第13話 ロンドン爆撃

 1918年7月20日 ドイツ北部 ノルドホルツ海軍基地


 アフリカ飛行から戻って5ヶ月。L57号はおおむね1ヶ月に2回程度のペースで、北海に面したノルドホルツ海軍基地を拠点にドイツと各同盟国との間や東部戦線方面への補給物資の輸送を行っていた。

 シュトラッサーの配慮のおかげか、イギリス軍の飛行機に狙われる北海方面の偵察や西部戦線への輸送を命じられることはなかった。


 しかしこの日、東部戦線への輸送任務から帰還したL57号をノルドホルツ基地で待っていたのは、そのシュトラッサー本人だった。

 メルがシュトラッサー本人と会うのは、アフリカ飛行の命令書を受領した時以来だ。・・・半年ぶりくらいになる。・・・決して、会いたかったわけでもないが。

 L57号が格納庫に収容されると、シュトラッサーは、操舵室ゴンドラの側にやってきた。何事かと訝りつつも、司令官自らの来訪に、メルはクルーをゴンドラの前に整列させた。

 クルーたちの前に立つメルと、数歩の距離を挟んで向かい合い、シュトラッサーはクルーを見渡す。


「L57号の諸君、帰還早々で申し訳ないが、今日は新しい任務の命令を伝えに来た」

 シュトラッサーはそこで一旦言葉を切った。いつも表情をあまり出さない彼だったが、一番近くにいるメルの目には、少し苦しげな様子に見えた。

 しばらくの間、ためらうように沈黙していたシュトラッサーだったが、やがて、諦めたように口を開く。 

「・・・L57号は、来る8月5日に予定されているロンドン爆撃に出撃してもらう」

 苦渋とも言える表情で、シュトラッサーは言った。

 思わぬ命令にクルーたちがざわめく。当然だ、ロンドン爆撃は補給物資の輸送とは違う立派な戦闘行為だ。迎撃される可能性は極めて高いし、自分たちの落とした爆弾で、軍人でもないロンドン市民を殺すことになるかもしれない。

「待ってください中佐!わたし達は戦闘には参加しないというお話だったはずです!」

 メルは、シュトラッサーに抗議した。クルーたちを守るためには、絶対に承服できない命令だ。

「私は、君たちを戦闘に参加させるつもりはなかった・・・それは信じてほしい」

「では、なぜ・・・」

「今回の出撃命令は、帝国参謀本部から出たものだ。どうやらアフリカ飛行の成功が予想以上に英雄視され、国民の支持を得たことで、目を付けられたらしい。」

 成功すればワルキューレの再来と祭り上げ、撃墜されれば悲劇のヒロインとして戦意の高揚に利用される。輸送船であるL57号には武装も爆弾倉もない。それなのに爆撃任務に参加させるのは、そういうことだ。

 状況を考えれば、参謀本部は後者を望んでいるような気がした。そして、出撃すれば望み通りになる可能性は決して小さくはない。

「中佐、仰ることはわかりました・・・」

 メルは仕方なさそうにため息をつくと、ちらりと後ろを振り返ってクルーたちに小さく頷いた。

「・・・わたし達は本日をもって、軍を退役させていただきます」

 残念だがL57号とはお別れだ。いくら飛行船に乗るためでも、仲間たちを戦闘に巻き込むことはできない。飛行船に乗ることを全てに優先してきたメルであっても、そこは踏み越えられない一線だった。

 しかし、シュトラッサーは、メルの答えを予想していたように、首を振った。

「すまないが、今となっては退役も認められない」

「なぜです?!」

 メルは思わず叫んだ。シュトラッサーに詰め寄ろうとして、エリスに抑えられる。

「すでに参謀本部からの命令は発令されている。発令された命令を遂行しない場合、全員が捕らえられて軍法会議だ。命令違反や逃亡と認定されれば重罪・・・最悪の場合、銃殺刑もあり得る」

「そんな・・・ひどい・・・」

 逃げ道を塞がれ、メルは絶句する。生まれて初めて投げかけられた銃殺という言葉に、ざわついていたクルーたちも静まりかえっていた。

 命令を強制できなくては、軍は成り立たない。自由意志でいつでも軍を辞めることができるなら、誰が戦闘で命を投げ出すだろうか。状況によっては「死んで来い」と命令できるのが軍だ。しかも、今は戦時下。見せしめの意味も含め、命令違反に対する処罰は極めて重い。

 しばらくの間、誰も口を開こうとはしなかった。静まり返った格納庫に、何人かのクルーがこらえきれずに嗚咽を漏らす声だけが響く。

 メルも俯いて唇を噛んでいた。その体は小さく震えている。メルに寄り添うエリスは、彼女には珍しい、とても厳しい表情でシュトラッサーを睨んでいた。


「・・・諸君、聞いてほしい。今回の命令は、本当に申し訳ないと思っている」

 シュトラッサーが静かに話し始めた。

「・・・気休めにもならないかもしれないが、ロンドン爆撃は今回の作戦が最後だ。諸君は、今回だけ生き残ることを考えてくれればいい」

 シュトラッサーは寂しげな表情を浮かべて続ける。。

「これからの戦争は飛行機の時代だ。飛行船の兵器としての活用は、この戦争と共に終わる。巨大な格納庫、ガス施設、大勢必要な地上要員、あまりにも運用にかかる労力は大きく、兵器としてはぜい弱だ」

 飛行船を兵器として育て上げた第一人者が、自らそれを否定する。

 そして、不安げな表情を浮かべるクルーたちに目を向けた。

「しかし、長大な航続距離、余裕のある積載量、飛行機にはない飛行船の優れた利点は、民間の航空輸送でこそ活躍できるはずだ。海を越え、砂漠を越え、世界の各地へと人や物資を運ぶ。飛行船にはそれができることを、君達自身が証明した」

 戦争が終わったら、またルイーゼ号の時のように活躍してほしい、それはシュトラッサーの本心だった。

 飛行機の進歩により、飛行船はかつてのような無敵の空中艦隊ではなくなった。

 そんな飛行船の価値を、再びアピールするために実行に移されたのが、飛行機の航続力では不可能なアフリカへの長距離輸送だった。史上最長の長距離飛行の成功と、それを成したメルたち女性クルーの話題性もあり、期待していた以上に飛行船部隊のアピールは成功した。

 もう十分だ。こんな年端もいかない娘たちを利用し、ずいぶんと辛い思いをさせている。

 今回、参謀本部につけ込まれたのも、こちらの責任だ。・・・ならば、今度は我々が守らねばなるまい。


「無事に帰還できるよう、作戦計画には最善を尽くす。すまないが、もう少しだけ我々に付き合って欲しい」

 シュトラッサーは帽子を取り、クルーたちに深々と頭を下げると格納庫を出て行った。


1918年8月5日 夕刻 イングランド・ノーフォーク東方沖300km 北海洋上 高度5,000m


 日没の少し前、夕日に染まる空を6隻の大型飛行船が一路西へと向かっていた。。

 5隻は船体の背面以外を黒色で塗られた夜間爆撃船だったが、1隻だけサンドベージュの船がいる。

 黒い5隻はL53号、L56号、L63号、L65号、L70号、ベージュの1隻はL57号である。今回のロンドン爆撃は、この6隻により行われる。

 船隊の旗艦はツェッペリンX級ハイトクライマーのL70号。シュトラッサー自らが指揮官として座乗している。L57号よりも15mほど全長が長く、速度も速い最新鋭船だった。上昇限度は高度7,000mに達する。

 L57号を含むその他の5隻は全て同型のツェッペリンV級ハイトクライマー。爆撃飛行船隊としては最高の性能を誇る布陣であった。


 今回の作戦は、日没後、イギリス戦闘機を避けるため高高度でイングランドのノーフォーク地方上空に侵入、L57号はそこで直ちに爆撃を行い、単独で反転して北海へ脱出、そのまま帰路に就く。残る5隻はそのまま南下してロンドンを爆撃し、ベルギー上空を経て帰還する計画だった。

 当然、ロンドンに近づけば近づくほど発見される可能性は上がり、敵機の迎撃も激しくなる。そこで、L57号には、イングランド上空に入った時点で爆撃を行わせ、迎撃を受けないうちに速やかに脱出させるのがシュトラッサーの考えだった。

 ロンドンに向かう5隻が、迎撃を引きつける囮の役割も果たすのだ。


 シュトラッサーから計画を聞いたメルたちは、とにかく生還することを目標に置いて準備を進めた。

 万が一の被弾に備え、引火の可能性を少しでも減らすため、浮揚ガスの水素と燃料のブラウガスの搭載量は必要最小限に抑えている。

 L57号の貨物室には投下用のレールが4列敷かれ、50kgづつ80個の木樽に詰められた合計4トンのTNT爆薬が積み込まれていた。爆薬に仕込まれた衝撃信管の安全装置を外し、固縛しているワイヤーを外せば、レールに沿って外に転がり落ちていく仕組みだ。とにかく短時間で爆撃を終えて、離脱するのだ。


 ノルドルツ海軍基地を離陸して10時間、8月5日22時。

 夜の帳が降りた空を、6隻の飛行船は時速80kmほどの速力を保って進んでいた。

 飛行高度は5,000m。イギリス軍が主に使用する3インチ高射砲の有効射程外である。

 油断できないのは戦闘機だった。急速に進歩したイギリス戦闘機は、1918年になると高度6,000mまで到達できる性能を有するようになっていた。

 焼夷剤入りの弾丸を装備し、小口径の航空機銃による銃撃でも飛行船の水素に引火させることができる。


 胃を締め付けるような緊張に耐えながら、メルはL57号の操舵室に立っていた。

 シュトラッサーが自分たちを助けるためにできる限りのことをしてくれているのはわかっている。しかし、イギリス軍がL57号だけ見逃してくれるはずもない。

 明かりを落とした操舵室では、幾つかの計器が蓄光塗料の淡い光を放っているだけだ。

 航法デスクは光が漏れないよう暗幕で覆われ、ヘレンはそこに上半身を突っ込んで航法計算と作図を行っている。

 方向舵を握るリディア、昇降舵を握るアメリア、計器盤の前のイレーナ、側に控えるエリス、みんな無言だ。メルと同じように緊張に耐えている。

 アルムは操舵室の隅で壁に寄りかかり、目を閉じていた。

 出撃前、メルはアルムにフリードリヒスハーフェンの家へ帰って待つように言った。しかし、アルムは一緒に行くと言って聞かなかった。

 魔女の勘、だろうか・・・、メルがあの家に戻ることはもうない、そんな予感がしていたからだ。


 沈黙を破る声は、伝声管から響いてきた。

「こちら船尾見張り台、ティナです。後方から何か追ってきます!」

 最も聞きたくない知らせに操舵室が凍り付く。この高度に、飛行船隊以外の何かがいるとすれば、イギリスの迎撃機しかない。

 水素に燃料ガスさらに爆薬と、L57号の船体は爆発物の塊だ。運が悪ければ機銃弾一発で全ては終わる。

 メルはギリッと奥歯を噛みしめた。

「エリス、旗艦に信号!『テキハッケン、コウホウヨリツイビ』何度か繰り返して!」

 メルの指示に、エリスが約1kmの距離で左舷を並走するL70号の方に向け、カチカチと信仰灯を点滅させる。

「操舵室!こちら船尾見張り台、追ってくるのは複葉の飛行機です!数は2機になりました!後方から本船に接近してきます。距離約1,200」

「機関前進全速!」

 反射的にメルは号令した。L57号の全速は時速約115km。はたしてこれで振り切れるだろうか。

「L70号より返信・・・これは・・・作戦中止、撤退命令です!」

 エリスがL70号に点滅したモールス信号を読み取る。

 こうなれば、直ちに脱出あるのみ。洋上遠くまで逃げれば、航続力の短い飛行機は追って来られない。

「リディア!針路変更、取舵20、針路90へ変針!」

「了解、取舵20、針路90!」

「上げ舵10、高度6,000まで上昇します。全員、酸素供給開始!」

 二人の操舵手がそれぞれ舵を回す。ゆっくりと船が向きを変え始めたところで、操舵室ゴンドラの窓に迫る複葉機の姿が見えた。追いつかれる・・・!

 不意に、ゴォッと突風のような音がして、複葉機が大きく姿勢を崩し、高度を保てず落下していった。

 アルムがゴンドラの開口部を開き、外に向かって両手を伸ばしていた。手の中には、緑色の元素石。その手から幾何学模様の浮かんだ円盤状の術式が広がり、ぼんやりと輝いている。

 アルムが魔術を使ったと気付いたのはメルとエリスだけだ。飛行船で火はダメだとメルに言われたのを守り、風で複葉機を吹き飛ばし、姿勢を崩したようだ。

 翼の揚力で飛んでいる飛行機は、姿勢を崩すと高度を保つことが難しい。まだまだ非力なエンジンでは、再び上昇してくるまでは数十分かかる。

 しかし、相手は1機だけではなかった。続いて迫ってきたもう1機に、再びアルムが突風を放つ。

 不意の突風に姿勢を崩された複葉機が落ちていく。苦し紛れに機銃から放たれた曳光弾の光は、L57号からは大きく外れて軌跡を引いた。

 アルムの手の中の球が緑から透明に変わっていた。アルムはそれをポーチしまい、別の緑の球を取り出す。

「こちら背面見張り台!上空に敵機です!」

「なっ、まさか!」

 すでに上をとられているとは思いもしなかった。

 船体が邪魔で、ゴンドラにいるアルムからは敵機が見えない。魔術を当てることは難しいだろう。

「みんな、何かに掴まれ」

 アルムが叫ぶと、元素石を握った手をゴンドラの床に押し付けた。

 足元に巨大な術式が出現する。下から風が吹き上げ、L57号自体を急上昇させる。

 急激に迫ってきた巨体を反射的に避けてしまい、姿勢を崩した敵機がL57号の横を落ちていく。

 ただ、元素石はその1回で透明になってしまった。どうやら蓄えた元素を使い切ると透明になってしまうようだ。

 L57号の上昇にようやく弾みがついた。このまま高度6,000m超まで上昇すれば、追尾は簡単ではないはずだ

「メル、風の元素石はもうない。ここは空中だから地と水は使い勝手が悪い。あとは火だが・・・」

「ありがとう、アルム。・・・でも、火は待って。どうにもならなくなったら仕方ないけど」

「わかった、どうにもならなくなったら言ってくれ」

 ふぅと息をついて、アルムは操舵室の壁に寄り掛かる。さすがに少し疲れたようだ。


 作戦中止命令を受けて、船団はすでにバラバラになっていた。視界の中にいる1隻は、シュトラッサーの乗る旗艦L70号。あとの船は見えない。

 上昇を続けるL57号の高度は6,000mに達していた。

「メル様!新たに敵機が来ます!」

 エリスが叫ぶ。視線の先には、前方斜め下方から猛然と上昇してくる飛行機がいた。先ほどの敵機よりも少し翼が細長くスマートに見える。

 メルたちが知ることはなかったが、新たな敵機、イギリス軍の新型戦闘機AircoDH.4は、最高高度6,700m、高度5,000で時速200kmを出せる。飛行船の速度性能では逃げきれない。

「取舵一杯!」

 メルが号令するが、敵機の接近の方が速い。・・・メルの心臓を冷たい恐怖が鷲掴みにする。

「L70号が・・・!」

 迫ってくる敵機とL57号の間にL70号が割り込んだ。敵機の機銃が火を噴き、L70号の船体に点々と火花が散ったかと思うと、ボッと炎が上がった。

「・・・中佐!」

 メルは思わず叫ぶ。あっという間に全長200mを超えるL70号の巨体が燃え上がった。

 炎に照らされたL70号のゴンドラから、チカチカと信号灯が点滅する。

「メル様、L70号より信号・・・『ニゲロ』を繰り返しています・・・」

 エリスが辛そうに言う。一旦水素ガスに引火した飛行船は、もう手の施しようがない。炎が急速に船全体へと広がり、噴き出した水素が火柱に変わる。

 ぐしゃりと、自重に耐えきれなくなったL70号の船体が歪む。船首が下がり、巨大な火の塊となった船体が、夜空に赤い尾を引いて、真っ逆さまに落ちていく・・・。

 メルはL70号に・・・最期に自分たちを助けてくれたシュトラッサーに敬礼する。


 1918年8月5日22時20分。ドイツ飛行船隊を築き上げた名指揮官は、イギリスの空に散った。


「針路50へ変針。機関全速、限界一杯まで回して!」

 メルは敬礼していた腕を下すと、船を北東へ向けた。南から吹いてくる強い風に乗って陸から遠ざかる。

 一旦は退けた敵機も撃墜したわけではない。くずぐずしていれば、再び上昇して襲い掛かってくる。

 L57号は、暗い海の彼方へと消えていった。

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