中編/良い話と悪い話
八幡宮を突き抜けた真人と貴臣は、やがて開けた景色と、目前を横切る線路に、茫然と立ち尽くした。
「なあ、俺たち……ミダグナスを見失った?」
「ああ。ついでに、道に迷ったな」
スマホで現在位置の確認をした貴臣は、まるで余命を告げる医者のように、力なく首を振る。
「ここ、確かに山ではあるんだが、そんなにデカいわけではないらしい」
「そうか……」
真人は腕を組み、思案した。
肝心なのは、山の規模ではなく、ミダグナスが存在したことである。
「むしろ、山が小さいことの方が、探すのには好都合かもしれねえな」
「ん、どこかに電話か?」
スマホを取り出した真人に、貴臣が問う。
「先生のところだよ」
音声をスピーカー出力に切り替え、貴臣にも聞こえるようにしてやる。
『はい。真人さん、いかがされましたか?』
「俊丸さん。今、貴臣たちと南陽まで来ているんだけどさ――」
今回のいきさつと、羽の生えたミダグナスのことについて、掻い摘んで説明をした。
真人が話し終えると、俊丸は少し間を置いてから、言った。
『上山市が発端ということでしたね』
「そうだ。ただ、それもどこかから移動してきたものかも知れねえけど」
『さらに遡ることができる場所があったとするのならば……それはおそらく、蔵王の山でしょう』
「蔵王?」
尋ね返すと、彼は『推測が当たっていれば、ですけどね』と遠慮がちに笑った。
『山形県で虫にまつわる偉人といえば、『蚕研究の神様』とも称された平塚英吉氏などが有名ですが、新庄出身ですので、彼ではないでしょう』
「じゃあ、上山にまつわる偉人では、誰が?」
『白畑孝太郎氏――警察官として勤務する傍ら、昆虫採集に精を出した方です。その標本は天皇陛下から絶賛されたほど素晴らしいものだったといいます』
真人は感嘆の声を漏らした。
偉人の名前に心当たりこそなかったが、天皇陛下というワードが出ては、いかに無学とはいえど、その偉大さの尺度をおおよそ測ることができたからだ
『県立博物館の設立にも携わった方なんですよ』
「つくづく凄え人なんだな」
『そして、標本にはバッタやキリギリスなど昆虫全般が揃っているのですが、何より得意としていたのが、蝶です』
真人と貴臣は顔を見合わせた。
「蝶……ですか」
『はい。チョウセンアカシジミやワイモンルリシジミなどが挙げられますが、真人さんのお話を聞く限り、ミダグナスは、氏が保護に尽力したとされるウスバシロチョウをモチーフにしているのだと思われます』
通話の傍ら、貴臣が自身のスマホで検索をかけ始める。
『茨城などでは絶滅危惧種指定もされている貴重な個体です。薄く透き通った羽が特徴で、『ウスバアゲハ』の別名の通り、優美な蝶なんですよ』
同時に貴臣が見せてくれた画像に、息を呑む。
花にヴェールをかけたようだと思った。景観を一切損なわない慎ましやかな美しさは、なるほど確かに、虫への情念を掻き立てられるのも不思議ではない。
『御武運を。何かあれば、呼んでください。すぐに駆け付けます』
「サンキュ。その時は頼りにしてるぜ、センセ」
通話を切った真人は、貴臣とどちらからともなく伸びをした後、もう一度山の中へと繰り出した。
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第8話/中編 『良い話と悪い話』
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雪弥は流香の手を引いて、烏帽子山公園の中へと入っていた。
ふと、視界の端、木の上に映ったヒトガタに、身構える。
「――――ッ!?」
インロウガジェットを握りしめてから、しかし、すぐに指の力を抜いた。
視界にちらついたのは、公園のモニュメントでもある、花咲かじじいの人形だった。
背後でけらけらと起こった笑い声に、振り返る。
「へえ、バケモノと戦ったヒーローさんも、人形くらいでびっくりしちゃうんだ?」
流香が茶化すように窺ってくる。
未だ肌は青白いものの、さっきまでの蒼白としたものと比べれば、随分と血色が戻ってきているようだった。
雪弥はほうっと胸を撫で下ろす。
「安心した」
「安心? ……何、女の子守れて良かったとかいう王子様的なやつ? そういうの、流香は大嫌いなんだけど」
頬を膨らませた彼女に、雪弥は首を振る。
「君がそっちの顔を見せてくれていることにだよ」
出会った頃から気にはなっていた。
糺に対してのものは、気の置けない仲間意識からなる、ある種の馴れ馴れしさと断定していいだろうが、問題は、貴臣が好意を見せた瞬間の、引きつったような彼女の表情だ。
態度こそ慇懃としていたが、一線を引いていることに違いはない。
そう、まるで、父の存在に縛られていた頃の自分のように。
それが、闇邪鎧に襲われた時からというもの、口調も年相応の生意気さを露わにした。
平静を保てないところで見せる、人間の素。
「今の君が、本当の君……だよね?」
「意味分かんないし。キモいし。そのだるんだるんの口角、引き裂いていい?」
性質こそ真逆なれど、自身を偽る仮面を付けていたという意味では、理解もし易い。
雪弥は流香の張った防波線には気づかないフリをし、さらに踏み込んだ。
「さっき、輪廻の桜の前で言っていた事の意味、聞かせて。『愛なんて存在しない。単なる性欲でしょ』ってやつ」
流香の表情が強張った。
雪弥は確信を持った。
「…………話したくない」
「まあ、そうだよね」
努めて柔らかく、笑って見せる。
久々の仮面は、絶妙にフィット感の足りない、嫌な肌触りがあった。自分はこんなものを付けて、ずっと父の顔色を窺っていたのだろうか。
「じゃあ、先輩たちが戻ってくるまで、僕の話を聞いてくれる?」
「はあ……自分語りとか恥ずかしくないの? そういうのYoutubeでやってくれる? そして再生数が自分のクリック分しかない絶望を噛みしめて死んで」
「んー。じゃあ独り言。聞かなくてもいいよ」
「………………あそ。勝手にすれば」
花咲かじじいを眺める位置にある、小さな休憩所に腰かける。
隣にハンカチを敷いたが、流香はそれを無視して、もう一人分向こう側にちょこんと座った。
雪弥は苦笑しながら、ハンカチを仕舞う。
話したのは、自分の戦士としての生い立ちだった。武道のこと、父のこと、ジンスケ闇邪鎧との戦いのこと――
長い話になるかとも思ったが、話してみると、存外すぐに語り終えた。
「もう終わり? カップラーメンも出来てないんですけど」
「仰々しく脚色することでもないからね。聞いてくれるなら、頑張るけど」
「べ、別に聞いてないし!」
つんとそっぽを向いた後で、流香はスカートの裾をきゅっと握り締め、俯いた。
「聞いてないけど……次は、流香の番だし」
「うん」
雪弥は相好を崩して、彼女の横顔を見つめた。
「流香ね、男が嫌いなんだ」
「うん」
「うん」
「うん?」
「それだけ、終わり」
『文句ある?』と言わんばかりに尖らせた唇が可愛らしくて、思わず、雪弥は笑いだしてしまった。
「あははははっ、吉野川さんだって同じじゃないか。まだカップにお湯も注いでないよ、僕」
「っさい、ばかぁ!」
胸にぽかぽかと打ち付けてくる小さな拳を、何も言わずに受け止める。
しばらくして、流香は伏し目がちに言った。
「……『僕はどう?』とか訊かないんだね、キミ」
「出会ったばかりだしね。それに、こうして話してくれていることが答えだと思うから」
「うっざ。ヨユーってやつ? 流香より一個上だからってナマイキ」
「あっ……えっ、ごめん……なさい?」
「そうやってキョドるの、キモい。あんた童貞?」
「あのねぇ……」
雪弥は困惑した。そういう話が嫌なのかOKなのか、はっきりしてくれないだろうか。やりづらいことこの上ない。
「っていうか、僕の歳、知ってるんだ?」
「糺ちゃんから聞いてたから。楯岡雪弥っていう、居合の達人。糺ちゃんの一個下だから、流香の一個上」
「そっか、糺さんが、吉野川さんに……」
かねてよりの仲間に話してくれるほど、新たな仲間として認められたのだと思うと、中々に感慨深い。
しかし、そんな感傷も、流香に頬を抓られることで阻まれた。
「……流香」
「えっ?」
「だから、流香」
そう言ってから彼女は、一瞬だけこちらに視線を向けて、ぱっと逃げていく。
「別に勘違いしないでよね! 糺ちゃんが認めてるから特別待遇ってだけで! 別にあんたなんか――」
「流香ちゃん。僕は『あんた』じゃなくて、雪弥っていうんだ。糺さんから聞いているんだよね?」
「~~~~~~!?」
ほんの意趣返しに、流香は目を白黒させて飛び退いた。
雪弥はまた、安心した。
大丈夫。彼女は仮面を外したがっている。
女の子としてのものか、アイドルとしてのものか、あるいは。
一体何が彼女にそうさせたのかは判らないが、きっと、これまで雛市糺という良き友と一緒だったことが、何かしら、良い地盤を築くために作用したのだろう。
そんなところへ、話し声が近づいてくるのが分かった。
一般の観光客だろうか。葉桜になりかけの木々を見ながら歩く、自分たちと同じくらいの歳の男子が三人。
ふと、背中に何かが触れる感触がした。
すぐに、指だと気付いた。
流香が隠れている……?
「(知り合い……?)」
「(学校の、同級生)」
雪弥はそれを受けて立ち位置を変えようとしたが、残念ながら、時は既に遅かったらしい。
「なあ、あれ、吉野川じゃね?」
「マジだ。なんだ、彼氏と一緒?」
「でもおかしくね。『つや姫』って、あくまで活動休止なんだべ? 彼氏とか作っていいのかよ」
「うわ、サイテーだ。ビッチだ!」
彼らは流香から距離を取りながらも、女性に対する蔑称のコールを始めて憚らない。
「ちょっと、君たち!」
雪弥が声を荒らげるも、彼らからすれば、自分も『アイドルと付き合っている男』という認識下にあるらしく、火に油を注ぐだけだった。
「「「ビッチ! ビッチ! ビッチ! ビッチ! ビッチ!」」」
罵る声は、さらに烈しく燃え盛り、
「いやあああああああああ――――――!!」
ついに悲鳴を上げて、流香が逃げ出してしまった。
「流香ちゃん! そっちは駄目だ!」
山の方へと遠ざかる背中に手を伸ばす。
そこに、下卑たニヤけ面が三つ、割り込んでくる。
「道を空けてください」
「え、何、やんの? 彼氏さんよ」
素人同然のファイティングポーズを取る少年たちに、雪弥は白い眼を向ける。
「アイドルに手ぇ出しちゃう気分はどうですかー?」
こんな奴らも、彼女の仮面の一端なのだろうか。
「怪我しちゃっても知らないよ?」
「…………道を空けろ」
「あン?」
「道を空けろと言っている!!」
気圧された少年たちは、及び腰ながら「何熱くなっちゃってんだよ、マジウケるんですけど」などとのたまっている。
……そうか。君たちは、その程度なんだな。
「(糺さんが一緒でなかったのは幸いか)」
彼女が居たら、彼らは今頃地面に這い蹲っていることだろう。
その光景を想像して苦笑し、そんな妄想で留飲を下げている自分にまた苦笑しながら、雪弥は走り出した。
* * * * * *
山を一回りしていた糺は、烏帽子山八幡宮の境内裏手にまで戻ってきたところで、がっくりとうなだれた。
しかし、こちらは真人たちが入山した方向だ。彼らにも出くわさなかったことは、一体どういうことだろうか。
「ニアミス……? いえ、あるいは」
瞳を閉じ、耳を澄ます。
戦闘の音は聞こえない。
鼻に神経を集中させる。
雪弥が戦ったらしい焔の焦げ臭さが僅かに残っているが、その他はよく分からなかった。
「雪弥くんと流香は――」
そういえば、どこに行ったのだろう。
「いいえ。それどころじゃないのよ」
ごめん、と小さく呟いて、再び道なき道を戻った。
どれほど時間が経っただろうか。
幹に印を付けた木を中心に行ったり来たりしていると、声がした。
「捜してるのはオレだろ?」
「あ……あ……」
待ち望んだ声に、糺は立ち尽くし、息を呑むのも忘れた。
会いたかったという言葉も、声にならなかった。
「『久しぶりじゃねえか』とでも、言った方がいいかねぇ?」
目の前に飛び降りて来た姿に、また震える。
ギラギラと主張の激しい装飾が目立つライダースジャケット。
獅子のように威風を払う長くしなやかな髪。
どんな相手にも屈さない、真っ直ぐな瞳。
「雛市糺……だったか。良い話と悪い話、どっちから聞く?」
「良い、話……?」
「チッ、それは回答か? 質問か? はっきりしろよアバズレ」
「なっ……」
おおよそ彼女の口から聞くとは思わなかった言葉に、糺は目を見開いた。
確かに荒っぽい口調ではあった。しかし芯は優しさに溢れていて、誰かを小馬鹿にすることなど絶対にない。それこそ、仕事をした関係者からは、彼女こそ最も礼儀正しい良い子だったと、マネージャーにお褒めの言葉を伝えられるくらいだった。
「違うとでも? あんだけ男引き連れてよ、昔のあんたからは想像もできねぇよな」
「貴女こそ、やっぱり……違うのね」
糺は悔しさに歯噛みした。
頭では分かっていた。分かっていたのだが、しかし。
こうして現実として直面すると、胸に来るものがある。
「ああそうさ、今のオレはハチモリってんだから。だが良い話。今日は五月蠅ぇカイバミのババアもいねえし、機嫌が良いから特別に教えてやる。どうやらこいつの中では、随分とあんたの比重がデカいらしい。両想いだ、良かったな」
「ああ……凛っ!」
膝を突く。天を仰ぐ。ただただ、慟哭のままに咽ぶ。
良かった。本当に良かった。
目の前の『鮭川凛』の
「あーダメだ、せっかくわざわざ面見せてやったってのに、マシに話もできやしねえ」
そんな糺の姿をシラケたように一瞥して、ハチモリと名乗った女は身を翻す。
直後、一陣の風が巻き起こったかと思うと、彼女が立っていた場所に天狗が降臨していた。
「ンでこっちが悪い話……まあオレにとっちゃあ良い話だが。今からあんたを
そう言ってハチモリは腕を振り上げ――
「ああクソッ!」
鋭い爪を振り下ろそうとする手を、止めた。
「苛々するンだよ。記憶の中にテメェがチラつくのはよォ!」
ハチモリは掌で顔を覆い、足元の落葉を土ごと蹴り上げ、暴れている。
糺は見ていられなくなり、いやいやと首を振った。
「お願い、凛! どうすれば戻ってくれるのっ!?」
「ああン!? 知るかよクソが! オレを倒せばいいんじゃねェの? ……尤も、依代であるこいつがどうなるかは知らねえし、知ったこっちゃねぇけどな!」
咆哮とともに旋風が吹き荒れる。
糺は体を吹き飛ばされた。
木の幹に叩きつけられ、息が詰まる。
「ケッ、ヒヒッ、アーハッハッハッハ! どうやら殺すことはできねえが、痛めつけることはできるらしい、なァ!」
「かっ……は…………」
蹲ったところに腹を蹴り上げられ、糺は胃の中のものを吐き出した。
「依り代になった女も今一歩及ばなかったな! 半殺しにして捨てておけば、人間なんて脆弱な生物、衰弱で死んじまうってのになあ!」
「お願い……凛を……返して…………」
「あー? だから、オレを倒せっつってんだろうが。変身しろよ、クソザコナメクジ」
軽く振り払うだけの裏拳。しかし異形のそれを生身で受けたともなれば、威力もすさまじい。
顎が外れるかと思った。
頬が熱を持ち、涙がじんじんと染みる。
きっと今は、アイドルらしからぬ顔をしていることだろう。
けれど、それでも――
糺はインロウガジェットに触れることすらなく、ハチモリに縋り続けた。
* * * * * *
「きゃああああああっ!?」
流香を追って入った山の中で、雪弥は尋ね人の悲鳴を聞いた。
先ほど逃げ出したときとは別種の、逼迫した悲鳴だった。
インロウガジェットを手に足を速める。
「流香ちゃん!」
蹲っている背中に駆け付ける。
肩越しに彼女の手元を見て、雪弥は血相を変えた。
「嫌、嫌っ! 起きてよ糺ちゃん!」
糺が傷だらけで倒れている。
息はしているようだが、文字通り、満身創痍だった。
全身の傷の具合を目視で確認しながら、雪弥は違和感に眉を顰めた。
糺のポケットの中に、インロウガジェットがねじ込まれたままになっている。
「(変身できないままにやられた……?)」
だが一体何者が。
視線を巡らせる雪弥だったが、その答えは向こうから飛び込んできた。
「新手かよ。……ああ? そっちのチビの方は知ってるぞ」
「えっ、流香のこと……?」
境内で見た蝶型闇邪鎧とは別の、天狗型の異形。
その視線が流香を捉えている隙に、雪弥は飛び上がった。
「オラ・オガレ!」
《バラ!
ゴテンマルを帯刀すると同時に腰を引き、刀を抜き打つ。
しかし、天狗はそれを確かに眼で見切り、首を捻るというワンアクションだけで躱してしまった。
「なるほどなるほど、良い太刀だ。だがジューリエットのバルコニーには届かねえぞ、
「くっ……。ならば、もう一太刀をくれてやるまで!」
「気勢気迫気概、良し。嫌いじゃねえ。だが――」
一瞬、天狗が嗤ったような気がした。
「脇ががら空きだぜ?」
「な――っ!?」
死角から飛び込んできた透明の翅の蝶型闇邪鎧に、ゴテンは地を転がる。
二体一。
片や確実な強者。片や未知数の強者。
頭部アーマーの中で、雪弥は冷や汗を禁じ得ずにいた。
せめて糺と流香だけは守るべく、武刀王ゴテンという銘の刀の背に、彼女たちを庇う。
「流香ちゃん、糺さんの介抱をお願い!」
「えっ、でも……何これ、わかんない、意味わかんない!」
「しっかりするんだ! 君が必要なんだよ!」
「おいィ、イチャイチャしてんじゃねぇぞコラ!」
「くっ……頼んだよ、流香!」
ゴテンは天狗の蹴りを受け返しながら、叫んだ。
* * * * * *
意味わかんない。意味わかんない。意味わかんない。
久しぶりに、糺ちゃんに会えただけなのに。
ちょっぴりだけ嬉しくなって、他の人も一緒で緊張したけれど、道案内も楽しかっただけなのに。
ただ、それだけなのに。
もう一度、そっと糺を揺り起こそうと試みる。
けれど、瞼はぴくりとも動いてくれない。
何でこんなことになってんの。
一度だけ、糺が倒れているのを見たことはあった。
咽せ返るような暑い夏の日、ダンスレッスンの途中で失神したのだ。
ターンを決めるところだったから、斜め後ろの立ち位置から見てるだけでも痛そーなくらい、凄まじい角度でフロアの床に激突していたっけ。
あの時は床との摩擦熱で多少の怪我をしたくらいで、無事、事なきを得た。
けれど熱中症と、頭を強く打ったこともあって、すぐに病院に運ばれたから、ほんとうに、一時はどうなることかと思ったけれど。
ベッドの脇で『死なないで』って言ったら、ちょうど目を覚ました糺ちゃんは、
――ヘイ、勝手に殺さないでくれるかしら。
そう言って、はにかんでくれた。
けれど、今の状況はまるでワケが違う。
普通に生活している中では、まず負うことのないだろう傷。
血もたくさん出てる。
あの時よりも濃厚で、確実な、死の臭い。
咽せ返りそうという点において、うだるような暑さよりも嫌なものがあるとは思わなかった。
「糺ちゃん! 糺ちゃん!」
ヤバい、死んじゃう。
おずおずと顔を上げる。雪弥がバケモノと戦っている。
持ちこたえているけれど、素人目にも、押されているということは分かる。
今、糺ちゃんをどうにかできるのは、私だけ。
それは、つまり。
流香が何もできなかったら、本当に死んじゃう……?
――君が必要なんだよ!
「分かってるし。そんなこと」
とりあえずカーディガンを脱いで、一番酷そうな怪我に押し当て――ようとしたけれど、ヤバそうなの、一つだけどか、そういうレベルじゃない。
立ち惑う。
これが今、糺ちゃんのいる世界なのだろうか。
もしかして、これが『つや姫』の活動休止に関わる理由なのだろうか。
意味……わかんない。
――頼んだよ、流香!
「うっさい、呼び捨てにすんなぁ……ばかぁ!」
涙をぐしぐしと拭いながら、カーディガンを引っ張る。
生地を伸ばし切ってもなお、頑張って引っ張り続けたら、裂けてくれた。
歪な切断面を取っ掛かりに、もう二つほどに千切る。
糺ちゃんを揺さぶったときについた血と、自分の涙と鼻水塗れのカーディガンでごめんだけど、他になんにも浮かばないから。流香、馬鹿だから。ごめん。
どうか、これで止血になって。
「お願い、死なないでよぉ!」
手を握り、祈る。
すると、かすかに握り返される感触があった。
「…………ヘイ、勝手に殺さないでくれるかしら」
* * * * * *
ゴテンは地面を転がされながらも、勝機を窺っていた。
天狗の力こそ怖ろしいものがあるが、蝶の方はまだ、何とかなりそうだ。
勝ちとまではいかないが、戦況を変える一端にはなるか。
「死中に活を求める!」
《バラ!
「
「――待って!」
焔のバラが大輪の花弁を開く中、弾ける火の粉の奥に、声を聞いた。
「お願い、雪弥くん。そいつを……倒さないで」
それだけ言って、糺はまた、力なく崩れ落ちた。
「えっ、ちょっと糺さん!?」
再び倒れたことも心配ではあるが、何よりも、彼女の言葉が重すぎる枷となっていることに、ゴテンは刀の柄に手をかけたまま、動けずにいた。
「(そいつとは、どっちだ……?)」
境内での戦線離脱を振り返れば、蝶型の方ではない、と考えていいかもしれない。
だが、しかし。
もしも、蝶を倒すことで、天狗にも何かしらの影響があるとしたら?
迷っている間に、膨張した熱気が、刀を通して急かしてくる。
「くっ――『焔薔薇』!」
ゴテンは飛び退って間合いを切り、斬撃ではなく、焔のエネルギーだけを当てることにした。
「ぐっ……チッ、炎ってのは、どうも相性が悪いなチクショウ!」
天狗が苛立たしげに吐き捨てる。
致命打を撃ち込むことはできなかったが、期待以上のダメージを与えることには成功したらしい。
「雪弥!」
真人の声に、振り返る。
「チッ、多勢に無勢か。ワンチャン潰せるが、炎使いがまだいるならヤベえ。一旦退くぞ、コウタロウ!」
ゴテンが視線を外した隙に、天狗たちは森の奥へと姿を消してしまった。
「遅くなってすまねえ。無事か?」
真人と貴臣の姿に安堵したゴテンは、ふうっと緊張を吐き出してから、変身を解いた。
「ええ、何とか。それよりも、糺さんを」
「糺……?」
そう言って雪弥は、流香の腕の中でぐったりしている糺を見やった。
――後編へ続く――
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