第1話『紅拳の若武者』

前編/印籠と少女と紅花の戦士


――山形県天童てんどう市・舞鶴山まいづるやま



 未だ満開には早い桜の樹と、おぼろげな月明かりに誘われるように、ヨウセンは歩を進めていた。街の灯りも消えて久しい夜半、供をするのは虫の鳴き声だけだ。


 舞鶴山中腹にある広場には将棋盤を模した石畳が敷かれている。駒の位置を示すために算用数字とやらが刻まれているが、どうにも慣れぬ。足を乗せれば乾いた音がした。地に着いているのだという実感に、思わずほころぶ。


 ふと、着物の袖が風に揺らいだ。髪にまで染み付いた苔生す紫毒のこうの隙間から、桜花の柔らかい匂いが頬を撫でていく。



 将棋盤の『王将』の位置で足を止める。

 背後に梅の香が立った。懐かしいものだ。



「カイバミか」


「は。お帰りなさいませ、ヨウセン様」



 『金将』に現れたカイバミは、人面魚を依代とした蒼き竜神である。人間には異形と呼ばれる姿形でこそあるが、何百年経とうと、水精霊を想わせる美しさには褪せる気配がない。良き女だ。



「苦労。他の者は?」


「「ここに」」



 荒々しいものと、しゃがれたもの。二人の男の声がした。



「ツノカワとゼンナミか。うぬらも苦労」


「「はっ」」



 筋骨隆々として、立派な角――片方は折られているが――を誇る紅の竜神がツノカワ。ツチノコの骨を依代とした、底の窺えぬ狡猾な老呪術師が、黄色の竜神・ゼンナミ。彼らはそれぞれ『飛車』と『角行』に跪いている。



「おトヤは、また籠っておるのか」



 ヨウセンが空席の『銀将』を一瞥して言うと、益荒男が唸った。



「奴はどうも軟弱で仕方ねえ。どうして死人しびとなんざ依代にしたのかね」


「言ってやるなツノカワよ。このような時間に、子供二人と女子一人を連れ歩くわけにもいかんじゃろ?」


「ハッ。子守りされてんのはどっちなんだか」


「おけい。別に評定でもなし、構わぬよ」



 ヨウセンの言葉に、ツノカワとゼンナミが身を引いた。



「時にゼンナミよ。女子おなご一人とは誰ぞ。余の記憶にはないが」



 二人の子供という存在に心当たりはあった。しかし、それで全員のはずだったが。

 主の疑問に答えるべく、老翁に代わってカイバミが一歩進み出る。



「先日目覚めた、八森山に住まう天狗の眷属にございますわ」


「成程、同胞はらからか。あやかしが傘下に下るとは。喜ばしきことよの」



 クク、と喉を鳴らしたヨウセンは、着物の小袖を翻した。そこに現れたのは色男とは打って変わり、禍々しくも美しい、高貴の象徴たる紫で身を包んだ竜神。彼の真の姿である。



「今宵の余はとても気分がいい。第六天の魔王と、されこうべの酌でも交わそうか」



 そう言って掲げた右手に、瘴気を練り上げる。

 ふり仰げば、高台に王将駒の石碑がある。それに向かって、ヨウセンは瘴気を放った。


 満月に照らされて、王将駒が妖しく脈動する。



「さあ、天のわらべの地にえにしを持ちし魔王よ、ムドサゲの王たる余の名において命じる。今、闇邪鎧ヤジャガネと成りて姿を現せ!」



 しかし、勅命に背くかのように、瘴気の脈動は鳴りを潜めてしまった。

 ヨウセンは右手の結び開きを二度ほど繰り返してから、小首を傾げる。



「はて、まだ感覚が戻っていないか」



 縁のある土地、依代となるモノ。これらに問題はなかったはずである。なれば、幾百年の眠りに原因があったと考えることが自然ではあった。


 畏れながら、とゼンナミが傅く。



「どうやら織田信長は、この国の明治という時代に、時の天皇から名前を貰って祀られたらしいと聞いておりますじゃ」


「ほう、邪魔をしておったはすめらぎの力か。魔王の復活を阻むものが皇とは、皮肉よな」



 忌々しいものである。

 夜空の先、月山の向こうを睨めつけようとも思ったが、この位置からではそれも叶わない。

 ほんに忌々しいものである。我等は似た者同士であろうに。



「まあよい、なれば時間の問題であろ。して皇といえば、菊理くくりすえはどうなっておる」


「先代が寿命で伏した後、未だ羽衣のぬしも揃っていない様子ですわ」


「クク……それは重畳」



 どうやら、大天たいてんは余に味方したらしい。先ほどは皇の加護とやらに阻まれこそしたが、その使徒たちは機能停止しているのだから。



「スサノオが娘の稲荷は」


「そっちは半年前、果樹王を葬ってやったぜ。そん時、紅花の姫が覚醒しちまったが、たかが小娘だ。ビビるこたあねえ」


「その小娘の他にも、もう一人逃げ延びた男がおりますじゃ。ツノカワが討ち漏らした、とも言えますがの。ホッホ」


「ああ? おいジジイ、一人でも殺してからほざけや」



 ゼンナミの挑発に、血染めの剣が抜かれた。



八幡太郎はちまんたろうの鎧は何領あるかさえ不明の代物じゃ。慎重になって何が悪いのかの」



 対するゼンナミも、凶骨の刃でツノカワを囲む。



「納めよ、ツノカワ。ゼンナミも戯れるでない」


「ちっ……」


「はっ……」



 渋々と矛を収める二人に、カイバミが眉間を押さえていた。現状、最も憂慮すべきなのは、この二人の仲の悪さなのかもしれないと、ヨウセンも苦笑する。



「情報があるのは二人か」


「今のところは」



 カイバミの言葉に、頷く。



「聞けい。まずは残存している『おおきみ』の駆逐を速やかに果たし、『皇』が息を吹き返す前に伊氏波いではの地を統べる。よいな」


「「「はっ」」」


「各々、励めい!」



 ヨウセンが身を翻し、紫毒の霧となって姿を消した。続いて水飛沫、血飛沫、骨粉が風に乗っていく。

 ムドサゲたちが去り、静寂が戻った舞鶴山では、王将駒がひっそりと脈動を再開していた。











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  第1話/前編 『印籠と少女と紅花の戦士』

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――山形県東根ひがしね市・某所



 白水しろみず真人まさとは、朝から慌ただしかった。



「……どだなだず」



 時刻は午前七時半。アラームのスヌーズ機能まで使ってやったのだから私は悪くない、といわんばかりの無機質な通知をくれるスマートフォンをぶん投げ、クローゼットに飛び付く。朝食など摂る時間があるはずもなく、ジーンズのベルトを弄りながら摺り足で洗面所へ向かった。


 こういった時、オシャレだとか、そういうものに興味がないことは幸いだ。


 歯を磨き、顔を洗って濡れたままの手で髪を掻き上げて洗面所を飛び出し――かけて、そういえば今日は人に会うのだったと思い出し、後ろ歩きで戻った真人は、申し訳程度の制汗スプレーをシャツの裾から突っ込んだ。

 不用意な角度で噴出したガスにむせながら、緑の缶を棚に戻す。


 今度こそ、と玄関に躍り出た彼は、いそいそと靴を引っかけた。今日は長靴ではなく、スニーカーの方だ。

 こんなそそっかしい――母に言わせれば「ちょんどしてらんねえ奴」らしい――彼だが、どれだけ急いでいても、忘れないことが一つだけある。



「親父。行ってきます」



 玄関脇、靴箱の上にある写真立てに挨拶をする。半年前からの習慣だった。



「ん……何だコレ」



 亡き父の笑顔しゃしんの陰にあった、平べったい円柱状のケースを手に取る。


 重厚感のある金色のデザインは、中央がくぼんでいた。フチには、山形県のシンボルである出羽三山を象ったような三つのギザギザで装飾がされている。側面に盛り上がったスイッチを押すと、くぼんだ部分がスライドするようにケースが開いた。

 よく見ると、くぼみの中――台座部分には、地元である東根市の市章が描かれている。



「携帯灰皿、か?」



 父はタバコを吸っていた。それにしては、吸い殻を収納するスペースにカバーがないことが気になるが。



「まあ、なんかの賞で貰ったモンだろうな」



 東根市は『果樹王国』という看板を掲げている。父も生前は地元で有名なさくらんぼ農家で、いくつかの大きな賞を貰ったこともあった。そのいずれかの副賞だろうと納得した真人は、タバコはやらないが、形見であろうそれをポケットにねじ込み、家を出る。


 身に付ければ不思議と、父を近くに感じられるような気がした。











――山形県天童市・舞鶴山



 年々残寒が長引いている山形の春も、四月末ともなれば、無事に桜は咲いてくれた。

 そのおかげというべきか、毎年ここ、天童市は舞鶴山で催される『人間将棋』の会場はごった返している。


 麓の公園側入り口は早朝からアリの這い出る隙もなく、真人は現地にいる友人の案内で、山の裏手側に用意されていた関係者用駐車場へと車を停めた。


 車を降り、仮説テントの中で座っていた青年・三中みなかそうに声をかける。



「……悪い、創。寝坊しちまってよ」


「そんなことだろうとは思っていたよ」



 高校からの仲である創は、からからと青空のような笑い声で迎えてくれた。ダイビングスーツのような黒い特殊ウェアを着込んだ彼は、まだ八時を過ぎたばかりの爽やかな日差しに額の汗をきらめかせている。

 さすがはクラスのモテ王子。卒業後三年経って、ますます男前になっていた。



「ステージは終わっちゃったよ」



 創はそう言って、テントの端に置かれていた等身大の宣材を指さす。



「まじか。久しぶりに見たかったんだけどな、お前の『アサヒ』」


「僕も真人に見てもらいたかったよ。なんてね」



 舌を出す彼に、真人は鼻の頭を掻いた。


 宣材に描かれていた行者風の戦士は、県の内陸部に位置する朝日町あさひまち発のローカルヒーロー『五元空神ごげんくうしんアサヒ』。

 

 水が澄んでいるためにワインが美味く、山が富んでいるためにりんごやぶどうが美味い、そんな朝日町では空気も綺麗で、昭和六十三年に空気そのものを御神体とした神社が建立された。その名も堂々の『空気神社』である。


 しかし八百万の神が宿る日本といえど、特定の仏神を指さずに新設された神社には、まだ神が降りていない。そのため神社の存在を世に広め、故郷の地を守るべく誕生したのが、空気神社のコンセプトでもある五元(木・火・土・金・水)の力を操る戦士・アサヒなのだ。


 創はそのスーツアクターとして働いている。運動が得意で特撮好きな彼にとって天職らしい。



「来月頭には『りんごの森』でショーの予定があるから、良かったらそっちに来てよ」


「りんごの森?」


「朝日の道の駅。昼からだから、ちょっとくらい寝坊しても大丈夫だよ」


「あのな、今日が早すぎるんだって」



 天童桜まつりと銘打たれた本日のメインイベントは、あくまで人間将棋である。

 昨年人気を博した好々爺のプロ棋士はもちろん、将棋を題材にした漫画が映画化されたことにあやかって主演俳優をゲストに呼ぶというサプライズも重なり、イベント自体は十時開始でありながら、アサヒのステージは七時にまで前倒しとなっていたのだ。



「こればっかりは仕方ないよ、さすがに芸能人には勝てない。地道にやるさ」


「んだな」



 創がジャグタンクから水を注いでくれた紙コップを受け取り、ぼうっと景色を眺めた。

 ほんの少しの住宅街とその先の田畑から視線を上げれば、出羽三山が一望できる。

 県民が空を仰げば、盆地を囲むいずれかの山は目に入る。毎日見ていれば飽きるような気もするが、なかなかどうして、全くそんなことはない。自然の優美さの妙である。


 舞鶴山は別名・天童城址。かつて天童藩の居城があった場所だ。彼らもこの、のどかな自然の風景を楽しんでいたのだろうか。


こちら側は平時もほとんど人気がなく、本当にのどかな場所だ。小さな山だが、カモシカと遭遇することさえある。

 そう。そんな人気のない場所だからこそ、それは目についたのかもしれない。



「ん……?」



 坂を上ってくる人影に、真人は目を細める。

 帽子キャップを目深に被り、パーカーにミニスカートという出で立ちの女の子だった。


 目は彫りが深く、瞳は澄み、小顔の肌はモデルのように白い。



「なあ、創。今日のゲストにアイドルでもいるんだべか?」


「女流棋士はいるだろうけど……というか真人、可愛い子を見たらとりあえずアイドルって言うの、失礼なんだよ」


「え、褒め言葉じゃねえの?」


「うん、褒め言葉じゃないの」


「まじかー。でもどっかで見たことある気しねえ?」



 コップの水を煽りながら唸る。「それも減点」という苦笑は無視をする。こちとら、バレンタインに学年の女子八割からのチョコを総取りする君とは生きる世界が違うのだ。


 視線を降ろすと、ずいぶん近くまで来ていた女の子と目が合った。反射的に逸らしてしまう。


 その先で、彼女の腰元、ベルトに括り付けられた小物入れが目に入る。そこにすっぽり収まっていたのは、鈍い輝きを放つ金色のケースだ。

 これには見覚えがあった真人は、思わずパイプ椅子から立ち上がった。



「君、駄目じゃねえか。タバコなんて吸っちゃ!」



 突然声を荒らげられ、女の子は目を瞬かせる。



「は……はあ? 別に私、タバコなんて吸ってないんだけど」



 すうっと耳に馴染む声だった。

 怪訝な顔の美少女に気圧されそうになるのをなんとか堪え、真人は少女と正面から対峙した。



「だって君、未成年だろう」


「ちょっと真人、やめなよ。この子も困っているじゃないか」



 少女は割って入った創を怪訝そうに一瞥しただけで、何事かを思案しはじめる。



「あー、えー……っと。未成年って決めつけることで、女子の口から本当の年齢を吐かせようっていう、うっとうしいナンパか何かの類デスカ?」



 そう言って彼女は、大きな溜め息を吐いた。



「まあ別に聞かれて困るもんでもないし、つか公開してるから話すけど、私は今年で成人。ちなみに四月頭が誕生日だからもうハタチなの。アンダースタン?」


「ええっと……ゴメンナサイ?」



 女子高校生と言っても十分通用しそうな彼女が、自分と一つしか違わないという事実に混乱したまま、真人は曖昧な謝罪で言葉を濁した。

 けれど彼女にとってはそれで十分だったのだろう。「わかればよろしい」と微笑んでみせる余裕は、下手をすると年齢以上のものだ。



「で? 私がパーフェクトすぎて未成年に見えたのはいいとして、何がどうしてタバコを吸ってると思ってくれちゃったわけよ」


「それ、携帯灰皿だろ。吸ってないと、普通は持ち歩かねえよなって思ってさ」



 指で示すと、少女は手慣れた様子でケースを取り出した。



「ああ、これ? 灰皿じゃないわ。インロウよ、インロウ」



 ひらひらと揺れる手元を覗き込み、創も頷いている。



「そっか、印籠か」



 納得しかけた真人だったが、



「――いやいやいや、印籠だって普通持ち歩かねえべした!」


「あーもう、いちいちうっさいわね!」



 スパーン! と頭に食らった小気味いい衝撃に時間が止まる。それが、少女がいつのまに取り出したスリッパによる一撃だと理解するのに、さらに数秒の時間を要した。



「私の疑問には答えてもらうけれど、あんたの疑問に答える義理はないわ。オーケー?」


「ど、どだなだず……」



 指先で額を射抜くように押され、真人はそのまま仰向けに倒れ込んだ。



「はあ。ノブナガが出てこないように祈ってきたところだけれど、それがあんたみたいなバカまで救うことになるかと思うと複雑だわ」


「信長っていうと、麓の建勲たけいさお神社に行ってきたのかな。僕も今朝、お参りしたんだよ」


「詮索禁止って言ったでしょう、ヒーローさん? それと、そういう同調話術で距離詰めて来る男は苦手なの。遠慮してもらえると嬉しいかな」



 少女はそう言って、真人の代打を務めた創をぴしゃりと跳ね除けると、山頂に続く道に向かっていった。

 その背中を見送りながら、創が感慨深げに言う。



「すごい観察眼だね。彼女からスタンドは背後なのに、僕がそうだと見破るなんて」


「お前も割と拒絶されてただろうに、よくまあへこたれないな」


「的確な指摘だったしね。思慮深くて視野も広い。良い子だよ、あの子は」


「ああ、そうかい」



 それだけ言って、真人は大の字になった。

 空返事になったのは、別に創の好みがああいうタイプだと知ったからではない。



「信長って、人間将棋に出てくるんだっけが」


「そうだったはずだよ。もっとも、実際に人間で将棋をしたのは秀吉らしいけど」



 麓の武勲神社は、江戸時代になって織田信長の子孫が国替えされ、天童織田藩としてこの地に定着したことを契機に、藩祖を祀るため建立されたものだ。

 こうした背景ゆえに、ここ舞鶴山で行われる人間将棋では、現世に復活したという設定の織田信長に扮した演者が敦盛を舞うシーンも盛り込まれているのだが。



――ノブナガが出てこないように祈ってきたところだけれど。



 少女の言葉を口の中で反芻する。あれはどういう意味だったのだろう。敦盛の舞い手と知り合いかつ仲が悪く、晴れ舞台が台無しになるよう祈っていたか。あるいは、



「織田信長が、現世に復活しないように……とか?」



 鼻で笑う。ありえない。そんなもの、漫画やアニメの中だけの話だ。

 未だ冷めやらぬ黄色い声を遠くに聞きながら、真人は妄想を切り捨てるように瞼を閉じた。











 考えてもわからないことはすっぱり諦めた真人は、私服に着替えた創と一緒に、人間将棋の見物をすることにした。とはいえ、開会式や地元小学生の余興パフォーマンス等があるため、メインの人間将棋は昼から対局開始となる。


 麓にある蕎麦屋で噛み応えのある鳥そばを平らげ、試食として置かれていた自家製の蕎麦せんべいをつまんで店を出た。食感はクラッカーと割れせんべいの中間くらいだろうか、香りもよく、まぶされた特製のタレも舌によく馴染む。


 蕎麦大国でもある山形をめいっぱい堪能して山に戻ると、まさに黒山の人だかりだった。


 見物スペースになど座れないと思っていたが、イケメン俳優を一目見たいと運営のテントへ女性陣が押しかけていたおかげで、幸いにも前列を確保することができた。

 これほど近くで見るのは初めてだった。それだけでも、少し緊張する。



 入陣の号令がかけられ、舞台となる将棋盤の袖に鎧武者たちが立ち並んだ。地元の高校生たちもボランティアとして参加しているらしく、歩の駒役であろう彼らが並ぶ前列は初々しい。


 本日の主役の一人、織田信長が現れた。

 この後に殺陣を繰り広げる武者役の男性たちが傍に控える道を、悠々と進んでくる。


 将棋盤の中央に降臨した信長は、不敵に笑った。人々の喧騒に誘われて復活した信長が、乱世の再開を宣言するという設定だ。

 扇を拡げ、信長が敦盛を舞い始める。彼の登場する映画・ドラマ・漫画・ゲーム、そのいずれにも決まって登場する一節は有名だろう。



「人間五十年。下天のうちに比ぶれば……夢幻ゆめまぼろしの――うっ!?」



 不意に、真人たち見物席の頭上から紫の光が降ってきたかと思うと、信長役の男性の胸に飛び込んだ。


 周囲がざわつく。スタッフら関係者もうろたえていることから、これがパフォーマンスの一環ではないことはすぐに理解できた。



「く、苦しい……誰か……助け……」



 将棋盤の中央で、足下もおぼつかない程に苦しんでいた男性の目が闇を宿し、光る。

 異様な光景に、辺りがしん、と静まり返る。男性を助けるべく駆け寄った武者役も、思わず足を止めていた。

 男性の全身から紫炎が噴き出し、たちまち姿が見えなくなる。



『フ、フハハ、フハハハハハハ!』



 地の底から這い出るような哄笑とともに、再び現れた彼の姿は――



「なんだ、ありゃあ……」



 右手に太刀、左手に銃を携えた、禍々しくも雄々しい異形だった。


 誰かが言った。

 織田信長だ、と。


 異形は、おろおろと後ずさりする武者役の一人を切り捨て、反対側のもう一人を撃ち抜いた。

 あまりの光景に、誰もが声を失っている。



『ふむ、続くうたはこうであったか』



 異形が漆黒のマントを翻すと、その周囲に、ムンクの名画『叫び』のような歪んだ顔の魂たちが次々と実体化していく。



『さあ、乱世を再開はじめめようぞ』



 そして奴らは、一斉に人々へ襲いかかった。


 逃げようとした親に強く腕を引かれた子供が泣きわめく。ボランティアで参加していた女子校生が過呼吸を起こしている。見物席にいたご老人は泡を噴いて倒れた。

 パニックに陥っているのは、真人も例外ではない。



「なんだよ、なんなんだよこれ!」



 どうにか立つことは叶ったが、膝が震えて歩くことができない。



「真人。とりあえず、非難誘導をしよう」



 背後から創の声がして、振り返る。しかし頼もしい声とは裏腹に、彼もまた、膝も唇も震わせて、今にも倒れそうなのを堪えているようだった。

 それでも彼は動こうとした。やはりヒーローに相応しい。



「あ、ああ。そうだな」



 真人は仮初めの義憤で己を奮い立たせ、創と二手に分かれた。



「逃げてください!」


「押さないで、隣の人と一緒に!」


「子供を抱えてあげてください。自分の子でなくとも構いません、とにかく助け合いを!」



 わらわらと群れる『叫び』の兵士たちを押しのけながら、右から左へと奔走する。

 真人が小さな女の子を近くにいた女性へ託す。避難する彼女を確認していると、それとすれ違うようにして、こちらへ駆けてくる人影があった。


 いや、彼女の視線はこちらの背後、そのさらに先――異形の親玉の方へ向いている。



「あれは……」



 真人は目を疑った。脱ぎ捨てられたキャップと、ラフな服装。すれ違いざまに見た澄んだ瞳は、今朝方出会ったばかりの少女と一致していた。

 こんな子がどうして化け物たちに向かっていくのか。想像もつかない。



「おい君、何しったんだず! 危ねえぞ!」



 真人の呼びかけにも、少女は足を緩めることさえしない。むしろ速度を上げながら、彼女は腰のポーチから印籠と、何やらメダルのようなものを取り出した。


 立ちはだかる異形の兵士を飛び蹴りであしらい、開いた印籠ケースに、メダルをセットする。



《ベニバナ!》



 ケースが閉じられると、少女の腰にベルトが出現した。



Yah, Must Get Up! Yah, Must Get Up!》



 彼女は両手を拡げ、風に遊ぶ花のように一回転すると、



「オラ・オガレ!」



 なにやら呪文のようなものを唱え、神棚型のバックルに印籠を挿し込んだ。



《ベニバナ! 出陣‐Go-ahead‐ゴー・アヘッド、レイ! 花開け、クリムゾン・プリンセス!!》



 二重円のような模様に『河』の字を象った紋章が現れる。その光に包み込まれた少女の身体は、花のドレスで飾ったような紅と黄色のグラデーションへと変化した。

 変化といっても、件の怪物とは大きく異なる。人型を完全に維持したままの姿は、まるで特殊なスーツを着込んだかのようだ。


 まるで、創が扮する『五元空神アサヒ』のように。



「ヒーロー……?」



 呆気に取られていた真人は、自分の声で我に返った。

 少女の言葉が脳裏に蘇る。



――ノブナガが出てこないように祈ってきたところだけれど。



 まさか、あの異形が本当に織田信長で、彼女はそれと戦うヒーロー、もといヒロインだとでもいうのだろうか。



「お、おい。どだなだずよ……」



 逃げ惑う群衆の中、真人はただ立ち尽くしていた。



――中編へつづく――

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