第4話 メルとエリス
1917年12月24日 フリードリヒスハーフェン ツェッペリン邸
L57号の訓練がクリスマスの休暇に入った冬の日、メルは、自宅の窓からぼんやりと外を眺めていた。
ボーデン湖を見下ろす丘陵地の中腹、フリードリヒスハーフェンの高級住宅街にツェッペリン家の屋敷はある。
伯爵家の本邸はドイツ中部のシュトゥットガルトにあるが、飛行船建造の本拠地としてこの街を選んだ伯爵が、ここでの滞在のために用意した別邸だ。
メルはエリスと一緒に、屋敷の離れだった建物に暮らしていた。
広い敷地にふさわしい立派な建物だった母屋は、5年前に焼け落ち、再建されていない。離れは母屋よりだいぶ小さいが、それでも二人で住むには少々広い。
窓辺に置かれた2人掛けのテーブル、メルの向かい側にエリスが座っていた。
エリスは、ゆったりとしたワンピースの部屋着姿で、裁縫用具をテーブルに広げて服を繕っている。
ふと、メルは窓から視線を離してエリスに話しかけた。
「ねぇ、エリス・・・」
「はい、何でしょう?」
繕っていた服をテーブルに置いて、エリスはメルを見つめ返す。
エリスはメルと同い年だ。
メルと同じように栗色の髪を襟元で切り揃えており、メルを見つめる瞳の色は、同じ緑。少し垂れ目で優し気な目元がメルは好きだった。
「・・・明日はクリスマスだけど、エリスは行きたいところはない?せっかくの休暇なんだし」
メルは、エリスにたずねる。
「メル様がお出かけになるのでしたら、ご一緒させてください」
微笑んで、エリスは答える。
予想通りの答えに、メルは苦笑した。エリスはいつだってメルのことを一番にしてくれる。
それはメルにとって、とても嬉しくて安心できること。でも、少しだけ罪悪感も覚える。
エリス・グライフは、孤児院から引き取られ、ツェッペリン伯爵家の令嬢であるメルの専属として付けられた従者だった。
主と同性で、同年代、似た背格好。貴族の子弟にそうした従者が付けられる目的は、単に身の回りの世話だけでなく、いざという時に主の身代わりになるためだ。
もしも主に身の危険が及んだ時には、主を逃がし、自らが囮となる。
エリスが早くに両親を亡くした孤児で、他に家族がいないことも、身代わりとして都合が良かった。
もちろん、メルはエリスを身代わりにするつもりなどない・・・でも、実際にそうなりかけたことはある。
そのとき、メルはエリスに頬を叩かれた。後にも先にもただ一度だけ。
それは、今から5年前。
ここに建っていた母屋が焼け落ちた事件があった日のこと。
メルがエリスと初めて会ったのは、事件が起こるさらに3年前、メルが10歳の時だった。
それまでよく遊んでくれたロザリンドが、ドイツ飛行船運輸会社でエンジン技師の見習いとして仕事を始め、メルが少し寂しい思いをしていた頃だ。
初めて身近に現れた同い年の女の子。エリスを紹介された時、自分と似ているようで違うエリスに、メルは興味をもった。
メルと同じ緑色の瞳、似た髪の色。エリスの方が少し小柄だが、遠目にはわからない。
でも、ちょっとクセ毛気味のメルの髪に対して、ふんわり柔らかそうなエリスの髪。
お転婆が過ぎてよくメイド長に叱られるメルに対して、おとなしく遠慮がちなエリス。
おずおずと挨拶するエリスの手を取り、早速庭に飛び出そうとして、メルはまたメイド長に叱られた。
最初は、お互いにどう接していいかわからず、なんとなくぎこちない日々だった。
そんな中、エリスは、ふとした時に不安げな表情を浮かべることがあった。
「エリス、何か心配なことがあるの?」
メルが尋ねても、ふるふると首を振って、うつむいてしまう。
エリスは器用だったし、よく気がついて、一生懸命にメルの世話をしてくれる。しかし、メルが近づけばエリスは少し後ずさってしまう、そんな距離感。
メルは、エリスともっと仲良くなりたかった。心配なことがあるなら、力になってあげたかった。
ある日、メルはエリスに言った。
「あのね、エリスは従者じゃなくていいんだよ。自由に暮らせるように、わたしが頼んであげるから」
エリスは従者だからわたしに心配事も言えないんだ。だったら従者じゃなければ、もっと仲良くなれるかもしれない。メルはそう思ったのだ。
でも、それを聞いた時のエリスの怯えた表情を、メルは忘れられない。とても悪いことを言ってしまった、直感的にそう思ったが、何が悪かったのかはわからなかった。
「エリス・・・?!」
エリスは、突然メルの足元に跪くと両手をついて平伏した。
「お願いします!・・・お嬢様、わたしをここにいさせて下さい。どうか、お願いします!」
「エ、エリス、一体どうしたの?!」
額を床に擦り付けんばかりに懇願するエリスに、メルは驚いた。慌ててエリスの手を取って立たせる。
真っ青な顔で涙ぐむエリスを椅子に座らせ、そっと抱き締めた。エリスの身体は震えていた。
「お嬢様まで・・・私を見捨てないでください・・・」
エリスが、ずいぶん前に両親を事故で失い、親の知人や孤児院を転々としてきたとメルが知ったのは、少し後のことだった。
大人の都合で簡単に見捨てられ、たらい回しにされる生活を何年も過ごし、エリスは疲れ切っていた。
しかし、メルはそれまでの大人のような理不尽なことは言わなかったし、エリスのことを気遣ってくれた。笑顔を向けてくれるメルの側は心地よくて、安心して暮らしていけそうな気がしていた。
だから、もしもメルに嫌われたらと思うと不安だった。だから、ついメルとの距離をとってしまっていた。
「エリス・・・わたし、もっとエリスと仲良くなりたかったの。ごめんね・・・驚かせて・・・」
エリスを抱き締めたまま、メルはエリスに囁く。
「お嬢様・・・」
ようやく安心したのか、エリスの身体から力が抜けた。
「エリス、もう不安に思わないで。わたしはエリスを絶対に見捨てない。・・・そうだ、わたしのこと、これからはお嬢様じゃなくて、メルって呼んで」
「え・・・あの・・・でも・・・」
エリスは戸惑う。当然だ。身分の違いは大きい。メルは良くても他の者が咎めるだろう。
「二人でいる時だけでもいいから、お願い。エリスにはメルって呼んでほしい」
「・・・はい、メル様」
ふわりと微笑んだ・・・出会ってから初めて見る、天使のような笑顔だった。
メルを見つめるエリスが可愛すぎて、メルの方が赤面してしまうくらいの。
・・・この時から、二人の距離は縮まっていった。
そして、事件のあった日、1912年2月23日。
この日は、ツェッペリン伯爵がベルリンへ出張するため、執事たちとともに昼過ぎに屋敷を出発し、屋敷にはメルとエリスのほか数人の使用人だけが残されていた。
伯爵を見送って、エリスとともに自分の部屋で過ごしていたメルは、夕刻前、外の様子が騒がしいのに気づいた。
窓の外に目をやると、屋敷の正門のところに人だかりができている。どうやら、門を力尽くで押し開けようとしているようだ。見ている間に門が倒され、数十人の男たちが前庭になだれ込んでくる。
激しくドアがノックされ、メイド長が部屋に入ってきた。
「お嬢様、お屋敷に暴漢どもが押し入りました」
いつも怖いくらい落ち着いているメイド長だが、さすがに彼女の声も緊張していた。
「どういうこと?」
「先日、旦那様が会社から解雇した連中が、逆恨みして押しかけてきたようです」
飛行船事業の成功で、急激に巨大企業へと成長したツェッペリン飛行船製造会社だったが、会社が大きくなれば労働争議とは無縁ではいられない。
しかし、会社の実権を握るのは、軍人気質のツェッペリン伯爵だ。
伯爵にとって、飛行船事業は営利ではなくドイツ国家のための崇高な事業であり、待遇改善を声高に叫んでストライキを起こすなど、己の使命を理解しない裏切り行為にも等しいものだった。
伯爵は、賃上げ要求を行う労働者たちに対し「脅しで生活改善を勝ち取ろうとする根拠がわからない」と、にべもなく要求を突っ撥ね、ストライキを行った労働者の大量解雇を行ったのである。
「文句あるなら、ベルリンまでお爺様を追いかけてくれればいいのに」
メルはエリスから受け取ったコートを着こみ、部屋から抜け出す。
「もうすぐ玄関にも暴漢どもが押し寄せます。お嬢様は早く裏口からお逃げください」
メイド長は、メルをエリスに託すと警察に通報するため電話室へと向かった。
メルはエリスと一緒に、様子を伺いながら裏口を通り屋敷の外に出る。
屋敷の向こう側から怒号やガラスの割れる音がして、一部からは煙と炎が上がり始めていた。どうやら屋敷に火をかけられたようだ。
二人は手を繋いで小走りに裏庭を抜ける。この先は裏門だ。
「おい、来たぞ。捕まえろ!」
不意に怒鳴り声がした。メル達が屋敷から逃げ出すのを見越しての待ち伏せだった。
意を決したように、エリスはメルの手を離し、生垣の影へとメルを押し込む。
「メル様、隙を見て逃げて下さい」
メルの耳元で囁き、少し悲し気に微笑むと、エリスは駆け出した。
「待って、エリス!」
メルはようやく気がついた。
エリスが着ているコートは、メルが普段の外出の時によく着ているものだ。
逃げるエリスを3人の男が追いかけている。手には武器代わりなのかレンチやスパナを握りしめていた。
少女の足で逃げ切れるはずもない。エリスはすぐに屋敷を囲む塀の間際に追い詰められる。
屋敷を燃やす炎が、エリスの顔を照らす。その表情は強張っていたが、しっかり顔を上げて毅然とした態度を崩さない。
「こっちへ来い!」
男のひとりがエリスの襟元を掴んで力任せに引き寄せた。
エリスは苦し気に顔を歪める。
「ツェッペリンのお嬢様、おとなしく一緒に来て頂けませんかね」
どうやら彼らの目的はメルの誘拐だったようだ。孫娘を人質にとれば、伯爵も要求を聞くだろうと思ったのか。
「・・・他の者には・・・手を、出さないでください・・・」
エリスは、首を絞めつけられながら、途切れ途切れに言う。
それを聞いた瞬間、メルの身体から血の気が引いた。
連中はエリスをツェッペリンの令嬢だと思っている。しかも、エリスはそれを否定しない。
このままメルの身代わりになるつもりだ。メルのコートを着ていたのも、そういうことだった。
「・・・そんな、エリス・・・」
もし、エリスがメルの代わりに誘拐されても、伯爵は犯人の要求を無視するだろう。
そうなったらエリスが殺されてしまうかもしれない・・・エリスが自分の側からいなくなってしまう。
そう思った時、メルはどうしようもなく怖くなった。
夢中で植え込みから飛び出すと、メルはエリスを掴んでいた男に体当たりしていた。
全く警戒していなかった一撃に、さすがに男もバランスを崩し、エリスから手を離す。
「メル様?!」
「エリス、怪我はない?!」
男が取り落としたレンチを拾い上げ、エリスを背中にかばう。
「メル様!いけません!お逃げください!」
「ツェッペリン家の娘は、わたしだ!・・・下がれ!」
唸りを上げて威嚇する猛犬のように、メルは男たちを睨み付ける。
男たちの一人が、メルに向かってスパナをを振り下ろす。
ガッと鈍い音がして、スパナの一撃を弾いたメルのレンチが地面に落ちる。
「くぅっ・・・!」
メルは痛みを堪えるように奥歯を噛みしめた。大人の男と13歳の少女では腕力が違う。打撃を受け止めきれず、衝撃で手首を痛めてしまったようだ。
「メル様、メル様・・・もうやめてください、私は・・・」
エリスの声は震えていた。
「ごめんね、エリス。・・・エリスを見捨てて逃げるなんてできない」
メルの手にはもう武器はない。メルの声も震えていた。
「くそ、殴っておとなしくさせろ。どっちの娘が本物かわからん、二人とも連れて行くぞ」
男のひとりが再びスパナを振り上げたのを見て、メルは男達に背を向けると、エリスの顔を胸に抱きしめ、覆い被さるようにしゃがみこんだ。
ピピーッ!笛の音がして、裏門の方からブーツの足音が近づてくる。
恐る恐るメルが顔を上げると、男たちは通報を受けて駆け付けた警官たちに追い散らされていた。
「よかった・・エリス・・・」
ようやく安心して、メルはエリスを抱き締めていた腕をほどく。
立ち上がろうとしたが、すっと気が遠くなり、そのままふらりと倒れた。
微かにエリスの悲鳴と自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
気が付いたのは、ベッドの上だった。
窓の外はすっかり暗くなっていた。しばらく眠っていたようだ。
窓の外には、黒く燃え落ちた建物の残骸が佇んでいた。どうやらここは屋敷の離れらしい。燃やされたのは母屋だけで、離れは無事だったようだ。
「痛っ!」
手をついて身体を起こそうとして、痛みに思わず顔をしかめる。
左の手首には包帯が巻かれていた。一応、動かせるところを見ると、骨折はしていないようだ。
手首をかばいながら起き上がり、ベッドの上に座る。メルは部屋を見回した。
部屋の中には、メル一人。ベッドサイドのランプがほの明るく部屋を照らしている。
身体を動かしたりあちこち触ったりしてみるが、手首を痛めたこと以外に怪我はなさそうだ。
しかし、エリスをかばい、警官隊に助けられた後の記憶がない。助かって安心したら気を失ってしまったのだろうか。
カチャリ・・・
静かにドアが開いて、人影が入ってきた。手には水差しとグラスの載ったトレイを運んでいる。
「エリス・・・?」
問いかけると、ぴくりと身を震わせた人影が、光の中に姿を見せる。
「メル様・・・!・・・良かった・・・」
慌ててトレイをサイドテーブルに置き、ベッドに駆け寄ったエリスに、メルは笑いかけた。
「エリスこそ大丈夫?」
「はい。でもメル様がお怪我を・・・申し訳ありません。私をかばったせいでメル様が・・・」
エリスはベッドの傍に膝をつき、目を伏せる。
「いいの。エリスが無事なら、わたしが怪我するくらい何でもない・・・」
言いかけたメルは、不意に頬に軽い衝撃を感じた。
パシッ・・・!
「え・・・」
メルは、間の抜けた声を漏らした。
あまりに驚いて、エリスに頬を叩かれたのだと気付くまでに、数秒かかった。
痛くはなかった。でも、エリスに叩かれるなんて初めてで、メルは頭の中が真っ白になっていた。
「エリス・・・?」
エリスは泣いていた。ポロポロと落ちる涙を拭おうともせず、メルの顔をまっすぐに見つめていた。
「メル様、そんなこと言わないでください。私のためにメル様が怪我をして、私が平気でいられると思っているんですか?メル様のおかげで無事です、ありがとうございました、なんて言えると思うんですか?」
叩かれたこと、そしてエリスの勢いに、メルは呆然としていた。
「お願いです。メル様、もうあんな無茶はしないでください。私にはメル様しかいないんです。もしもメル様に何かあったら・・・私は、もう・・・」
エリスの顔が恐怖に歪む。
あぁ、そうか、とメルは納得した。エリスも同じだったんだ、と。
でも、それならわたしの気持ちもわかってほしい・・・メルは思った。
メルだってエリスが自分の身代わりになったと気付いた時、どれだけ怖かったか。
「・・・わたしだって、エリスが殺されちゃうんじゃないかって思ったら、すごく怖くなって・・・」
言いながら、メルの瞳からも涙がこぼれる。
「エリスがいなくなるのは嫌だよ・・・わたしの身代わりになるなんて、もうやめて。お願いだから、ずっと側にいてよ・・・エリスぅ・・・」
「メル様・・・私は・・・ずっとメル様のお側にいます。約束です・・・!」
エリスは、メルの顔を胸に抱きよせた。そして二人はお互いに感情が溢れ、声を上げて大泣きした。
ひとしきり泣いてようやく涙が止まった頃、エリスが小さな声で言った。
「メル様、・・・私のわがままもひとつだけ聞いて頂けますか?」
「いいよ、エリス。わたしにできることなら」
エリスはメルの耳元で、その我が儘を囁く。・・・そのまま、いつの間にか眠りについていた。
翌朝、メルの様子を見に来たメイド長が目にしたのは、同じベッドで姉妹のように寄り添って眠る二人の姿だった。そして小さく笑みを浮かべ、そのまま静かに扉を閉めた。
あれから5年。焼けた母屋の残骸は片付けられ、跡地は広い空き地となっていた。
メルが母屋が建っていた場所を眺めていたことに気付いて、エリスはふと笑みをこぼす。
「メル様、あの時約束した私のわがまま、おぼえていらっしゃいますか?」
「もちろん。簡単に、いいよって言っちゃったけど、一生かけて果たす約束だなんて思わなかったわ」
メルは少し意地悪そうな表情で続けた。
「でも、エリスに置いていかれたら、わたしもすぐに後を追っちゃうかもしれないわね」
「それはいけません。メル様」
「ひどいよ、エリスだって、ずっとわたしの側にいてくれるって約束なのに」
メルとエリスはくすくすと笑い合う。
「エリス、明日は二人だけで出かけない?久しぶりに、デートしようよ」
「はい、メル様」
いつでも手を引いて、自分を導いてくれるメルを、いつしか姉のように慕っていた。
メルが倒れそうなときは自分が支える。メルの傍らは誰にも譲らない。
あの日のエリスの我が儘、それは・・・
「メル様、私よりも長く生きてください」
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