第6話 アフリカへ
1918年2月20日 早朝
フリードヒリスハーフェン ボーデン湖
まだ薄暗いボーデン湖に、山の稜線の上に顔を出した朝日からサッと光線が伸び、湖面を覆う冷気にたちこめる川霧が、朝日のオレンジに染まっていった。
2隻のタグボートに引かれてゆっくりと格納庫から湖上に滑り出たL57号の船体にも朝日が差し、霧のベールと相まって幻想的に巨体を浮かび上がらせていた。
5日前、シュトラッサーからアフリカへの物資輸送の命令が下りた。前回のL59号と同様、まずはドイツが確保している拠点の中で最もアフリカに近い、ブルガリアのヤンボル基地に向かい、そこで補給物資を積み込みを行う。
その後は、いよいよ地中海を越えてアフリカへと向かうことになるが、詳細な飛行経路は、船長であるメルに一任されていた。
タグボートの汽笛が2回鳴る。船体が格納庫から完全に引き出され、所定の位置に到着した合図である。
「全エンジン始動、各部最終チェックに入れ」
メルの指示で、1番から5番の各エンジンが順次起動されていく。重々しい音と振動が操舵室の床にも伝わってくる。
「気嚢内圧力正常、予備ボンベ充填確認」
「方向舵、昇降舵、動翼作動確認。異常なし」
「ジャイロコンパス、磁気コンパス、作動正常」
「こちら機関室、全エンジン始動確認。回転数安定。燃料積載量確認良し」
「背面見張り台、配置につきました。周囲に障害物ありません」
「船尾見張り台、配置につきました。周囲に障害物ありません」
各部からの報告が次々と伝えられる。
「メル様、各部異常ありません。離陸準備完了しました」
チェックリストで報告に漏れがないことを確認したエリスが、メルに伝える。
「ありがとう。・・・それじゃ、行きましょうか、アフリカへ」
メルは、表情を引き締める。
「これより離陸します。係留索離せ」
エリスが発光信号器でタグボートに合図すると、タグボートに結ばれていた係留索が外され、船内に巻き取られていく。
「係留索収容完了しました」
「バラスト20放出」
バラストタンクの水が湖面に放出され、ザーッと音を立てる。
気嚢を満たす水素ガスの浮力が、放出したバラストの分だけ軽くなった船体の重量を上回り、L57号は、ゆっくりと垂直に上昇をはじめた。
窓から見えるフリードリヒスハーフェンの町並みが少しづつ離れていく。
「高度100・・・200・・・トリム水平・・・高度計およびトリム計の作動は正常です」
安全な高度に達したところで、メルは機関室に指示を出した。
「プロペラ接続、機関前進微速」
エンジンとプロペラを繋ぐクラッチが接続され、ヒュンヒュンと風切り音を立ててプロペラが回転を始める。垂直に上昇していた船体に推進力が加わり、船は前に進み始めた。
「上げ舵10、機関前進第1速へ」
「了解、上げ舵10」
船尾がわずかに沈み込み、船体が上を向く。プロペラの生み出す推進力を利用し、L57号は力強く上昇を開始した。
「アップトリム10、昇降舵、水平に戻します」
高度2,000mまで上昇したL57号は、船首を南東へと向ける。
「機関前進第3速、本船はこれよりヤンボル基地へ向かいます」
ブルガリア王国ヤンボル基地まで飛行距離約1,600km、到着まで約20時間の予定であった。
フリードリヒスハーフェンを出発したL57号は、巡航高度約2,000mを保って、同盟国であるオーストリア=ハンガリー帝国領空を通過、その後、ドイツ軍により占領されているルーマニア王国中央部を南下し、ブルガリア王国領空に入る。
翌2月21日に日付が変わった真深夜過ぎ、L57号は予定通り、ブルガリア王国中部、ヤンボル基地上空に到着していた。
天候が悪化することもなく、また同盟国やドイツ占領地の上空を通過したため迎撃を受ける心配もなく、ここまでは順調な飛行と言える。
クルーは、交代で休息・仮眠をとり、到着の1時間前に全員配置について着陸準備に入っていた。
L57号の到着はヤンボル基地司令部に予告されていたため、基地の発着場はサーチライトで明るく照らされ、地上要員が待機している。
高度100mで発着場の上空に進入し、行き足を止めつつ、ゆっくりと発着場に降下する。
地上に降ろされた係留索が固縛され、船のウインチで張力をかける。
L57号のエンジン停止とともに、基地に夜の静寂が戻っていった。
基地では、燃料と浮揚ガスの補給、アフリカへ届ける物資の搭載を行う。作業は5時間ほどで完了し、明朝にはヤンボル基地を離陸する予定だった。
本当は基地でクルーに少しでも休息をとらせたいところだが、メルはクルーを下船させず、必要な作業を終えたら直ちに離陸することにした。
今回のL57号の飛来は大部分の一般兵には知らされていない。若い女性のクルーが基地内にいれば興味を引くことは間違いない。
中には良からぬことを考える輩がいないとも限らないだろう。クルーの安全が大事だった。
L57号に積み込まれるアフリカへの補給物資は、主に武器弾薬類と、ヨーロッパ製の酒・煙草など一部の嗜好品、合計6トン。貨物室の天井に備え付けられたホイストクレーンを利用し、物資の詰まった木箱が貨物室に積み込まれていく。
明朝の離陸に備え、積み込み作業の間、メルは少し仮眠をとることにした。
操舵室を出て、上へ向かう垂直の梯子を上っていく。操舵室ゴンドラを船体から吊っている円筒形の柱の中が船体とゴンドラを結ぶ通路になっていた。
長距離飛行に備え、L57号には簡易的ながらクルーの居住区画が設けられていた。場所は操舵室ゴンドラより少し後ろの船体底面である。そのさらに後方が貨物室に当たる。
決して広くはないが、3段ベッドの並ぶ仮眠室、休憩室、シャワー室、トイレが設けられている。
アルミ製の枠にキャンバス地の床が張られただけの仮眠室の三段ベッドは、上下の間隔が60cmほどしかなく、起き上がれば頭が上のベッドにつかえてしまう狭さだが、水平に寝られるのは有り難い。通常の軍用飛行船このような居住設備はなく、持ち場の隅で毛布にくるまって仮眠をとる程度なのに比べれば雲泥の差だ。
身体を丸めてベッドに転がり込んだメルは、ばふりと毛布を被る。思いのほか疲れていたのか、目を閉じるとすぐに眠りに落ちた。
補給と物資搭載を済ませたL57号は、2月21日の朝、ヤンボル基地を離陸した。
巡航高度の2,000mまで上昇し、南へと針路をとる。いよいよ、ここからが本番の長距離飛行である。
予定のルートは、同盟国であるオスマン・トルコ帝国の沿岸部を南下し、リビアとエジプトの国境付近めがけて地中海を横断。アフリカ大陸に上陸した後は、イギリスの勢力下にあるエジプトとスーダンの上空を最短距離で通過してさらに南下、ヴィクトリア湖の南の湖畔でフォアベック隊と邂逅する計画だ。
飛行距離は約4,900km。到着まで約60時間を予定していた。
「問題なのは、やはりサハラ横断ね・・・イレーナ、どう思う?」
地中海洋上を飛行するL57号の操舵室で、メルは浮力管理を担当する機関士のイレーナに尋ねた。
飛行船は、浮揚ガスである水素の浮力と船の重量をバランスさせて飛行している。このバランスは非常に微妙で、高度や気温によっても容易に変化し、必要に応じて浮揚ガスやバラストを調整しなければならない。
寒暖差の激しい砂漠地帯の飛行では、浮力の管理は重大事だった。
「今の予定では、夜明け前にアフリカ大陸に上陸してから、ほぼ一昼夜かけて通過することになりますね」
予定の針路が引かれた航空地図を前に、イレーナは航法士のヘレンが計算した地点毎の予定通過時刻を確認しながら言った。
サハラ砂漠は南北約1,800km。巡航速力を時速80kmとして、通過には約23時間を要する。
「昼間の気温は約40℃以上、夜にはほぼ0℃まで下がるとすると、計算上、寒暖差だけで浮力は1割程度変化します。私も砂漠飛行は初めてなので、手探りでの調整になりますが・・・」
少し考えたイレーナは、こくりと頷いた。
「巡航高度を高めに取り、ある程度の高度変化を許容できるようにしておけば、気温の変化に対する調節は何とかなると思います。本船は燃料にブラウガスが採用されたおかげで、浮力管理がかなり楽になりましたから」
イレーナは、そう言って笑った。
ブラウガスは比重を空気と同じに調整した石油気化ガスである。L57号では、気嚢区画の約3割ほどの容積を使って燃料用の気嚢が設けられ、気体の状態で搭載されていた。
これまでの飛行船の燃料は重い液体のガソリンだったため、燃料を消費するにつれてどんどん船が軽くなる。そのため、飛行中は絶えず微妙な浮力調整が必要となり、浮揚ガスのロスに繋がると同時に、浮力管理を担当する機関士にとって大きな負担だった。
その点、ブラウガスは比重が空気と同じのため、燃料を消費しても船の重量は変化せず、浮力調整が必要ない。これは浮力調整に頭を悩ませているイレーネにとって、素晴らしく画期的なことだった。
地中海を無事に横断したL57号は、アフリカに上陸すると、巡航高度を3,000mに上げた。どこまでも続くかに見えるサハラ砂漠の上空をひたすら南下する。
エジプトは敵国であるイギリスの勢力圏だが、L57号が迎撃を受ける可能性は少なかった。アフリカに展開するイギリス軍も貴重な航空機の配備は少なく、主に重要拠点であるスエズ運河周辺の防衛に回されているためだ。
人がほとんどいない内陸の砂漠上空を飛行するL57号の姿は、まだ目撃すらされていないはずだ。
「メル様、似合いますかー?」
舵を握るアメリアが、オーバルタイプのサングラスをかけてポーズをとる。
「なんか、無理に悪ぶってるみたいで、微妙かも」
思わず正直に言ってしまったメルの言葉に、ヘレンが吹き出す。
「えー、メル様、ひどいです・・・ヘレンちゃんもそんなに笑わなくても・・・」
砂漠上の飛行は砂からの照り返しが酷い。長時間、外を見る必要がある操舵手と見張りには、目を守るためにサングラスが渡されていた。
操舵要員でも、少しクールな雰囲気のあるリディアの方が似合っているとは、アメリアには言えない。
「ごめんごめん。軍からの支給品だから男物なのよ。似合わないのはアメリアのせいじゃないから」
「なんか誤魔化してないですかー?」
少し不満げに言いながらアメリアは前方に向き直る。
操舵室から見渡す限り、船の周囲はずっと砂と岩の荒野。いくら進んでもほとんど変化がない景色に、方向も距離もわからなくなりそうだ。
「アメリア、目標になる物があまりないから、コンパスに注意しててね」
「はい、メル様」
返事をしたアメリアは、緩やかに吹く風に流されないよう、舵輪を握る手に少し力を込めた。
まもなくヤンボル基地を出発して30時間。二日目の夕暮れが近づいていた。
ここまでで、行程の約半分を飛行したことになる。メルたちにとっても、これほどの無着陸飛行は初めてだった。
初めて見る砂漠に落ちる鮮やかな夕陽、眼下に美しく波打つ砂丘の陰影、不毛な死の世界という印象しかなかった砂漠が見せる美しい風景に、クルーたちは目を奪われた。
翌2月23日の昼過ぎ、L57号はサハラ砂漠を上空を無事に通過。
心配していた浮力調整もイレーナが見事にこなし、燃料や浮揚ガスの残量は予定よりも余裕を残していた。
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