第12話 箱の中から踏み出すために
フリードリヒスハーフェン市立図書館。
休暇に入ってからというもの、アルムは毎日のように来ては本を読み漁っていた。歴史、技術、思想など、この世界のことをもっと知りたかった。
自分のいた世界と何が違うのか、それを見極め、新しい知識や力を得たい。
アルムがこの世界にやってきた目的は、ただ逃げ出すためではないのだから。
そのため、アルムは家からほど近いこの図書館に一人でやってきていた。
アルムが街で生活するために必要な物は、メルとエリスが用意してくれた。
今着ているシャツとズボンにカーディガンという服装も、二人に用意してもらったものだ。おかげで目立つことなく出かけられるのはありがたい。
そのほか、一般常識なども教えてもらったが、おおよその常識や善悪の価値観は、アルムの知るものと大差はないようだった。
不思議なことに、魔術がないということ以外、-細かな違いを挙げればきりがないものの- ロセリア世界と地球は、あまりにも似通っていた。
一番驚いたのは、言語だった。
地球世界に来て、初めて会ったレンバルトたちとアルムは会話することができた。もちろん魔術的な補助などは使っていない。
そもそも魔術は元素に働きかけて何らかの物理現象を起こすものであり、未知の言語同士を翻訳する魔術などなかった。少なくともアルムはそんな魔術を知らない。
文字もそうだ。アルムは、この図書館にある本が読める。もちろん、知らない単語は幾つもあったが、文章自体は読めるし内容も理解できる。
世界を渡った先で同じような言語と文字が使われている。これは世界が異なることからすれば、考えられない一致だった。
この世界では、アルムたちが魔術で実現していることの多くを科学技術で実現させていた。
アルムが体験した生活やこの街の様子を見る限り、この世界、少なくともこのドイツという国に関しては、イルミナよりも全体に生活水準が高いようだった。
イルミナでも魔術の素養に恵まれ高度な魔術を使用できる者や、王侯貴族、豪商といった金持ちなど、一部の人間は、この世界と同等か部分的にはもっと快適な暮らしをしていたが、魔術の素養が乏しい大多数の人々の生活は大きく遅れており、この世界での300~400年くらい前、いわゆる中世の時代とよく似たものだった。
そして、その生活水準と同様に政治形態も、ロセリアの国々の多くは、こちらの世界ではすでに時代遅れとなっている、封建制と呼ばれるものに近かった。その中でイルミナは珍しく、有力な魔術師たちによる合議による政治が行われていたが。
「アルムさん・・・?」
声をかけられて、本から顔を上げる。そこには一人の少女が立っていた。
背中の中ほどまで伸ばした金髪をゆったりと三つ編みに結い、アルムを見つめる瞳は少し濃いめの青。
確か、船の操舵室で航法士をしている娘・・・名前はそう、ヘレン・ミア・カナリスだ。
「こんにちわ、ヘレン。貴女も読書に?」
アルムはヘレンを見上げて挨拶した。
「えぇ。・・・メル様はご一緒ではないのですか?」
ヘレンは、辺りを見回しながら尋ねる。
「メルは今日もラジオと新聞の取材だとかで出かけた。エリスとロザリンドも一緒だ。・・・メルは嫌そうな顔をして引きずられて行ったな」
「それは・・・すごく嫌な顔をなさるでしょうね」
ヘレンはメルの顔を想像して笑ってしまう。
「それでアルムさんはここで読書というわけですか」
アルムは少し考える。船での様子からすると、ヘレンは教養もあり聡明な娘だと思う。この世界の人間は、自分のいた世界とどこか違うのか、メルやエリス以外の話もよく聞いてみたい。
「ヘレン、迷惑でなければ話し相手になってもらえないだろうか」
「いいですよ。私も少し退屈していたところですから」
にこりと微笑んで頷くと、ヘレンは閲覧用のテーブルに向かい側に腰を下ろした。
「ヘレンは図書館にはよく来るのか?」
「そうですね。ひとりでいる時は、だいたい図書館か教会です。ルームメイトのアメリアにはよくハイキングに誘われるのですが、私は運動は余り得意でなくて・・・」
ヘレンは少し自嘲気味に言う。ヘレンは確か、他のクルーたちと一緒に共同の宿舎に住んでいると聞いた。
「そうか・・・教会へも行くのか・・・」
ヘレンの言葉に、アルムは少し残念そうにつぶやく。
アルムの国、イルミナは正教会により一方的に異端と断じられ、討伐される立場に置かれた。この世界の教会の在り様はまた別なのかもしれないが、教会というものへの抵抗感は拭えない。
しかし、ヘレンは意外にも悪戯っぽく微笑みながら言った。
「教会では市民向けにお菓子作りや手芸などを教えてくれるんですよ・・・私、不信心者なので、お祈りは形だけです。親切にしてくれるシスターには内緒ですけど」
「ヘレンは神を信じないのか?」
「信じないとまでは言いませんが・・・あまり意識することもないですね」
ヘレンは、あっさりと肯定した。
「そうか・・・立派な教会があるから、もっと熱心に信仰されているものだと思ったが」
「あ、でも、私が普通ではありませんよ。ほかの皆さんは真剣にお祈りされていると思います」
ヘレンは、自分の考え方が一般的ではないことを自覚している。
「『神に祈っても、神は牢の鍵を開けてくれはしないからな』と言われて、素直に納得してしまった私は、ちょっとズレているかもしれません」
男のような口調を真似て言うと、ヘレンは苦笑した。
「・・・牢の鍵?」
ヘレンに似つかわしくない言葉に、アルムは一瞬、自分の理解している言葉の意味とは違うのかと思った。
「そう言ったのは、私の兄のヴィルヘルムです。・・・兄は海軍軍人なのですが、乗っていた軍艦を沈められて敵に捕まり、海の向こうの遠い外国で拘束されていました。でも、自力で脱走してドイツまで戻ってきたのです。すごいでしょう?」
ヘレンの口調は、少し誇らしげだ。
その兄はドイツに戻って程なくすると、また外国へ派遣され、また戻ったかと思えば今度は潜水艦に乗り組んでいる。
一回り以上も年が離れた、優秀ながら破天荒すぎる兄が、多感な時期のヘレンに与えた影響は大きかった。・・・いや、ある意味毒されていた。
大人しい箱入り娘だったヘレンを、女性には似つかわしくない飛行船乗りという道に進ませる程度には。それについては彼女の兄だけでなく別の共犯もいるのだが。
「あぁ、すごいと思う。ヘレンの兄君は決して困難に屈しない人なのだな」
「はい。自分の力でなんでも成し遂げる兄を尊敬しています。・・・それに、私が家を出て飛行船学校に入りたいと言ったときも、やりたいことをやってみろ、と応援してくれました」
意外にも兄を理解してもらえたことが嬉しくて、ヘレンは少し饒舌になる。
この話をして、すごいと言ってくれたのはメルとロザリンドくらいなものだ。・・・エリスとアメリアには純粋に驚かれ、そのほかのクルーにはちょっと引かれた。
「祈っても神が現実に何かしてくれるわけではない・・・か」
「少なくとも、今の時代はそうだと思います。まだ科学が発達していない時代は、神に祈ることで病気が治ったりする『神の奇跡』も信じられたのでしょうけど」
「・・・もしも、神を信仰することで何か現実的な恩恵が得られるなら、ヘレンも神を信じる?」
アルムのいた世界で、正教会は、魔術を神の恩恵と説き、民衆に恩恵を与えることで信仰と支持を獲得していった。
アルムの質問に、ヘレンは少し考える。
「そう・・・かもしれません。でも、もしそれで自分が神を信じるようになったらと思うと、少し嫌です。昔の自分みたいで」
ヘレンはテーブルに置いていた手を無意識にぎゅっと握りしめた。
「我が家は製鉄業を営む実業家で、それなりに裕福でした。生活に不自由はありませんでしたが、私はそれこそ大人の言いなり・・・両親や教師の言うことは正しく、それに従っていれば幸せに暮らせると当たり前に思っていました。カナリス家という箱の中で、何も考えず安穏と暮らすのが楽だったんです」
少し俯いて厳しい表情で言ってから、ヘレンはハッとしたように顔を上げる。
「あ、でも両親のことを嫌っているわけではありませんよ・・・。反対はされましたが、最後には、両親も私が飛行船に乗ることを許してくれましたし」
少し恥ずかしそうに微笑んで、ヘレンは続けた。
「アルムさんが言う、恩恵を与えてくれるから神を信じるというのは、それと似ていると思うんです。教会に信仰を捧げて恩恵を受ける。神や教会に頼り、その教えにただ従うことで安心して暮らせるのなら、それは良いことなのかもしれません。でも、それに頼る限り、教会という箱の中から踏み出すことはできないと思います」
「箱の中・・・か。なるほど」
アルム自身、イルミナの魔女として生きる以外をまるで考えなかった自分と、教会を信じて依存する民衆たちとは何が違うのか、魔術がないこの世界に来てみて、アルムはそう思うようになった。
魔女として魔術を極めたいと思ったのは本心だったと思う。でも、それすらもイルミナという箱の中だったとは言えないだろうか。
「そうか・・・箱から踏み出して、飛行船乗りになったヘレンは強いんだな・・・いや、強くなったのか」
アルムはつぶやいた。
「そ、そんなことないです。ただ・・・」
照れて顔を赤くしながら、ヘレンは慌てて手を振る。そして、少し恥ずかしそうに言った。
「・・・私は、メル様に憧れて」
「メルに?」
「はい。4年前、12歳の時でした。私はメル様にお会いしたから変われたんです」
それは、まだ戦争が始まる前、ツェッペリン伯爵が財界の有力者を招いて開いた空中パーティの席だった。
飛行船ハンザ号の客室で、地上の風景を楽しみながら食事と酒を楽しむ、贅沢な催しだ。
飛行船による旅の快適さを知ってもらい、事業の将来性をアピールし、出資を募るのが目的だった。
実業家の父に連れられて飛行船に乗り込んだヘレンは、たくさんの知らない大人たちの間で緊張していた。
美味しいであろう豪華な食事もろくに味がわからない。父は集まった有力者たちへの挨拶に忙しく、ヘレンは半ば放置されていた。
飛行船に乗ることを楽しみにしていたのに、来なければよかった・・・ヘレンは、パーティに疲れて、一人窓際の椅子でため息をついていた。
そんな時、一人の少女がどかりと隣の椅子に座った。ヘレンより少し年上だろうか。赤を基調とした豪華なドレスを着ていたが、その可愛らしい顔の眉間には深い皺が寄っている。
「お爺様のわからず屋・・・」
ぼそりとつぶやくと、後ろの壁にガツンと拳を叩きつけた。
「ひっ・・・!」
思わず身をすくめたヘレンに気が付いて、赤いドレスの少女は慌てて謝る。
「あ、ごめんなさい!・・・わたし、つい気が立ってて」
「メル様、少し乱暴が過ぎますよ」
穏やかな声に顔を上げると、青を基調としたドレスを着た少女が少し呆れた表情で立っていた。
「ごめんなさい、エリス。どうしても我慢ならなくて、つい・・・」
エリスと呼ばれた少女が、驚いて固まっているヘレンの側に膝をついてふんわり微笑む。
「驚かせてしまってすいません。でも、怖がらないで。お優しい方なんですよ」
「・・・はい」
遠慮がちに頷くヘレンに、メルと呼ばれた少女がすっと立ち上がって優雅に一礼した。
「わたしは、メルフィリナ・ルイーゼ・フォン・ツェッペリンです。本日は祖父の主催するパーティにご出席頂いてありがとうございます」
青いドレスの少女も続いて一礼をする。
「エリス・グライフと申します。メルフィリナ様のお側に仕えております。どうぞお見知りおきを」
メルフィリナ様と言えば、今日のホスト、ツェッペリン伯の孫娘のはず。慌てて椅子から立ち上がり、ヘレンも挨拶をした。
「わ、私は、ヘレン・ミア・カナリスです。本日はお招きありがとうございます!」
エリスの微笑みでせっかく解けかけた緊張が、再びヘレンの身体を固くする。
エリスは、近くのテーブルからジュースの入ったグラスを取ると、ヘレンに差し出した。
「メルフィリナ様は堅苦しいのがお嫌いなんです。ヘレン様も楽になさってください」
エリスの言葉に、メルもにっこり笑ってみせた。
「ヘレン様、飛行船の旅はいかがですか?」
「はい、静かですし、揺れもないし、とても快適だと思います」
メルの笑顔につられるように、ヘレンもようやく微笑む。
窓から外を見ると、船は、美しい田園風景の上を飛んでいた。
「わたし、いつか自分の手で飛行船を飛ばすのが目標なんです」
ヘレンの隣に立って外を眺めながら、メルは言った。
「でも、お爺様は女が船の乗組員になることは許さないって・・・さっきはそれでつい・・・」
少し悔しそうなメルの横顔を、ヘレンはじっと見つめた。伯爵家のお嬢様が、飛行船の乗組員になるなんて、ヘレンが考えても普通ではない。
でも、伯爵の意向に逆らっても、自分はこうしたい、と言えるメルをヘレンはすごいと思った。
そういえば、兄も騎兵隊に入れたかった父の意向に逆らって海軍軍人になったのだった。
それに比べて自分は、将来何がしたいのかなんて考えたこともない。
「メルフィリナ様、私はすごいと思います。女性の身でこんなに大きな船を動かそうなんて」
ヘレンは素直に思いを口にした。自分にはとても無理だけど、メルならいつか実現させるのかもしれない。そんな気もした。
「そんな大それたこと・・・私にはとても・・・」
「ヘレン様、もし良かったら、一緒に飛行船に乗りませんか?」
自信なさそうに言いかけたヘレンに、メルは笑いかける。
「女性は、飛行船を怖がって乗ろうともしない人も多いんです。でも、ヘレン様は今日、こうして乗りに来て下さいました。わたしは、それが嬉しいんです」
戸惑うヘレンの耳元に顔を寄せると、メルは声を落として続けた。
「お爺様がなんと言おうと、わたしは絶対に飛行船乗りになります・・・まだ、いつになるかわからないけれど、わたしは一緒に船を動かしてくれる仲間を集めるつもりです。その時は、ヘレン様も考えてみてほしい」
メルはそう言うとヘレンに手を振り、窓際から離れてパーティの輪の中に戻っていく。
ヘレンは、どう答えて良いかわからず、その背中を見送るしかなかった。
でも、メルが誘ってくれた飛行船乗りへの道には興味がわいた。今の自分にとっては大それたことだが、自分も努力すればメルと一緒に歩くことが出来るのだろうか。
その日ヘレンは、メルと一緒に飛行船の操舵室に立つ自分の姿を夢に見た。
そして2年後、ヘレンは兄の協力も得て両親を説得し、メルの名前で募集された飛行船学校の女子生徒に応募する。メルと再び会い、仲間になるために。
「私はあの時のメル様に憧れて、飛行船に乗ろうと思いました。・・・メル様はもう覚えていらっしゃらないかもしれませんが・・・」
少し寂しそうに言うヘレンに、アルムは気まずそうに視線をそらした。
「いや、それは本人に聞いてみたらいいんじゃ・・・」
「本人・・・?」
エリスはアルムの言葉に首をかしげる。
「覚えてるわよ。初めてわたしから誘った仲間なんだから」
後ろから聞き慣れた声がした。
「ひっ・・・!」
慌てて振り向くと、後ろの椅子に座っていたのはメルだった。
「ごめんなさい。取材が終わったからアルムを迎えにきたんだけど、ヘレンの話がつい気になって」
「メ、メル様、いつから・・・」
「うん、わたしが壁を叩いてヘレンを怖がらせたあたりから」
ほとんど最初からだった。ヘレンの顔が真っ赤になる。
「メル様、少し悪戯が過ぎますよ」
少し呆れた表情でメルの後ろに立っているエリス。あの時と同じ構図だった。
「ごめんなさい、エリス、何か楽しそうだったから、つい・・・」
エリスは、恥ずかしさで固まっているヘレンの側に膝をついてふんわりと微笑む。
「恥ずかしい思いをさせてしまってすいません。でも、メル様、嬉しそうでしたよ」
「・・・はい」
「ヘレン、もし良かったら、一緒に家に来ない?ランチにしましょう」
メルはヘレンに笑いかける。それは、あの時のメルと重なった。
あの時は、メルの誘いにただ驚ぎ、黙ってメルを見送ることしかできなかった。
しかし、メルに誘ってもらえたから、ヘレンは今ここにいる。
「ありがとうございます。・・・ぜひご一緒させてください」
差し出されたメルの手を取り、嬉しそうに笑ってヘレンは立ち上がった。
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