4 這い寄る赤

「いてて……」


 夏樹は腰を押さえながら、起き上がった。

 ちらりと視線を上げると、猪は怒りに震え、鼻息をますます荒くしている。


 ――あっちゃー……。ますます状況が悪化したぞ。


 猪はすっかり興奮している。

 このままでは、執拗に突進を繰り返してくるかもしれない。


 ――ずっと避け続けるのも、現実的じゃない。いつかは大ダメージを食らいそうだ。何とか、木の上に逃げないと……。


 頭をフル回転させ、夏樹は打開策を探った。

 とにかく、木に登り切れるだけの時間を稼ぎたい。

 もう一度、相手の突進に合わせて《爆裂石・中》を使うべきだろうか。しかし、一度手の内を見せているので、避けられる危険性もある。魔獣は知能が高いので、決して侮れない。

 インベントリに入っているアイテムを、再度確認する。ほかに何か、使えるものはないだろうか。


 ――くそっ! 気ばかり急いて、妙案が浮かばない!


 猪は、再び突進体勢に入った。


 ――これ以上、考えている暇はないか。やるしかないっ!


 夏樹はアイテムインベントリから、素早く《爆裂石・中》を取り出した。今度は、ぜいたくに二個、いっぺんに使うつもりだ。

 時間差で投げつければ、たとえ一個目をかわされたとしても、二個目で確実にヒットさせられる。


「さあっ! かかってこーいっ!」


 夏樹は気合を入れなおし、猪を挑発した。

 挑発に乗った猪は、全身を激しく震わせ、地面を蹴った。


「くらえっ!」


 掛け声とともに、《爆裂石・中》を投げつけた。

 だが、やはり予測したとおり、猪は左に飛んで攻撃をかわす。

 一個目の石は、何もない地面の上で、激しい炸裂音を鳴らしつつ、砂煙を巻き上げた。


「今だ! これならどう?」


 二個目の《爆裂石・中》を、わずかに体勢を崩している猪の眼前に投げつけた。


「ブモォォォッッッ!」


 今度は命中した。

 鼻面に当たった石は豪快に破裂し、猪の姿勢を完全に崩した。

 地面との大きな擦過音を響かせ、猪は身体を滑らせながら、近くの別の木にぶつかった。


「よしっ、今のうち」


 夏樹は改めて木の幹に飛びつくと、するすると登っていった。


 ――うぅ、さっき買った《爆裂石・中》も、もう残り二個しかない。出費がきついな……。


 背に腹は代えられなかったとはいえ、かなり懐に響きそうだ。

 一戦闘に一個、使うかどうかのアイテムを、惜しげもなく三個も使っている。赤字間違いなしだった。

 だが、夏帆のアイテムを、デスペナルティーでロストするよりは、よほどましだろう。あのストーカー男の手に渡るような事態は、絶対に避けたい。

 夏樹は樹上の安定した位置を確保できた。これなら、かなりの時間を稼げそうだ。

 もちろん、猪に何度も何度も突撃されたら、いずれは根元から木の幹が折られ、倒れる危険性もある。いつまでも居続けられる保証はない。


 ――木の上にいるとはいっても、魔獣のタゲは外れていないし、ログアウトができない。ユウトが戻ってくるまで待とうにも、この木自体が、猪の攻撃に耐えきれるか怪しい。タカヤに追いつかれる可能性もあるし。


 とにかく、この場から離れて、ヴァルタの街に戻りたかった。


 ――《スネア》で猪の動きを止めるのはいいとして、さて、どこに逃げようかな。


 夏樹はマップ情報を確認した。拡大率を変更し、ヴァルタの街が見える縮尺に変更する。


 ――うわぁ……。タカヤのいる方角じゃないか、ヴァルタの街って。逃げる方向ミスったな。


 夏樹は頭を抱えた。

 最短距離でヴァルタに向かおうとすれば、先ほどタカヤに襲われたあたりを通らなければならない。

《スネア》の効果も、もう切れている。タカヤは間違いなく、夏樹を追っているはずだ。このまま最短コースで逃げようとすれば、途中で遭遇する可能性が高い。


 ――かなり遠回りをする必要があるなぁ。だいぶ遠く離れちゃったけど、ペア狩りの拠点にしていた沢筋に戻って、街に戻ったほうがよさそうだ。


 夏樹は大まかなコースを頭に叩き込んだ。

 沢筋に戻れば、ユウトとの合流も楽になるはず。


 ――ほかに手はない。やるしかないな!


 手のひらで頬を軽く叩き、気合を入れた。

 まずは、《スネア》で猪の行動を封じなければいけない。


「よし、いくよ!」


『おまかせだぴょんっ!』


 融合しているうさっちに声をかけ、精霊術のために精神を集中する。

 先ほどから、猪の突撃で何度も木が揺れたが、身体をしっかりと固定できているために、振り落とされる心配はなかった。


「発動! 《スネア》!」


 夏樹は《大樹の杖》を樹下の猪に向けようとした。

 ところが、その瞬間、激しいシステムの警告音が響き渡る。


 ――なっ! こんな時に!?


 夏樹は慌てて、《スネア》の発動を止めた。

 システム音とともに、視界にぱっと赤の三角マークが現れた。

 間違いなく、ストーカー男タカヤの接近警告だ。


 ――魔獣でいっぱいいっぱいのところに、タカヤまで追いついてくるなんて。運がなさすぎだろ……。


 自らの不幸を嘆き、夏樹はがくりとうなだれた。


『ご主人様、気落ちしている場合じゃないぴょん!』


 うさっちから戒めの言葉が飛んできた。


「そ、そうだよね。ここでまごついていたら、もっと状況が悪化しそう」


 夏樹はぶんぶんと頭を振って、気合を入れなおす。

 しかし、タカヤの接近が、状況を一層複雑化させたのは間違いない。

 このまま、猪に向かって《スネア》を使ってしまってもよいだろうか。夏樹は判断がつかなくなった。


 ――虎の子の精霊術だ。猪からの逃走のために、貴重な《スネア》を消費していいのか?


 タカヤに追いつかれた場合、精霊術なしでは不安がある。リキャストタイムまで時間を稼げればいいのだが、その余裕を取れるかどうかが、今の段階では何とも言い難い。


『ご主人様! 急ぐぴょん!』


 うさっちの声にも、だいぶ焦りの色がうかがえた。

 夏樹自身、胸がざわついている。こみ上げる焦燥感に、額から脂汗がにじみ出てきた。

 その時、樹下の猪に変化が見られた。

 木への突進をやめて、周囲をきょろきょろと気にし始める。


 ――なんだ? 注意が少し、僕から削がれたぞ。


 猪は鼻息をふんふんと鳴らし、夏樹に背を向けた。


 ――これは……。タカヤの接近を警戒しているのか?


 猪からのターゲットが完全に剥がれたわけではない。強制ログアウトができない状況に変わりはなかった。

 だが、わずかな光明も見えてきた。


 ――タカヤもプレイヤーキャラクターだ。魔獣にとっては、僕もタカヤも敵なのは同じ、か……。


 うまいこと注意を分散させられれば、《スネア》なしでも猪から逃げきれるかもしれない。夏樹は思考をフル回転させて、どうすべきかをあらためて考え直した。

 とにかく、魔獣とタカヤと、同時に襲われる事態だけは避けたい。挟まれて逃げ場を無くすのが、最悪の展開だ。

 魔獣やタカヤから離れるように駆け抜け、沢筋を目指すべきだと、夏樹は結論付けた。

《スネア》は使わず、精霊術は温存することにした。

 現状で、猪の注意は夏樹が二に対して、タカヤが八くらいになっている。未知の敵に対する警戒心が勝っているようだ。

 好機だった。

 夏樹は音を立てないようにするりと木から降り、魔獣やタカヤのいる方角とは反対方向に向かって、一気に駆けだした。


 ――逃げのびてやる! ストーカー野郎なんかに、絶対に夏帆の遺品を渡してやるもんかっ!


 夏樹はぎゅっと唇をかみしめながら、わずかに見える獣道を凝視した――。

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