中編/蛍が光る理由


 真人は旅館『憧憬湯』最上階通路の窓から、意識不明状態に陥った人たちが救急車で運ばれていくのをじっと見つめていた。その殆どが観光客であり、仕事中であった従業員たちが無事だったことは不幸中の幸いか。


 向かいの壁際では、雪弥が座して黙想をしている。



「ここにいたのね」



 声に振り返ると、糺がスマホを片手に立っていた。



「ちょっとググってみたんだけど、尾花沢の商人で、鈴木すずき清風せいふうって人がいたみたいね」


「そうか。後は俊丸さんに電話が繋がれば、詳しいことが聞けそうだな……」


「――いや、その必要はねえよ。オレが話す」



 貴臣が階段を上がってきた。

 彼の後についていくと、客間のひとつに通された。片付けてなくて悪いな、と旅行鞄を隅に寄せながら彼は言った。


 闇邪鎧の被害に遭った客が泊まっていた部屋なのだろう。

 真人たちは座布団に座り、雪弥が淹れてくれたお茶で一息ついた。

 貴臣は湯呑の熱を弄びながら、ぽつりと言う。



「真人たちは、随分と落ち着いているんだな」


「そうでもないさ。途方に暮れているよ」



 慰めでもなく、本心だった。



「ええ。あの闇邪鎧が言っていたことが真実ならば、僕たちの攻撃が通じないということですからね……」



 雪弥も重い口を開く。



「急かすようで申し訳ありませんが、鈴木清風という方についてお聞かせいただいても?」


「ああ。清風といえば、尾花沢じゃ伝説だ。通称『紅花大尽こうかだいじん』と呼ばれるほどやり手の商人にして、名うての歌人なんだよ」


「さっき調べたら、芭蕉と清風の資料館が一緒になっていたけれど。それも歌人だからなのかしら」



 糺の質問に、貴臣は頷く。


 ようやく温めになってきたお茶を一息で呷ると、彼は続けた。



「そういう向きもあるだろう。芭蕉との交流はもちろん、嵐雪や其角といった蕉門の双璧らも名を連ねる『七吟歌仙』に含まれるほどだ」


「其角とは……宝井其角のことですか」


「ああ、知っているのか?」


「はい。赤穂四十七士の大高源吾と、『両国橋の別れ』を詠んだ方ですね。そのような名人と同列とは……清風氏の腕前は、さぞ素晴らしいものだったのでしょう」



 お茶を注ぎ足しながら、雪弥は感心していた。

 真人は頭を掻く。赤穂浪士の活躍は、真人も知っているところだった。高校時代、剣道部の顧問が忠臣蔵好きで、年末特番の歴史ドラマを朝からぶっ通しで見るという合宿が恒例になっていたのだ。


 尤も、自分は途中から寝ていたため、山科会議辺りからの内容はさっぱり記憶にないのだが。

 そんな真人の心中を知る由もなく、貴臣の話は続く。



「もちろん、商人としても中々にやべーやつでな。帳簿なんかの記録には、紅花を扱ったという記載はないらしいんだが……紅花を安く買いたたこうと不買運動を起こしたクソ商人たちを出し抜いたという浮世話は有名だ」


「浮世話なの? やっぱり、紅花を扱った記録がなかったから?」


 目を丸くした糺に、貴臣が首を横に振る。



「いいや、辻褄が合わないから出鱈目と言われているんだよ。清風氏は江戸の商人たちに対して、買わないならば紅花が無駄になるから焼き捨てると言い放ち、実際にそうして見せて――もちろん古綿荷で偽装はしているんだが、そうして市場が高騰したところで紅花を売りさばいたんだ。だが、資料に残っている紅花の数と、市場価格を考慮した時、利益の概算がヤバすぎた」


「ヤバいって……良いことなんじゃねえの?」


「そうでもない。一国の持つ金に迫るほどの収入を個人が得た日には歴史的大事件だし、それほどの金をどうやって持ち帰るというんだ?」


「ああ、成程。確かに」


「しかし、火のないところに煙は立ちません。人望も実績も確かにあったからこその浮説でしょうね」


「まあな」



 オレからの解説は以上だ、と貴臣は湯呑を呷った。

 つられて真人も天井を仰ぐ。



「商人にして歌人、ねえ……」



 山形に紅花ありと知らしめた人物こそ、かの鈴木清風なのだろう。それにしては活躍がおぼろげなきらいはあるが、真実は当人こそ知るといったところか。



「私としても、紅花についての重要人物が闇邪鎧っていうのはフクザツだわ……」



 お茶請けの饅頭を加えたままで、糺が嘆いた。行儀が悪いぞと窘めれば、彼女はこちらの口にも饅頭を突っ込んできた。強かなものである。

 貴臣があっと声を上げた。



「そうだ、それを訊こうとして来たんだよ。お前たちはあのバケモノと戦っているのか?」


「ええ、そんなところ。内緒よ?」


「心得てる。話っていうのは、オレも戦いに加えてくれないかということだ」


「「――は、はぁ!?」」



 真人と糺は、天井に向けていた顔を同時に落とした。

 がっくんと勢いづいたため、あやうく饅頭をほろかしそうになる。



「だから、オレも戦わせてくれないか。銀山温泉を守りたいんだ、どうすればいい? ウカノメさんに話をつければいいのか」


「あ、いや。気持ちは解るけれど、駄目だし、無理よ」


「だよなあ……」



 真人も頭を抱える。



「どういうことだ?」


「インロウガジェットと、モンショウメダル。二つの道具が必要なのよ。これは選ばれた者だけが使えるというか……よしんば真人みたいにインロウガジェットを持っていたり、俊丸さんの時みたいにウカノメさんが管理していることもあるけれど」


「モンショウメダルに関しては、な」



 真人自身、ノブナガ闇邪鎧に殺されるあと一歩のところでの覚醒だった。

 雪弥もテーブルにガジェットを並べながら、続ける。



「僕の場合も、ガジェットは家宝として受け継がれてきたものでした。おそらくガジェット自体は鎧の倉庫で、そこからどの鎧を引き出すのか――ひいては、どの鎧を纏うに足るかを示す手形のようなものが、モンショウメダルなのでしょう」


「モンショウメダル、ねえ」



 貴臣は雪弥のバラメダルを貸してもらい、しげしげと眺めている。



「一応言っておくけれど、やめておきなさい。あんたに何かあったら、こころちゃんが悲しむわよ」



 糺の苦言に、貴臣は生返事で頷いた。

 そこへふと、部屋の外から貴臣を呼ぶ声がする。貴臣がここだと声を挙げると、しばらくして、旅館の従業員が顔を出した。



「支配人……その、本日の営業は続けるのでしょうか?」


「うん? 言っている意味がよく分からないな。まだお客様もいる、従業員も無事。トラブルは発生したが、続けられる状態ではあるだろう?」


「ええと、その……」



 煮え切らない様子の従業員に、貴臣は何かを察して目を閉じる。



「ここに来る前、従業員たちには声をかけたはずなんだがな……それで、集まっているのか?」


「あ、はい、大広間に。他の旅館の方々もいらしています」


「はあ、そういうことか」



 頭を掻き、ため息をつきながら、貴臣が立ち上がる。



「何かあったのか?」


「ああ、つまるところ、仲良しこよしで足引っ張りあってんのさ。バケモノ騒動で休業をしたいが、うちだけ営業を続けるとなっちゃ、他の旅館も面子が潰れるんだろう」


「うへえ、『そっちに働かれちゃ休みづらいから止めろ』ってこと? そういう同調圧力、さいってーよね」



 糺は顔を顰めながらも、あくまで他人事、不可侵の領分として貴臣に手を振った。

 旅館のことは旅館の人間が対処する。それは真人も理解しているつもりで、お茶を足しつつ、次の饅頭に手を伸ばそうとしたところだった。


 しかし、部屋を後にしようとした貴臣が、襖を開けたところでふと立ち止まった。



「どうした?」



 真人の問いに、貴臣は何度か言いあぐねて、告げた。



「白水。お前たちも来てくれないか」










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  第5話/中編 『蛍の光る理由』

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 真人たちが会議室に足を踏み入れた瞬間、どっと陰気な風が押し寄せてきた。



「バケモノが出たんだぞ!」


「どうするの支配人!」


「何とかしてくれ組合長!」



 集まっている数十人の老若男女が一斉に突き上げてくる中、貴臣は舌打ちをする。



「おーおー、さっき忠臣蔵の話を聞いたせいか、切腹か討死かで揉めている家臣を前にした大石内蔵助の気分だぜ」



 尤も、今回の場合は意見さえ割れていないのだが。

 壁際で待機をお願いされた真人たちは、大広間を見渡す。貴臣と同じ作務衣を着ているのが、彼の旅館の従業員なのだろう。


 しかし、やはりというべきか、彼らは呑まれていた。

 本来は雇用主と一体になって場を宥めるべき味方が、他の旅館の従業員たちと一緒になって貴臣バッシングに加わっている。



「なんか、怖いな……」


「仕方ないわよ、それが同調圧力っていう悪魔だもの」



 糺が吐き捨てるように言った。

 一方の貴臣は、海を割って進むモーセのように、広間奥の席に着くところだった。


 それを合図に、一瞬、会場が鳴りを潜める。

 彼は目を閉じた。次第に周囲がざわめき始める。

 次の瞬間だった。



「うるっせええええ!!」



 貴臣の怒号が、大広間に反響した。



「どいつもこいつも、支配人支配人組合長組合長ってうるっせえんだよ! ここに集まってるのはこの温泉街でもそこそこ地位の高え奴らだろうが。普段若え衆に対してやれ要領良く動けだの、やれ考えて仕事しろだの言ってんだろう! だったらちったあテメエで考えることはできねえのか!

 今ここにいるのは誰だ! 老害か? 無能か? 違うだろう! ここにいるのは、『銀山温泉という伝統を守り、盛り上げ続けてきた素晴らしき担い手たち』じゃねえのか!?」



 緊張が駆け抜ける。

 周囲が気圧されてから、貴臣は静かに居住まいを正す。



「…………少なくとも、俺はそう思っている。いや、正直言うと、そう改めて認識させられた。悔しいけどよ、バケモンが言っていた『三方よし』の概念は、俺たちも心に留め置かなきゃならねえ言葉だ」



 彼はゆっくりと、ひとりひとりの目を見ながら言った。



「銀山温泉というブランドがあることで世間よし、営業することでお客様が楽しむことができれば買い手よし。それだけでも営業をしようという理由には足る。だが、本当にそれだけでいいのだろうか。

 そりゃあ俺たちにとって、今日の午後から来るお客様は、年に何千何万と訪れる人の何人かに過ぎないかもしれない。だが、ここで負けてしまって、休業せざるを得なくなれば。今日明日で一生の思い出を作ってくれたかもしれないお客様の楽しみを棄ててしまうことになれば。俺たちは銀山温泉のスタッフとして、浪漫の売り手として、悔いが残るんじゃあないか?」



 はっと、誰かが息を呑む音がした。

 真人は瞬きさえ忘れていた。プロというものの在り方を、目の当たりにした気がした。

 こと社会的価値で見れば、買い手に喜んでもらうということが最上だろう。利益が上がり、何億という市場価値を生み出せば成功者である。

 今回のようなケースでも営業を続ければ、貴臣率いる銀山温泉は『バケモノにも負けずにサービスを提供し続けたストイックなスタッフ』として称賛の言葉でも浴びるかもしれない。


 しかし、それだけではいけないと彼は言った。



「営業をしよう。ただし、ツアー主催者とそのお客様に、今回の事件のあらましを必ずご説明し、帰宅を希望する方には交通費と粗品の手配。後日改めて、手紙で謝罪させていただこう。

 説明を受けた上で利用したいと申し出てくださるお客様には――全身全霊でおもてなしをすること」



 そう言って立ち上がった貴臣は、深く、深く頭を下げる。



「今こそ、皆様の力が必要です。従業員を危険な目に遭わせるのです、この一件が落ち着いてから、私を解任してくれても構いません。ですがどうか、どうか今だけは! 今暫く私に、銀山温泉に、御力をお貸しいただけませんか!」



 しん、と、彼の熱意を量るように、いやな静寂が訪れた。


 真人は糺と雪弥に目配せをし、手を胸の前に掲げた――が、しかし、それは無粋だった。

 こちらがサクラのようなそれをする前に、広間中から拍手が巻き起こったのだ。



「あははっ、私たち、危うく温泉に水を差すところだったわね」


「想いの丈は皆同じだったということでしょう。素敵な事です」



 苦笑する二人をよそに、真人はちょうど、貴臣と目があった。

 小さく手招きをされ、歩み出る。彼は、少し照れくさそうに言った。



「あーその、そういうわけだ。面倒を押しつけて悪いが、またバケモノが現れたら、その時は頼む」


「もちろん。むしろ、謝るのはこっちの方だぜ。次は必ず、皆を守りきると約束する」


「助かる。部屋も一等いいものを手配するさ」



 貴臣は振り返り、口に手を当てて、とびっきりの歓声を放つ。



「よしみんな、ひとっ風呂浴びてこい! 今夜の花笠踊りは、至上最高に盛り上げるぞ!」



 温泉中を震わせるような、応、の返事が勇ましかった。











 真人たち男性陣は、駐車場側の坂道を少し戻ったところにある露天風呂までやってきていた。

 貴臣の経営する旅館は現在従業員が入浴中であるため、彼のお気に入りであるという湯に案内されたのだ。



「すげえカッコよかったな。『うるっせええええ!!』って叫んだ時は、どうなるかと思ったぜ」


「相手を上回る怒気をぶつけてから、丁寧に本心を話す。警察なども使う、上手い手法ですね」


「よせよ、そんな駆け引きができるタマじゃない。遮二無二だったさ」



 長方形のスペースに寝転がるようにして入る露天風呂は傾斜がかかっており、好い具合に景色も楽しむことができる格別のスポットだった。

 南に昇った太陽は背中側。空からの眩しさで邪魔されないどころか、立ち昇る温泉の湯気に反射して、景色を爽やかに照らすステンドグラスのようにきらめいている。



「しっかり守らないとな」



 まるで自分に言い聞かせるように、貴臣が呟いた。



「最初に悩みを聞いたからかもしれねえけど。なんか、顔つき変わったな」


「そうか? まあ、確かにあの時は、バケモノが暴れてぶっ壊れるなら、それでもいいと思ってたしな」



 彼はそう言って、何かを吹っ切るように伸びをした。



「かなりビビってた。汗だくになっていたよ。それで、お前たちのところへ行く前に着替えたんだが……そのとき、こいつが目に入った」



 掲げて見せられたのは、蛍があしらわれたネックレスだった。



「それは、こころちゃんとお揃いのものですか?」


「ああ。こいつと約束しちまったんだよ」



 貴臣は青空を仰ぎ、眩しそうに目を細めた。



「蛍が光る理由、知ってるか?」


「理由? うーん……動物や虫の習性でいけば、異性へのアピールとかか」



 改めて問われると難しく感じて、真人はお手上げだと肩を竦める。



「まあ、それもあるだろうけどな。一説には、光ることで蛍が交信してるといわれてる。こいつらにとってはたかが会話なんだろうが、それが、俺たちにとっては美しいものに見えるんだ」


「成程、勉強になります。習慣が実力に繋がっていくということですね」


「お、真人と違って雪弥は熱心だな。真人と違って」


「何で二回言った!?」



 真人が飛び上がると、雪弥がくすくすと笑う。



「事実でしょう? さっきだって、笹原先生が見せてくれた忠臣蔵のこと、忘れていた風な顔をされていたのは誰だったでしょう」


「ちゅ、ちゅーしんぐらは憶えてるし!」


「それでは先輩に問題です、大石主税の幼名は?」


「し、知ってるし! ゆ……雪之丞」


「どこの作詞家ですかそれは。松之丞ですよ」


「ニアピンしてるじゃんか!」


「不正解は不正解です」



 雪弥にガッツポーズを下ろされてむくれていると、貴臣が大笑いした。



「お前たちは本当に面白いな! 話を聞いた限りでは、相当な修羅場を潜ってそうだったが、それにしては緊張感が無い――あいや失礼、マイペースを保てるのは感心するよ」


「おいこら、緊張感無いって言ったろ今!」


「落ち着いて下さいお爺ちゃん、言い直して貰ったでしょう?」


「まだボケてねえよ!?」



 真人は頭に乗せていたタオルを外し、ムキーと噛みしめる。

 実際にムキーと言ってみたら、雪弥に白い目を返されてしまった。



「ははは、本当に感心するよ。蛍についても、釈迦に説法だったかな?」


「ああ、そうです。先輩のせいで話が逸れました。蛍とお仕事の関係性でしたね」


「ざっくり言えばそういうこった。はじめは大変な努力でも、いつかはそれを常にしなきゃならねえ。IT導入の話もそうだな。

 そうやって俺たちは、銀山温泉の従業員としてお客様に。一社会人として子供たちに。プロフェッショナルの一人として、キラキラして見えるようにしなきゃならねえんだ。従業員が辛気臭い顔している旅館とか泊まりたくねえし、子供たちも憧れないだろう?」



 真人ははしゃぐ手を止めて、目を丸くしていた。この年での社会人など、一般的にはせいぜい新卒数年目。一個の担い手として、ここまで考える者はごく少数だろう。

 その『一般的』には、父の跡を継いで農家をはじめた真人自身も例外ではなかった。


 父の意志を継いだ気にはなっていても、果たしてそれはどれほど成し得ているだろうか。

 農家として。そして、戦士としても。


 ふと、ノックの音で我に返る。



「――支配人。こちら側の湯に空きはございますでしょうか?」


「んー? どうした、あぶれるほどではなかったと思うが」


「無事でいらしたお客様も入浴をご所望されておりまして……」


「ははっ、流石に従業員が邪魔するわけには行かないわな。いいぞ、オレたちもそろそろ出るところだ、何人でも連れてこい」


「はいっ、ありがとうございます。失礼します」



 扉の向こうで、跳ねるような足音が遠ざかっていく。

 それを聞いた貴臣は、何度かああ、んん、と唸ってから、気まずそうに笑った。






  * * * * * *






 一方の女性陣は、『憧憬湯』の露天風呂を貸し切って湯あみをしていた。


 ひのきの香る高台の浴室は、大自然の中に溶け込むような錯覚さえ抱かせる。木々の緑を映したからか、薄い翡翠のような湯の色が美しい。

 露天から望める滝を堪能した糺は、深緑の空気を胸いっぱいに吸い込み、湯船に腰を下ろした。



「ああ……空気もお湯も溜め息が出るわ。幸せって、こういうことなのね」


「えへへ、でしょー? ここはね、こころのヒミツのばしょなんだよ!」


「そうなの? 凄いわね、教えてくれてありがとう」



 糺はまだ濡れていない左手で、小さな頭を撫でてあげる。

 宿泊客向けに解放されている一角で秘密もなにもないだろうが、それを言うのは野暮というものである。サンタは親だと言うことと同列の重罪だ。


 ふと、こころの首にかかったままのネックレスに、目を留めた。



「その首飾り、素敵ね。誰かからのプレゼント?」


「えへへ、お兄ちゃんとおそろいなの!」



 こころはくすぐったそうにはにかむ。



「こころの名前はね、銀山温泉がぶたいになったドラマがゆらいなんだって。えっとね……うーん?」


「ああ、それは『おしん』だべにゃ」


「それえ!」



 助け舟に、こころがきゃっきゃと跳ねる。

 ウカノメは肩までしっかりと浸かり、目を閉じていた。露天風呂でそれはどうかとも思うが、彼女なりに、湯に敬意をはらっているのだろう。



「ああ、なるほど。しんを心って字で当てたのね」


「でね、でね! お兄ちゃんが、人は一人では生きていけないんだよって、だから人に優しくしなさいって、蛍をプレゼントしてくれたの!」


「あのシスコン、九歳の女の子に随分と難しい話してるのねぇ……」



 これだから男は、と呆れていると、こころは首を振った。



「ううん。こころね、いつかは銀山温泉で、みんなを笑顔にするためにはたらくこと、ちゃんとわかってるよ。だから、むずかしいことなんじゃなくて、たいせつなことなの。お兄ちゃんはこころのために、いつもがんばってくれてるんだよ」



 真剣な眼差しだった。純朴故に、どこまでも深く物事を捉えようと懸命な瞳が揺れている。

 糺は心の中で、貴臣に謝罪した。あなたは立派な兄だと。同時に呪った。いつか『お兄ちゃんと洗濯物を一緒にしないで!』と言われてしまえと。

 そう思うと、不思議とツボに入ってしまい、頬が緩む。それを気取られないように、努めて柔和な笑みを保ちながら、糺は顔を上げた。



「こころちゃんは、お兄ちゃんが好きなのね」


「うんっ、だいすき! 大きくなったらね、お兄ちゃんのおよめさんになるの!」


「ぷっ、ふふっ、ごめ、もう無理、あははっ、今どきこういう子もいるのね!」



 やはり呪おう。そう思った矢先だった。



「糺お姉ちゃんは、真人お兄ちゃんのおよめさんになるの?」


「ぶっふぅ!?」



 人を呪わば穴二つ、である。



「けほっ、けほっ……ど、どうして真人なのかしら。雪弥くんの名前も挙げてあげましょうよ」


「だって、糺お姉ちゃんがお兄ちゃんとしりあいっていったとき、真人お兄ちゃん、ちょっとさみしそうな顔してたよ?」


「ああ、あれは正しく嫉妬だべな」


「ブルータスっ!?」



 ウカノメからも支援放火があるとは思いもせず、糺は湯船の底に滑り込むところだった。ここがひのき製で助かった、コンクリート舗装なら危うかったかもしれない。


 いや待て、よくよく考えてみれば、今の発言でどうして私が動揺する必要があっただろう。

 寂しそうな顔をしていたというのは真人の方であり、決して自分ではない。ならば何故? 条件反射かだろうか。それとも自分もそんな顔をしていた心当たりがあったのか。

 あるいは、真人にそんな顔をしてもらえたことを、嬉しいと思ってしまったのかもしれない。

 もちろん『少なからず』であり、当然ながら『どちらかと言えば』である。



「げっほげっほ……わ、私のことはいいのよ! えっと、その……あっ! 貴臣くんも同じネックレスをしてたわよね。お揃いで良いわねー、おほほほほ!」


「うん! だいすきだからおそろいなの! ねえねえ、糺お姉ちゃんと真人お兄ちゃんは、何かおそろいのもの、あるの?」


「(やだ、無限ループって怖くない!?)」



 糺は思わず顔を背けた。純真故の容赦ない追及は、砂場をスコップで掘るように、容赦なくこちらの心を抉ってくる。



「(お揃い? そんなのあるわけないでしょうよ、こちとら彼氏だっていたことないのに、どんなものを揃えればいいのかなんて分かんないし! 強いて挙げればインロウガジェットとか……? ああいや、さすがにアレをお揃いにカウントしちゃいけないってコトくらいは解かるわ……)」



 気が滅入りそうになる。

 よし、こういう時は経験者に御知恵を拝借しようと思い立った糺は、敢えてこころに切り返すことにした。



「ねえ、こころちゃん。どんなものをお揃いにすればいいかな?」


「んー、こころ、むずかしいことわからないけど、なんでもいいとおもうよ?」


「何でもいい、の?」


「なの! 糺お姉ちゃんのだいすきをいっぱいいっぱいこめれば、真人お兄ちゃんにとどくはずなの!」


「ガッデム!!」



 糺は湯船にダイブした。

 降参だった。タオルがほどけ、髪がおどろになってしまうことさえ気にしていられない。大好きを込めるだ? その込め方が解らないと言っているんだよこっちは!


 くつくつとウカノメのからかうような笑い声を耳に入れないように、より深く潜る。

 しかし、温泉の湯というものは適度に熱い。火照った顔など冷えるわけもなかった。






  * * * * * *






 その夜は、かつてないほど熱狂的な銀山の姿があった。

 羽毛の絨毯がごとき白雪の世界でもなければ、時代さえ遡る紅葉のレッドカーペットがあるわけでもない。桜が散り、未だ深緑と呼ぶには若い緑が、うっすらと夜の向こうに見える程度。ましてや、昼間には異形騒動があったばかりだというに。


 人々は踊った。それでも踊った。


 銀山温泉では、奥の坑道を解放する間の夜に花笠踊りのパフォーマンスが執り行われる。

 普段は、温泉協会の中でも選りすぐりの舞手が数人、温泉街の中央の橋の上で見事な花笠の乱れ舞うところを披露してくれるという。


 しかし今宵は、中央だけとはけち臭いと言わんばかりに、温泉街のありとあらゆる橋の上で、欄干が弾け飛んでしまうほどの人々が溢れかえっていた。

 ガス灯や、旅館から漏れる明かりは、シャンデリアか、はたまた後光か。

 まさに、銀山の御祭りである。



「やっしょーまかしょ! しゃんしゃんしゃんっ!」



 真人たちも温泉街にある貸衣装屋から羽織袴を借り受け、見よう見まねで花笠踊りに興じていた。



「なあ、やっしょうまかしょって、どういう意味なんだろうな」



 傍で踊る雪弥に訊ねる。彼の袴姿はさすがに似合うものだったが、それだけに、普段とは異質な雰囲気を醸す大正風の出で立ちは新鮮さがあった。

 異様の最たる例であるハットのツバから、きょとんとした瞳が覗く。



「言われてみれば、考えたこともありませんでしたね。祭りのかけ声とはそういうものとばかり……」


「だよなあ。おーい、糺、知ってるか?」



 真人は声を上げた。

 糺は人混みから少し離れたところで、おしくらまんじゅうを避けるようにこころと手を繋ぎ踊っていた。



「なにをー?」


「やっしょーまかしょの意味!」


「ああ、それね。ちょい待ち」



 口角をそっと緩めて、彼女はこころを抱き上げ、橋を渡ってくる。

 持ち合わせている肌の白さも相まって、鮮やかな矢羽文様の紅染めに、夜の中でもなお際立つ濃紺の袴がとても美しかった。



「花笠踊りって、元は徳良とくら湖の堤を築く工事の中で生まれた土搗唄どつきうたに、舞を加えたものらしいのよ」


「土搗唄? なんじゃそれ」


「簡単に言えば、作業する時のかけ声ね。エンヤーコラとか、エッサホイサーとか、聞いたことあるでしょう?」


「ああ、成程。それでしたら『やっしょーまかしょ』は、やりましょう、任せましょう、といったところでしょうか」


「かもね。そうしたかけ声を訛らせたり、簡略化したものが語源と考えて良さそうよ。もしかしたらそのうち、コンビニの店員なんかが言う『っしゃーせー』も土搗唄になったりして」


「ねえよ」



 くだらないことで笑いあえるのも、祭りの空気故だろうか。

 そう思ってしまうほどに、辺りは賑やかだった。異形に負けないように、銀山温泉の誇りを見失わないように。誰もが懸命に戦っていた。






  * * * * * *






 だからこそ、その場にいない者がたとえ温泉の重要人物であろうと、誰も気が回らなかったのだろう。

 貴臣が本間の襖を開くと、ウカノメは静かに座していた。



「よくござっしゃったな」



 口調こそ日中のように飄々としていながらも、お茶をすすっているだけのはずの佇まいからは、びりびりと痺れるような気配が感じ取れる。



「(マジで神様だってのか……?)」



 貴臣から持ちかけた密会ではあったが、ウカノメの正体については、今この瞬間まで半信半疑であった。

 本能的に胃がひっくり返ろうとえずくのを堪え、母から叩きこまれた営業スマイルを保つ。



「呼び出しちまってすまねえな、婆さん」



 そう声をかけると、ウカノメの目がくわ、と見開かれた。



「お姉さんだず!」


「ひぃっ!?」



 おいおい嘘だろうと。というより、出会ってからこの方、散々年寄り扱いしていただろうと。

 今になって爆発したのか、それとも自分が一人になる時をこれ幸いと締め上げるつもりで機会を窺っていたのか。真人たちは彼女を神様と話していたが、そもそも何の神様なのか。

 邪神、あるいは――



「くっ、あーはっはっはっは! 『ひぃっ!?』あて、はー、おっかしぃずにゃ!」



 突然手を叩いて笑い出したウカノメに、貴臣は面食らった。



「何びくびくしったんだず、別に取って喰うわけじゃあねえんだがら。祭りさ行がんねでちょんどしてらんなねんだ、意地悪のひとつぐらい言わせてけだってさすけねべ?」


「それは、まあ……」


「なに、どうせ年寄りにあだな激しい踊りは無理だっす。おらの方もさすけねえ。ほれ、座らっしゃい」



 貴臣は促されるまま、テーブルの角を挟んだところに腰を下ろした。



「んで、何したってのや」


「……あなたに頼みがあって来た」



 声を絞り出す。やけに喉が渇いて、差し出されたお茶に飛び付いた。

 ウカノメはこちらの不作法を待ってくれてから、切り出した。



「言いたいことはわがる。けど、あれはポンと出せるもんでねえのよ」


「ああ、その辺は真人たちに聞いてる。選ばれた戦士たちなんだってな」


「わがってるなら――」



「だから来た」



 ウカノメの言葉を遮り、じっとその目を見返す。

 貴臣は座布団から降り、半身分退くと、懐から小さな布の包みを取り出した。




――後編につづく――

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