を越えたところで急激な下降気流に変化する。・・・あのまま流されていたら、下降気流に入った途端に船体を折られてたかも・・・」

 メルの答えに、リディアはぴしりと固まり、ヘレンは泣きそうな顔になった。

 

 この日、L57号は最高高度6,880mを記録し、フリードリヒスハーフェンへと帰還した。

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