第2話『天藍の筆の絵師』

前編/棋士の迷い


――山形県天童市・某所



 駒を持つ指が震えた。


 将棋盤の上には尋常ではない数の駒がひしめいている。こちらは歩兵ばかり。対面にはこれまた歩。ただ、こちらと大きく違うのは、その最奥に王が控えていることだろうか。

 ルールも何もあったものではない、滅茶苦茶な盤面だ。


 作務衣姿の青年は、指すべき一手が路頭に迷い、頭を抱える。

 突如現れたバケモノたち。そして織田信長を自称する悪鬼。昨日の舞鶴山で見た光景は、今も脳裏にはっきりと焼きついていた。


 光を求めるように。震えの止まらぬ指で、そっと駒を置く。

 こちらの歩兵たち――すなわち民衆を守るための『王』だ。


 やっとの思いで意識が水面に辿りつき、はっと息を吸い込む。青年はにわかに盤上の駒たちを払い除け、おぞましい将棋盤から後ずさった。



「……一体、私に何ができたというのです」



 棋士という肩書に誇りを持っていた。多少は有名になった自覚もある。しかし、それが楔になるとは思ってもみなかったのだ。


 逃げ惑う人々が口々に言ってきた。「先生、助けて」と。

 自分でさえ逃げ出してしまいたい状況で、そんな無茶な重荷はなかった。私だって、棋士であることを除けば一般人でしかないのだ。どんな分野で成功した人物も、他に移ればまるっきりの門外漢でしかない。


 それでも、呪詛のように脳裏に声がこだまする。「先生、あの化け物を倒して!」と。



「無理です! 無理なんです!」



 命からがら逃げだした先で、恐怖のままに妙な思いつきもした。

 自分が棋士でなく、騎士だったなら。

 駐車場を抜ける間際に振り返って見た、戦士の背中。それが自分だったなら。


 馬鹿馬鹿しい。渇いた笑いがくつくつとこみ上げる。



「今日は塾やんねあんがって、富樫さんから電話来ったんだげんと?」



 ふと、母親の声がした。女手一つで育ててくれた女丈夫も、今日の声音は弱々しい。



「今日は……休みます」



 無理もない。そう思ったのは、どちらに対してだろうか。

 襖が開き、母が入ってくる。差し出された電話の子機を、青年はおそるおそる受け取った。



「……お電話代わりました」


「あっ先生、今日は塾ねえの?」


「コウタくんでしたか。先生の携帯に直接かけて良かったんですよ?」



 電話越しの相手が親御さんではなかったことにほっとする。



「かけたけど、先生出ないんだもん。先週習った葛飾北斎がゲームで当たったから、せっかく先生に自慢しようと思ったのに。塾閉まってるしさ」


「そうでしたか。すみません、今日は休みだと連絡するのを忘れていました」



 しかし、取り繕った声音も、純真な子供には通用しなかったようだ。



「先生、元気ないね。やっぱり、昨日のバケモノのこと……?」



 心臓を掴まれたかと思った。悟られぬよう、ゆっくりと深呼吸する。



「美味いもんでも食って、元気出してな、先生!」


「ありがとう。私は大丈夫ですから。しっかり先週の復習をしておくんですよ」



 やっとの思いで言葉を紡いだ青年は、教え子の返事を聞くともなく、逃げるように『切』のボタンを押した。



「美味いもん……ですか」



 時計を見れば、ちょうど昼時。そういえば、昨日の昼から何も口にしていなかったか。

 青年はおもむろに立ち上がり、着の身着のまま部屋を出た。











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  第2話/前編 『棋士の迷い』

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 闇邪鎧との初めての戦いから一夜明けて、真人は再び天童を訪れていた。

 大惨事が発生してしまった舞鶴山は、警察やら報道陣やらで封鎖されている。本来ならば今日も引き続き人間将棋が行われる予定だったが、これでは叶わないだろう。


 軽傷も含め、死傷者は数百人規模に上るらしい。

 これが多いのか少ないのかは判らない。ただ、車のアクセルペダルを踏む足は重くなった。


 俺は皆を守ることができたのだろうか。守れたと言えるのだろうか。そんなモヤモヤを抱きながら、舞鶴山から真っ直ぐ駅前通りに抜けたところの蕎麦屋へ車を停めた。


 天童温泉の大通りに軒を構える、水車が印象的な店である。駅や温泉旅館からのアクセスがいいこともあって、県外からの客も多いらしい。

 『悩みがあったらまず飯を食え。そしてそれは美味いモノであれ』とは、父が昔言っていた言葉だ。腹が減っている状態ではろくなことを考えないからだそうな。


 玄関前の石臼に期待を膨らませながら暖簾をくぐった真人は、思わず顔を顰めた。

 カウンター席の端から二番目の席でお冷のコップに口を付ける糺からUターンでも決め込もうとしたものの、やってきた店員から『お一人様』と見られるや、他の団体客より優先してカウンターの、よりにもよってそこだけ空いている彼女の隣に通されてしまった。



「どうしてあんたがここにいるのよ……」



 開口一番失礼なものである。先にそう思ったのは確かにこちらではあるが、口には出していないというに。



「ちょっとな。すいません、天ざるください」



 努めて冷静に注文を済ませ、運ばれてきたお冷で喉を潤す。



「ちょっと早い時間だけど、けっこう混んでるな」



 世間話でもと、軽く振ってみる。周囲を見回すと、いくつかのテーブル席に、片手でスマートフォンをいじっている客たちがいた。



「混んでる時にスマホなんか弄んなず……」


「別にいいんじゃない?」



 真人のぼやきに、糺が肩を竦める。



「食べるペースは早いみたいだし、ほっときなさいよ」



 いやに刺々しい声色だ。



「なあ糺、何かあったのか?」


「ワッツザット。何かあったのか、ですって? ええ、ええ。あんたがニシキになって、馴れ馴れしく名前で呼んできて、こうして隣でご飯食べることになってますが、別に何もありませんとも」



 空になったコップを唇で弄びながら、糺がぶーたれる。



「へーへー、さいですか。悪りがったな」



 何故そんなにつっけんどんな態度をとるのか、昨日はついに教えてもらえなかったことを思い出し、八つ当たりのように水を煽る。


 そんなことをしている間に糺の反対隣、カウンターの一番端の席が空いた。店員が片付けをしている間にいそいそと落ち着かない彼女だったが、掃除も済んだ席にいざ移ろうとしたとき、入れ違いにやってきた店員から止められる。

 どうやら新しい『お一人様』がやってきたらしい。軽く窘められた糺は、礼儀正しく謝ると、仕方なさそうに真人の隣へ戻ってきた。


 沈黙が続く。彼女の注文も、まだ到着していないようだ。



「なあ、お前は何頼んだんだ?」


「鴨そば」



 会話が終了してしまう。別に言葉を交わす必要もないのだが、どことなく居づらい。

 そんな真人たちをよそに、テーブル席から声が上がった。



「よっしゃ、北斎引いた!」


「マジか。いくら突っ込んだんだず」


「へっへー、ログボの召喚符で引いたぜ!」


「うわ、ずっりー」



 地元の学生だろう若い客たちは、ワイワイとスマホの画面を見せ合っている。



「はいはいおめでとー。安藤広重なら、もっと天童らしかったのにねー」



 彼らには聞こえないだろうボリュームで、糺が皮肉を言う。

 しかし、それにまさかの返答があった。



「僭越ですが。その呼び方は適当ではありませんね」



 先ほど来たばかりの、作務衣を着た青年である。ふわりと薄荷の香りがするが、書道家か何かの人だろうか。



「そうなんですか?」


「ええ。歌川広重は雅号で、本名は安藤重右衛門といいます。これを混合して呼ぶことは、正確には誤りなんですよ」



 へえ、と目を丸くした糺に、青年は頬を掻いた。



「失礼。どうも講師としての血が騒いでしまいました。成生なりゅう俊丸としまると申します、どうぞよろしく」



 そう言って手を差し出した彼に、糺があっと声を上げた。



「成生って、もしかして棋士の……?」


「ええ。ご存知でしたか」


「髪を下ろされていたから、咄嗟に気付けませんでした。昨日は大変でしたね」


「ええ……そうですね」



 社交辞令にも慣れた様子で返す俊丸の表情が翳ったのを、真人はぼうっと見ていた。






  * * * * * *







 蕎麦屋の外で、知的なOL風の人間態に化けたカイバミは時を待っていた。


 目前で順番を待つ男性客が、スマートフォンの画面を血走った眼で睨んでいる。彼はゲームの課金清算画面を開き、震える指で『OK』を押す。

 画面が切り替わると、色とりどりの演出とともに、何やらキャラクターたちが連続で現れた。


 この数百年で、絵画というものは随分と進歩したようだ。侘び寂びの趣こそ薄くなったきらいもあるが、可愛らしさといった意味では目を見張るものがある。


 そして、スマートフォンのゲームというものは素晴らしい。ヨウセン様が御目覚めになる前に、現代のことを知るべく多少触ってみたが……なるほど、これは堕落する。


 堕落は甘美な毒だ。人類を発展させもするし、滅ぼしもする。

 例えばある者は、わざわざ遠くまで会話をするべく移動したくないが故、電話を創った。またある者は、室内のテレビにまで歩くことさえ嫌い、リモコンを発明した。


 だが、欲望のまま堕落することで、薬は一転、毒へと変わる。



「ああクソ! 家賃も注ぎ込んだのに北斎引けねえ! 絶対テーブル操作してんだろ! もう北斎なんていらねえよクソが!」



 そう、目の前の彼のように。



「坊や。葛飾北斎のことでお困りかしら?」


「……は?」



 怪訝な顔で振り向いた男性客は、目を見開いた。その瞳には、竜神態に戻ったカイバミが映っている。



「バ……バケ……」


「あらあら、バケモノとは酷いわね。レディーに向かって」



 そう言って、カイバミは微笑んだ。優しく、愛撫するように、男性の首筋を指でなぞる。



「くすくす……出羽の地に縁を持ちし絵師よ。ムドサゲたるカイバミの名において命じる。今、闇邪鎧と成りて、姿を現せ!」



 胸元まで達したところで、指先に発生させた蒼の瘴気を、深く突き入れた。






  * * * * * *






「成生さんって、有名な人なのか?」



 そう真人が訊ねると、糺は露骨に眉をひそめて見せた。



「あのねえ、中学生のうちに七段到達、高校一年で竜王まで獲った超新星。後進の若き棋士たちにとって最大の壁として君臨し続ける、山形が生んだ天才棋士って言ったら、その名前を知らない県民はいないでしょ、フツー」



 追加のお冷を注ぎながら、彼女は続ける。



「しかも竜王戦の賞金四千万を、全て教育施設や私塾に注ぎ込んだ功績で、県知事から勲章もいただいているの。あんたと違って頭脳明晰の人格者なのよ。アンダースタン?」


「そんな、恐縮です」



 俊丸は照れくさそうにはにかんだ。しかし、その目にはやはり影が濃く映っている。



「っていうか、昨日の人間将棋にも来てたでしょうが。見てないの?」



 糺の言葉に合点がいった。なるほど、彼もあの事件に巻き込まれた一人だったのだ。


 昨日、喫茶『ごっつぉ』を後にしてから、はぐれたままだった創と電話したときもそうだった。もっとも彼の場合、演者であろうと、仮にもヒーローである自分が敵に立ち向かえなかったことが歯痒かったのだろうと思っていたが。

 『ヒーローが現れて、怪物を倒してくれたらしい』と言った創の震える声は、忘れられない。


 そんな、マイナス方面に傾きかけた真人の思考は、店員の声で我に返る。



「お待たせいたしました。こちら、鴨そばになります」


「やたっ!」



 小さくガッツポーズをした糺は、丼が置かれるや否や割り箸へ手を伸ばした。律儀に「いただきます」を唱えてから箸を割る彼女は、存外真面目なのかもしれない。


 しかし、蕎麦を口に運ぼうとした手は、不意の悲鳴に遮られてしまう。

 真人と糺は、声のした方へ振り返った。どうやら店の外で何かが起きたらしい。


 すると、店の戸が開き、二人の男子が飛び込んできた。顔面蒼白の彼らは、先ほどスマートフォンのゲームで葛飾北斎を引き当てたと喜んでいたグループにいた者だ。


 おかしい、あと一人いたはずである。その姿を探して店の外を窺うと、目に入ったのは、歪な顔をした、彷徨える魂の残滓たち。



「ミダグナス……っ!」



 真人が状況を飲み込んだ頃には、糺は立ち上がっていた。手早く財布からお札を抜き、カウンターに置いた彼女は、財布と入れ違いにインロウガジェットを取り出す。

 やや遅れて、真人も立とうとした時だった。

 

 コップの落ちた音に振り返れば、頭を抱えた俊丸がガタガタと身を震わせていた。

 やはり、トラウマになりかけている。こうした被害者を一人でも減らさなくてはならないのだと、真人は歯を食いしばり、決意を固めた。


 ざわつく客を尻目に、店外へ飛び出す。すぐそこまでやってきていたミダグナスを殴り飛ばし、糺へ追いついた。



「闇邪鎧は?」



 訊ねると、糺はあごで指し示す。


 そこには、鮮やかな蒼の躰を持つ闇邪鎧がいた。ノブナガの純粋な禍々しさとは打って変わって、息を呑むような風情さえ感じる。

 構える長得物の先端は刃ではなく、筆になっているようだ。そして、その筆先が向けられているのは、件の北斎を引き当てた客である。



『おのれ、北斎ィィィ!』



 振り上げられた長筆に、真人は地を蹴った。



「させるかよ! オラ・オガレ!」

《サクランボ! 出陣‐Go-ahead‐ゴー・アヘッド、ニシキ! 心に錦、両手に勇気!!》



 サクランボンボンを呼び出し、絵筆を受け止める。



「逃げろ!」



 背後の男子に声をかけながら、ニシキは闇邪鎧へと横蹴りを打ち込んだ。

 闇邪鎧が大きく後退する。その手応えは確かなものだった。


 ノブナガは戦国武将ということもあってか強大な力を持っていたが、目の前の闇邪鎧は、絵筆という得物からも察するに文化人なのだろう。



「元となった偉人によって、力もまちまちってところか。これならイケるぜ!」



 勢いに乗って攻め込もうとするニシキを、闇邪鎧は絵筆を払って迎え撃つ。

 空中に描かれた青い色彩の軌跡が、そのままソニックブームのように襲い掛かってきた。



「おっ、ちょっ、遠距離攻撃かよ!? それならこっちも……種飛ばしだ!」



 拳を構え、さくらんぼの種子を飛ばして対抗する。しかし、直撃こそしたものの、牽制程度の威力しか持たない技では厳しいものがあった。

 近づきあぐねる焦れったさに痺れを切らし、ニシキはノーガードで飛び込む。


 飛びかかり、拳を叩きこん――だはずだった。寸前まで確かに目の前にいた闇邪鎧は、二手に分かれて攻撃を避けたのだ。



「なっ……増えたあ?」



 蒼の異形に挟まれ、思わずたたらを踏む。



『どいつもこいつも北斎北斎! 貴様も儂を忘れたか!』


「はあ? いや、そもそも、あんまり絵に興味が無かったっつーか……」


『ならば語るに値せず。消えておれい!』



 二体同時に薙いだ絵筆から生み出された衝撃波をもろに喰らい、ニシキは吹き飛んだ。



《ベニバナ! 八楯奥義ヤツダテ・アルティメットストライク!!》

「『紅花爛漫』! ちぇいさあああ―――――ッ!」



 周囲のミダグナスを片付けたレイが、ニシキに代わって闇邪鎧へ飛びかかる。紅花のエネルギーを受け、闇邪鎧の一体が弾け飛んだ。



「ったく、何やってんのよ」


「悪い、油断した」



 差し出された手を取り、立ち上がる。



「お、おい……糺、後ろ!」



 ニシキの指摘に振り返ったレイは、その光景に声を上げた。



「ふ、復活したあ!?」



 今しがた倒したばかりの一体が、絵の具をかき寄せるように集まり、再びその姿を形成していたのだ。そして、悪夢はこれだけでは終わらない。



「「また増えたあ!?」」



 二体だった闇邪鎧は、分裂を続け、五体にまで達した。

 五つの絵筆が、天へと掲げられる。



『ここに新たな世を描かん。「東海道五拾三次・番外」!』



 宙に山が、海がと描かれ、大きな津波となって具現化していく。

 絵画の奔流に呑みこまれ、ニシキたちは膝をついた。八楯の鎧も耐え切れず、変身が解かれてしまう。


 そんな真人たちの様子を満足げに眺めた闇邪鎧は、やがて再び一体へと混ざり合い、



『何処だ、何処にいる。北斎ィィィ!』


「くっ……待て!」



 制止も虚しく、どこかへ飛び去ってしまった。



「くそっ!」



 真人は拳を地に叩きつける。文化人と高をくくったことが間違いだった。

 闇邪鎧の元となったのは、『偉人の』魂なのだ。そこに悪しき力が働いて生み出されたとなれば、尋常ならざる脅威であって然るべきなのである。


 闇邪鎧を追うべく、もう一度変身をしようと試みる真人を、糺が抑えた。



「止めておきなさい。自分の意思での変身解除ならともかく、強制解除の直後に再変身するのは、とてつもない負担がかかるわ」


「でもよ!」


「止めなさい。……あんたのお父さんのようになりたくなかったらね」


「おい、それってどういう――」


「先生! 成生先生!」



 縋る言葉は掻き消された。

 今度は店の中から届いた悲鳴に駆けつけると、そこには気を失い、倒れ伏した俊丸がいた。




――中編へつづく――

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