5 逃走
「うまくいきそうねっ!」
夏樹はほくそ笑みながら、森の中をひたすら走った。
猪は、どうやら完全にタカヤに意識を持っていかれているようだ。離れていく夏樹よりも、接近してくるタカヤが、より危険な存在だと認識しているのだろう。
「とにかく、まずは距離を稼がないとダメだねっ!」
先ほど頭に叩き込んだ、森の沢筋へ向かうルートに沿って、夏樹はひたすら脚を動かした。
右手には《大樹の杖》、左手には《爆裂石・中》を持っている。少し走りにくさはあるものの、いつでも使えるようにしておく必要があった。
万が一接近されれば、《爆裂石・中》で時間を稼ぎ、精霊術を叩きこむ。余裕があれば《スネア》を、無ければ、キャストタイムの短い《濃霧》を使うつもりだ。
《濃霧》は、相手の視界をある程度妨害できる。ただでさえ視界が悪く、動きにくい森の中だ。平地で使うよりは、ずっと牽制の効果が期待できるだろう。
それ以上に、《スネア》なり《濃霧》なり、精霊術を浴びせれば、魔獣がまとう物理攻撃無効の霊素被膜を、一緒に剥がすことが可能だ。
物理攻撃が効くようになったからといって、夏樹だけで猪を倒しきれるかといえば、無理な話だ。
だが、杖で鼻面を打ち叩いて怯ませたり、《爆裂石・中》である程度の肉体ダメージを与えたりもできるようになる。
物理無効のままの現状よりは、取り得る選択肢が増える。
――ん?
マップ表示をチラ見すると、夏樹はある点に気がついた。
――タカヤを表す白い点が、どんどん後退していってるな。逆に、猪を表す赤い点が、僕を追ってどんどん近づいている……。
タカヤは、夏樹の追跡をやめたのだろうか。だが、苦労して見つけただのなんだのと言っていたので、そんなに簡単にあきらめるとも思えない。
――考えられるのは……、魔獣との対峙を避けるために、あえていったん引いたのか?
夏樹と猪とを戦わせ、両者疲弊したところに、あとから悠然と乗り込むつもりなのかもしれない。
弱った魔獣を退治しつつ、疲れ切った状態の夏樹をもさらう。あり得ない話ではない。
ただ、どのような作戦であれ、一時的にでもタカヤが離れてくれたのは、夏樹の精神面には、よいほうに働いた。
この場で魔獣に精霊術を放っても、いったん離れたタカヤが追い付くころには、リキャストタイム分はしっかり時間を稼げているはずだ。タカヤの存在を気にせずに、精霊術を放てる。
夏樹は、ほっと胸をなでおろす。
――でも、油断はできない。危険はまだまだ続いているんだ!
システムの警告音は、いったん消えた。魔獣にのみ、集中できる環境になっている。
とにかく、戦闘回避が第一だ。駆けて駆けて、駆け続けなければいけない。追いつかれてたまるものかと、夏樹は歯を食いしばった。
しかし、必死で逃げるも、背後から魔獣の足音が迫ってきた。
――くっ! どうしようか!
タカヤを気にする必要がなくなったとはいえ、魔獣相手への精霊術も、しっかりとタイミングを見計らわなければいけない。
まさに今が、《スネア》なり《濃霧》なりを、使ってしまうべき好機かもしれないと夏樹は思う。
足を止めて、背後へ振り返った。
――追いつかれる前に、《スネア》をキャストして待機するか……。
いつでも精霊術を放てる状態をキープし、猪の姿が見えた瞬間に発動する。これなら、猪側も精霊術への備えができていないだろうし、外す心配はないはず。
夏樹は《大樹の杖》を持つ右手に、力をこめた。
「うさっち、いくよ! 《スネア》!」
声を張り上げるや、杖の先が緑色にぼんやりと光る。
あとは、猪が現れたら、この光を足元に向かってぶつけるのみ。
「さぁっ! いつでも来なさい!」
夏樹はぐっと腰を落とし、杖を前に突き出しながら構えた。
激しい足音がどんどんと迫ってくる。
眼前の藪ががさりと音を立てた瞬間、猪が勢いよく飛び出してきた。
「食らえーっ!」
夏樹は杖を振り、《スネア》を猪に向けて放った。
放たれた光が地に触れた瞬間、猪の進行方向周辺の草草から、無数の蔦が伸びてきて、猪の足をからめとる。
「ブホッ!?」
猪は悲鳴とともに、激しい土煙を上げながら地面に倒れた。と同時に、《スネア》による緑の光が、倒れ込んだ全身を包み込こみ、パリンという音とともに、霊素被膜をも破った。
「よしっ! 今のうち!」
猪が行動不能に陥った様子を確認するや、夏樹はすぐに背を向けて、駆けだした。
――猪のタゲを外せるほどではないけど、ある程度の距離を取れるくらいには、時間を稼げるはず。もう少し進めば沢筋に出るし、あとはユウトが来るまで、樹上で何とか粘れば……。
生き延びる希望が見えてきた。
とにかく、デスペナルティーだけは食いたくない。
脳裏に、夏帆の遺品を手にしながら、不気味な笑顔を浮かべるタカヤの姿が浮かんだ。
おぞましさに、おもわず身震いが起こる。
夏樹は頭を振って、浮かんだ映像をどうにか消し去ろうと試みた。
「ハッハッ……!」
息を切らせながら、必死に走った。まだ、猪は動いていない。
少し開けた場所に出た。目標の沢筋まではあとわずか。
――もう少し頑張れば……。
夏樹は全身に力をこめ、もう一段ギアを上げた。
だが、その時――。
「え!?」
夏樹は突然、白い光に包まれた。
浮遊感に襲われ、足を必死に動かすも、前に進めない。
「ちょ、な、なにこれーっ!」
白い光はぐんぐん膨張していき、一気にぱぁんっとはじけた。
瞬間、憑依精霊術が解け、うさっちと分離した。
「ぴょんっ!?」
うさっちが、動揺したような鳴き声を上げ、地面に転がる。
夏樹も、浮遊感がふっと消えさり、必死で動かしていた足がもつれ、転倒した。
「いてて……。もう、なんなの!」
夏樹は悪態をつき、地面を拳で叩いた。
「ご主人様、精霊術を解除したぴょん?」
「してないよぉー。ほんと、意味わかんないっ!」
口にはいった土塊をペッと掃き出し、頭を掻いた。
カーディガンやワンピースについた汚れをはたきながら、夏樹はゆっくりと立ち上がる。
突然、前方の藪がざわめき立った。猪のいる側とは、真逆の方向だ。
「だ、誰っ!?」
夏樹は声を張り上げ、問いかけた。
だが、返事はない。
ここにきて、追加の敵だろうか。
ユウトだったら、無言のはずがない。
夏樹は地面に落ちた《大樹の杖》を拾い上げると、ぎゅっと握りしめる。
心臓がバクバクと早鐘を打っている。
うさっちも身体を縮こまらせて、震えていた。
――リキャストタイムは経過している。もう一度うさっちと融合すれば、精霊術が使えるけど……。
相手が何者かがわからない。
それに、強制的にうさっちと分離された理由も不明だ。下手に動けなかった。
藪がガサガサっと音を立てて揺れ、間から何か小さい物体が飛び出してきた。
「ぴょ、ぴょんっ?」
うさっちの悲鳴のような鳴き声が漏れた。とともに、不意にうさっちの姿が、視界から消えた。
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