第25話 聖女の治癒
ふっと目の前が明るくなった気がして、エリスはゆっくりと目を開いた。
板がはめ込まれた天井が見える。身体も痛くはないし違和感もない。どうやら天に召されたわけではないようだ。
目だけを動かして、周りを見回す。窓からは明るい光が差し込んている。もう朝になってしまったらしい。
ベッドの横に、愛しい栗色の髪があった。ベッドに背を向け、膝を抱えて座っている。
眠ってはいない。メルの瞳は虚ろに開かれ、じっと床を見つめている。
表情は抜け落ち、髪は乱れ、頬には涙の跡が残るひどい様子だった。メルをどれだけ心配させたのか、エリスは胸を締め付けられる。身動き一つせず、ただ座っているメルの姿は、痛々しかった。
メルに申し訳なくて、でも、メルの側に戻ってこれたことが嬉しくて、エリスの目からつっと涙がこぼれる。
手を伸ばして、メルの髪にそっと触れた。
「・・・!」
メルの身体がピクリと震えた。一瞬で、虚ろだった瞳に生気が戻る。でも振り向けなかった。
夜中、何度も声が聞こえた気がして振り向いて、そして落胆した。振り向いて、また気のせいだったらと思うと怖かった。
エリスの手が、優しくメルの髪を撫でる。いつも髪を整えてくれる大好きな手の感触、忘れるはずがない。
メルの目にみるみる涙があふれた。
「・・・エリス?」
恐る恐る、振り返った。ぼやけたメルの視界の中で、顔だけこちらに向けたエリスが微笑んでいた。
「おはようございます。メル様」
聞きたかった声だった。その声がもう聞けなくなるのが怖くて、一晩中震えていた。
「・・・エリス・・・エリス!」
ぎゅっとエリスの手を掴む。そして、エリスの手に頬を寄せた。ただ何度も何度もエリスの名を呼び、ポロポロと涙を流す。手に触れるメルの涙は温かかった。
「・・・よかった・・・わたしを置いていかないで・・・一人にしないで・・・エリス・・・」
「ごめんなさい。ずっと側にいると約束したのに・・・本当に、ごめんなさい。メル様!」
エリスはベッドから身を起こし、メルを抱きしめた。
メルは温もりを確かめるようにエリスの胸に顔を埋める。メルの顔に、エリスの涙が落ちた。
「いいの。エリスはわたしの側に帰ってきてくれた、それだけでいい・・・」
メルは上目遣いにエリスを見つめ、顔を近づけた。吐息が触れ合う。
「エリスは、ずっとメル様のものです」
どちらからともなく目を閉じ、そっと唇を重ねる。少しの血と涙の味がした。
しばらくして唇を離したメルとエリスは、ぎゅっと抱きしめ合い、声を上げて泣いた。
メルとエリスがいる部屋の前、扉を両側を挟むように廊下に座っている二人がいた。
右側にアルム。左側にはアリア。部屋の中のメルと同じように、床に腰を下ろして膝を抱えている。
黒と白、まるで部屋を守る門番のようだ。
休むための部屋は別に用意してもらったが、二人とも昨夜からずっとここに座っていた。
「アリア、あれは教会でも高位の者しか使えないという、特別な治癒だ・・・違うか」
アルムが話しかけた。膝に埋めていた顔を上げ、アリアは小さくうなずく。
「はい。そのとおりです」
「どうして、エリスを治せた?普通の治癒魔術とはどこが違う?」
アルムの治癒魔術はせいぜい止血に成功しただけで、エリスを救うことができなかった。しかし、アリアの治癒は、完全に傷を癒したばかりか、大量出血すら元に戻し、消えかけていたエリスの命を呼び戻した。
「教会で与えられる治癒の恩恵は、ふたつに分けられます。ひとつはアルムが治癒魔術と呼んでいるもの。これは本人の自己治癒を補助し、大きくその力を強化するものです」
「それはわかる。ただ、それでは、あれだけ血を失った状態から回復させることはできない。治癒魔術では、身体から流れ出し、失われてしまった血までは戻すことができないからだ」
アルムはそれしか知らない。だから、アリアの行った治癒が不思議でならない。ただ、自分の魔力を使った治癒というだけではない。何か根本的なところで違っている気がする。
「はい。もうひとつは、・・・治癒、つまり治すというより、元に戻す、復元と言った方が良いのかもしれません」
「復元?」
「はい。身体に刻まれた記憶をもとに、怪我をする前の状態に身体を戻す、それがもうひとつの治癒です。だから流れ出た血も、たとえ手足を失っていたとしても、元に戻せます。ただ、すでに死んだ者だけは治癒できませんが」
アリアは、淡々と答えるが、そのあまりに異質な治癒に、アルムは驚いた。
「それではまるで、怪我をする前まで時間を戻しているみたいに聞こえるな」
「そうですね。それに近いのかもしれません。だからこの治癒は、元素の力ではなく、わたくしの魔力で発動しなければならないのです」
魔力を直接使って発動する魔術、イルミナの転移魔術もそうだが、アリアの治癒も、通常の魔術で利用する4元素どの系統にも当てはまらない。言うなれば時間とか空間とかに属するものだ。
やはり、それだけの治癒を行える魔力を持つアリアは・・・。
「ルネアリア・・・お前は何者だ?」
アルムは低い声で問うた。
アリアは、俯いてしばらく沈黙していたが、顔を上げ、アルムの目をまっすぐ見つめる。
「もうお気付きでしょう・・・わたくしは正教会の聖女です。お見知りおきを。イルミナの魔女殿」
「そうか、やはりな・・・」
思った通りの答えに拍子抜けしたようにつぶやき、アルムはプッと噴き出した。
「どうしたのです。急に・・・」
真面目に答えたのに笑われ、アリアは困惑する。
「いや・・・イルミナの魔女と正教会の聖女が、こんな廊下の床に並んで座っているんだ。他から見たら、とても滑稽な絵面じゃないか?」
アルムは自嘲気味に笑いながら言う。
「・・・メルとエリスのことが心配でたまらないのに、何もしてやれない。魔女だ聖女だと言っても、所詮、そんなものかと思うと、可笑しくなった」
「そう、ですね・・・わたくしも、あとは祈ることしかできません」
アリアも力なく呟く。
その時、部屋の中から物音がした。思わず顔を見合わせ、中の様子をうかがう。
やがて聞こえてきた泣き声に、アルムとアリアは、ほっと息をついて身体を弛緩させ、壁に背を預けた。
それは、悲痛な慟哭ではなかったから。そして二人の泣き声であったから。
アリアが、目に浮かんだ涙をローブの袖で拭う。
泣き声に気がつき、心配そうにそれぞれの部屋から顔を出したクルーたちに、アルムは笑顔を浮かべて頷いた。
「もう大丈夫だ。しばらく二人きりにしてやろう。みんなもそれぞれ休んでおくといい」
クルーの表情にも笑顔が戻る。
アルムはドアの前から立ち上がると、大きく伸びをしながら、用意された寝室へと向かった。
メルとエリスが姿を見せたのは、昼を過ぎた頃だった。泣き疲れて、二人でしばらく眠っていたのだろう。
階下で待ち構えていたアルム、アリア、そしてクルーたちの姿に、恥ずかしそうに顔を赤くしたメルだったが、みんなの前に立つと、エリスとともに深く頭を下げた。
「このとおり、もう大丈夫です。みんなにとても心配をかけました。ごめんなさい・・・ううん、心配してくれてありがとう」
クルーたちから歓声と拍手が起こる。
そしてメルは、アリアに深く頭を下げた。
「アリア、あなたがいなければエリスは助からなかった。本当にありがとう」
しかし、アリアはやや厳しい表情を浮かべると、すっとメルとエリスの前に跪き、両手を胸の前で重ねた。それは、まるで神に祈りを捧げるかのような姿勢だった。
「狙われていたのはわたくしなのです。・・・巻き込んでしまい、本当に申し訳ありません」
昨夜までの、どこか怯えたような様子は影を潜め、アリアは静かに、しかしはっきりと言った。
「わたくしは、ルネアリア・アスクラピウス。正教会で聖女の称号を与えられています」
「アリアが・・・聖女様?」
確かに、エリスを救ってくれたアリアの治癒は特別なものだったと思う。
「はい。隠していて申し訳ありませんでした。エリスにも、本当に何とお詫びして良いか・・・どうか、気の済むように罰をお与えください」
跪いたまま、アリアはエリスに頭を垂れる。
「いいえ、アリアが私の命を救ってくれたと聞きました。ありがとうございました」
エリスもアリアの前に膝をついて微笑み、アリアの手を握る。
「私はメル様のお側に戻ることができました。だから、もういいんです」
「・・・どちらが聖女なのかわからんな」
ぼそりとアルムがつぶやいた。それを聞きつけたメルが、ふふんと胸を張る。
「エリスは、わたしの天使なんだから」
愛おしげにエリスを見つめるメルに、アルムは呆れた顔で肩をすくめた。
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