第3話『ラ・フランスと草履編み』

前編/仮面に隠した想い


――山形県某所・喫茶『ごっつぉ』



 真人はコーヒーを待ちながら、糺の陽気な鼻歌に耳を傾けていた。


 こちらに背中を向けてこそいるが、今日は珍しく隣の席に座っても難癖をつけられない。よほど上機嫌なのだろう。

 布巾で何かを磨いているということは判るのだが。



「なあ、何やってるんだ?」



 声をかけても返事はない。

 そっと肩越しに覗き込むと、彼女が熱心に手入れをしていたものは、卓球のラケットだった。



「(ふうん、卓球か)」



 真人は椅子に座り直そうとして、ハッと二度見する。

 ラケットではない。いや、


 家庭用のそれよりも幅を広く作ることで打球面を形成し、反対に踵の部分を細く絞ることで、そこがグリップとなっている。畳生地の足底部に、カバーの紅花模様が良く似合う。



「なんじゃ、こりゃあ……」


「今日は河北の友達と『スリッパ卓球』ばしにいくんだーってしゃべったっけよ」



 ウカノメがコーヒーを持ってやってきた。



「んだなが。んで、スリッパ卓球って何すか?」


「何、しゃねのが。スリッパでする卓球だべした」


「ああ、うん……そっすね」



 違う、そうじゃない。

 真人は深く訊き出すことを諦め、コーヒーをいただくことにした。


 横目で糺を窺う。手を動かす度に揺れる髪から、ほのかに竜胆の香りがした。

 紅花は染料として用いられることが主のため、口紅はあっても、さすがに香水まで紅花というわけにはいかなかったのだろうか。


 それにしても。とカップを傾ける。

 彼女はどこか一匹狼のような印象があったが、集まって卓球をするような友達がいたとは。

 そんな失礼なことを考えていると、ポケットのスマホが着信に震えた。



「やっべ……コーヒー飲んでる場合じゃねえっけんだ!」



 表示された『成生俊丸』の文字に、今日は自分も約束があったことを思い出す。


「ごめんウカノメさん、ごちそうさま! お金、ここに置いて行くんで。それじゃ!」


 真人はわらわらと財布から五百円玉を取り出し、ソーサーの脇に置いて店を出た。











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  第3話/前編 『仮面に隠した想い』

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――山形県東根市・某所



「なんだ。サクランボ、ないじゃん」



 そんな呟きに、作業着に着替えた真人は、脚立の上で苦笑いをするしかなかった。

 眼下に集まった子供たちはみな、熟した果実のように頬を膨らませている。



「こ、これから大きくなるんだよ!」



 実がなりはじめてはいるが、彼らの期待する美しい紅に育つにはまだ早すぎる。剪定バサミで腹話術でもするかのように空気をとりなそうとするも、不発に終わってしまった。

 子供たちから一歩後ろで見守っていた俊丸と目が合う。彼は申し訳なさそうに会釈をした。


 俊丸の開く私塾は、一般的な形態とは随分違うらしい。子供たちの純粋な好奇心や知育を目的としているため、特定の教科があるでもない。先日の葛飾北斎にまつわる授業も、子供たちが『ゲームに北斎が実装されるらしい』と話していたことを受けてだったそうだ。

 余談だが、ヒロシゲ闇邪鎧の一件の後で、きちんと歌川広重の講義は行われた。


 そして今日は、父からサクランボ農家を継いだ真人と知り合ったことをきっかけに、校外学習を依頼されていた。

 しかし、次第に大きくなる『つまんないムード』に、とうとう真人は白旗を挙げた。


 自宅の縁側に子供たちを案内し、用意していたお菓子とジュースを振る舞う。畑の状態を見渡せるようにと父が生前に改築した広いスペースには、十人程度ならすっぽりと収まった。

 人を掴むならまず胃袋。子供が相手なら甘いものと相場が決まっている。



「申し訳ありません。旬の時期以外にも作業が必要なのだと教えたかったのですが、彼らには少々退屈だったようですね」



 嬉々としてとお菓子を頬張る子供たちを一瞥しながら、俊丸が言った。

 相変わらずの丁寧語である。こちらにタメ口を許したのだから、そっちも砕けてくれと言ってはみたのだが、どうにも定着してしまって変えられないらしい。さすがは有名人というべきか、真人にはさっぱり理解のできない感覚だった。



「まあ、しゃーないべ。俺も散々親父から教えられていたけど、ちゃんと聞こうと思ったのは高校に入ってからだし」


「お父様は、素敵な方なんですね」


「えっ?」


「畑を見れば分かります、仕事に誇りと愛を持っている方だ。もちろん、真人さんも」



 真人は照れくさくなって、空を見上げる。

 空の青と、雲の白さ、そして遠くの出羽三山。大自然のベッドに、自分の育てた子供たちサクランボが寝ている風景。父が宝物のように守っていたものだ。



「最高の親父でした」


「亡くなられていたのですか」


「ええ、半年前に。事故だそうで」



 そういうことになっているだけで真実は違うだろうことを、真人は黙っていた。共に戦うことになった俊丸には話しても構わないだろうが、あくまで推測の域を出ないのだ。

 彼女に話を聞くまでは。


 あいつはそろそろ、スリッパ卓球を始めた頃だろうか。『ごっつぉ』での様子から、どれほど楽しみにしているのかは明らか。戦いに追われる日々で束の間の休息を、ちゃんと楽しんでほしいと思った。



「ま、とりあえずセンセもこれ食ってけろや」



 柄でもない素直な感情を誤魔化すように、真人は俊丸へとお菓子を押しつける。

 サクランボのゼリー『さくらんぼきらら』と、ラフランスの洋菓子『山形ラ・フランスロールけーき』だ。県内のお土産コーナーなどで手に入る菓子の一つである。

 さっきから子供たちが大人しいのも、こいつのおかげだ。



「すみません、私まで」


「さすけねー。むしろ、数が足りていてよかったぜ。冷蔵庫のパクってきただけだがらよ」


「いただいて大丈夫なのですか……?」



 表情を曇らせた俊丸の肩に、手を乗せる。



「大丈夫だろ、開けられてたし。つか、どうして俺に教えねえんだってくらいだぜ」



 けらけらと笑っていると、家の中から怒号の爆発音がした。



「こらあ、真人! あんだ、勝手に冷蔵庫のお菓子ば食っだなあ!?」


「げっ……」



 噂をすれば何とやら。どこだ、どこだと言いながら家中の扉を開けているのが聞こえる。ついに広間の襖が開かれ、真人は発見されてしまった。

 畑が見えるようになっているということは、室内からも視界が開けているのである。

 ガララッ、と勢いよくベランダ窓が開かれ、鬼の形相が顔を覗かせた。



「まー、さー、とー?」


「あのな、母ちゃん。これにはワケがございましてですね?」



 そう言って生贄としまるを指さす。彼には悪いが、振る舞ったのは事実だ。

 すると鬼の表情は一転、柔和な笑顔に戻った。



「あらまー、真人の知り合い? よぐござっしゃったなっすー。さっぱどしてて男前だごと! あれ、何つったけが、あいづ! 将棋の人さ似てるって言わんねが?」


「あはは、お邪魔しています」



 俊丸は本能的に話しが長くなることを察したか、自分がその『将棋の人』だと白状することなく愛想笑いに徹していた。子供たちも、最初の鬼の形相を目撃して以来、隅の方で固まってしまっている。

 しかし、優しき鬼もここまで。再びひん剥かれた二つの瞳が真人の姿を捉えた。



「お母さん、明日のお茶飲みさ持っていぐつもりだっけんだけど!?」


「はあ? じゃあ開けておくなよ、食っていいかと思ったじゃねえか!」


「味見しとかねえと駄目だべ! んまぐねっけごんぱ恥んずかすいべした!」


「ンなもんしゃねず! つか、開けた箱持ってく時点で恥ずかしいっての!」


「要る分だけ袋さたがって行ぐに決まってんべや! いいが、寒河江さがえのチェリーランドさ売ってっがら、さっきのば今日中に買い直して来とげな!!」



 すっぱーん! とどこぞのスリッパツッコみロコドルもかくやという勢いで窓を閉め、鬼は茶の間の方へと戻っていく。


 正直、闇邪鎧並みに恐ろしい迫力だった。それは、他の子供たちと一緒になって震えているコウタ少年も同じらしい。

 嵐の去った静けさの中、真人は俊丸と目を合わせて困ったように笑った。











――山形県河北町・某所




 スカッと怒られた時には不思議と後に引かないものである。そういう点でも、真人は母のことを尊敬していた。今回のように自分の尻拭いはきっちりさせる、善き親である。



「悪いな、センセ。買い出しにまで付き合ってもらっちまって」



 ハンドルを操作しながら、真人は助手席に言った。



「お気になさらず。同じ戦士のよしみですよ」


「それ、あいつが聞いたらむくれそー」



 子供たちを送り届けた俊丸はわざわざ東根市に戻り、怒れるの母の言いつけに付き合ってくれていた。


 チェリーランドは寒河江市の道の駅で、大規模な物産展の施設である。山形の市街地から月山道、果ては庄内地方まで延びる国道112号線沿いという好立地で、近年寒河江市の勢いが増している立役者の一つだ。


 開けた窓から風を受けていると、あっという間に河北町へと進入していた。東根市――こと真人の家からチェリーランドへ向かうには、一旦河北を経由した方が早い。


 カーナビの隅に表示された体育館の文字に、今朝の仲間の姿がよぎる。



「そういや糺のやつ、そこの体育館でスリッパ卓球とかっつーのをやってるらしいぜ」



 話を振ると、意外にも俊丸は感嘆を漏らした。



「それは素敵ですね。以前は有志が大会を開いたりと、地元の特色として盛んだったと聞きますが……それも衰退して十年以上になるでしょうか」



 真人は唸る。そんな歴史があることは知らなんだ。もちろん十年前といえば物心ついてすぐの頃だから無理はないのだが、どことなく悔しい。



「真人さんのような農業の担い手もそうですが、こうして伝統を継いでいく若者がいるのは、素晴らしいことだと思います」


「センセ、真面目っすね」



 思いがけず自分まで持ち上げられ、真人は鼻の頭を掻いた。






  * * * * * *






――山形県河北町・町民体育館



 気持ちのいいスマッシュが決まり、糺は飛び跳ねた。



「うっしゃあ、またまた大勝利ぃ!」



 アイドルとしてのレッスンや、戦士としての戦い以外で汗を流すのは久しぶりのこと。学生時代は汗臭いなんて言葉の響きだけでかったるかったが、なかなかどうして、帰宅部であったことを後悔してしまうくらいに気持ちがいいものだ。



 卓の向かいで、同級生の女子が開いた口を塞げずにいる。



「た、卓球部キャプテンの私が……敗けるなんて」


「元ね、元。引退して何年ブランクあると思ってるのよ」


「もっかいやるわよ、糺!」


「やー、ちょっと休憩してからね。さすがにくたびれたわあ」



 颯爽と受け流して卓を離れる。強がってはみたが、正直、ブランクがあるとはいえ元部長との連戦は荷が勝ちすぎる。

 壁際まで戻ると、待っていた他の同級生がドリンクを手渡してくれた。スポーツドリンク系の独特な甘味が苦手な自分のために、無糖の炭酸水をチョイスしてくれるのはありがたい。



「あ、レモンのやつだ! よく憶えてたわね」


「仲間だもんねえ、と言いたいけど、そりゃ憶えてるって。『絶対それしか飲まない!』って駄々こねてたのはあんたでしょうが」


「そうだっけ? ごめんごめん」



 からからと笑い合う。会うのは卒業式以来だというのに、こうして気楽に話せる仲間の存在は、嬉しい。

 仲間、か。口内でハジける炭酸とともに、気まずい顔が浮かんでは消えていく。



「(悪いことしちゃったかな)」



 今朝、あいつが自分に声をかけてくれていたらしいことを、ウカノメから聞いていた。半年の空白があるとはいえ、職業柄、周囲の音にはアンテナを張っていたつもりだったのだけれど。



「んで? あんたもそろそろ、気になってるオトコとかいないの」


「ぶっふう!?」



 唐突な質問に、糺は噴き出した。口内に炭酸水がほとんど残っていなかったのが幸いである。



「えと……何ノ話デスカ?」



 首にかけたタオルで口元を拭いながら、訊き返す。



「だって、『つや姫』の活動は休止中でしょう? 無聊を慰める伴侶はいないのかなって」


「無聊だの伴侶だの……まどろっこしい言葉使ってくれちゃってまあ」


「社会人ですからー」


「社会人でも早々使わんわ!」



 後頭部めがけて右手のスリッパを振り抜いてから、糺はしまったと思った。スリッパによるツッコみは、彼女たちにとっても慣れ親しんだ儀式だ。

 つまるところ、このためだけに茶化されたのだ。


何が悔しいって、件の質問に対して思い浮かべてしまった男が、よりにもよって真人だったことだ。

 あいつを死なせてしまっては、自分の命を救ってくれた人に申し訳が立たない。ただそれだけの関係でしかない。それだけで、他意は全くないのだ。



――死んでほしくないんだよ。お前にも。



 トクンと胸が鳴る。真人が初めて変身した日、彼はそう言ってくれた。さすがは親子と言うべきか、間違いなく、真人にはあの人の血が流れている。

 そうだ、そうなのだ。これはそういう憧れめいた感情であり、決して……



 糺は大仰に咳払いをして、顔を上げた。



「『つや姫』はすぐに再開するわよ。いつになるかは未定だけど、必ずね」



 そう言うと、同級生の一人がほうっと胸を撫で下ろした。



「良かったー、続くんだね。わたし、流香るかちゃん大好きなんだあ」


「私じゃないんかい!」


「じゃあ私は百合ゆりさんで」


「じゃあって何よ、じゃあって――てか、あんたあのタカビーが推しなわけ!?」


「「あ、出たライバルー」」



 やんややんやと挙げられる名前に、自分の名前が出る気配がないのはわざとかコラ。あ、わざとなのか?

 糺はそんな挑発的な視線を、先ほど一戦かました元卓球部長の少女に向けた。



「んで、あんたは誰推しなのよ?」


「……り、りんちゃん?」


「よし、許す」



 流れを読んで自分以外の名前を挙げたこともそうだが、それが彼女であることもだ。



「え、何でミキだけ許されるの!?」



 にわかに上がるブーイングはスルー。糺はペットボトルのキャップをしめると、もたれていた壁から体を起こした。



「ささ、休憩も済んだし、もう一戦いこっか!」


「あ、じゃあうちら、外に行ったの呼んでくるね」



 そう言ってアリーナを出て行く友達を見送りながら、



「必ず助けるからね、凛」



 そう、一人ごちた。






  * * * * * *






 河北町民体育館から道路を挟んで向かい側『サハト紅花』の上に、それはいた。

 スーツで固めたOL風の淑女――カイバミと、シルバーアクセの主張が激しい黒のライダースジャケットに身を包み、長い茶髪を遊ばせる少女だ。


 少女は体育館の入り口から出てきた人影に反応したかと思うと、一瞥しただけで、面白くなさそうに鼻を鳴らす。



「あら、ご機嫌斜めねハチモリ。依代の記憶が気になるのかしら?」


「るっせーよ、解ってんなら黙ってろ」



 ハチモリと呼ばれた少女は、ギラつく双眸でカイバミを睨めつけてくる。



「よりによってアレが見えるところ選びやがって」



 そう言って彼女が指さしたのは、体育館の前面に大きく描かれた町の花・紅花のマークだ。


 カイバミは目を細めた。我らがニンゲンに紛れて行動するためには依代となる者を選び、その肉体を乗っ取ることが習わしであるのだが、ここまでその記憶を引き摺ることはない。

 何がそうまで、ハチモリの心を苛むのか。

 絆、という単語が頭に浮かんだが、そんなものが存在しないことを彼女は知っている。


 例えば、自分の依代がそうだ。『富める時も貧しき時も』などと御大層な口上を誓いながら、旦那は浮気をした挙句、先に浮気相手との子供ができたという理由で去っている。

 そうして仕事に没頭しはじめたらしい依代は、その後も報われることはなかった。年齢だとか、金だとか、胸の大きさだとか。人はそうしたステータスでしか自分を見ていないと知ったからというだけではない。彼女自身、次の恋の相手をステータスで選んでおり、そこから外れていれば、たとえ自分に好意を抱いてくれる相手をもぞんざいに扱っていることに気づいてしまったのだ。


 現代人はこれを『ごめん避け』と言うらしい。だがそれは、優しい謝罪などでは決してない。単なる身勝手なエゴと、そうと気付きたくない自分のために包んだオブラートでしかない。『授かり婚』だの『好き避け』だの名前を飾るのは結構だが、どう取り繕うと事実は事実。免罪符にはなりえないのである。


 そうしてついに『死にたい』と口にした彼女の前に現れたのが、カイバミだ。

 なら頂戴、と。

 愛を欲しながら、この体たらくなのだ、ニンゲンは。なんて、浅はかなこと。



「ま、我慢しなさいな。今回は貴女に見本を見せるためでもあるのだから」


「ハッ、言い様だよな。失敗したから子守りを押しつけられただけだろう? 今回寄せる魂だって、その性質を得意とするのはゼンナミの爺さんって話じゃねェか」



 嘲るような半眼に、カイバミのこめかみが引き攣る。



「あのねえ……世の中正解は一つではないの。『彼』は学問にも精力的で、県内初の図書館がこの地に建つきっかけにもなった人物。文化人という枠で見れば私も適任なのよ。あまり調子に乗っているなら、その鼻叩き折ってあげましょうか。天狗さん?」


「フザケロ。ヤり合う気なら、折る程度とか眠てえこと言ってんじゃねェぞ、ババア?」


「バ、ババ……っ」



 沸点に到達しかけたが、そんな彼女をよそに、ハチモリは体育館の方へ視線を戻してしまう。

 カイバミは肩を震わせて堪えた。ヨウセン様のためにも、ここは大人に振る舞おう。


 体育館から出てきた少女が外で休憩をしていた仲間たちと合流し、ちょうど自転車で通りかかった男子に声をかけているのが見える。



「お、ケンじゃん! あんたもスリッパ卓球やってかない?」


「喜べ。女子しかいないぞー」


「いやいや、こいつ誘うなら『糺ちゃんいるよ』って言わないと」



 女子三人寄ればなんとやら。カイバミにとっては耳に障る甲高い声でしかないが、しかし、件の男子は恥ずかしそうに顔を赤らめている。



「べっ、別にやんねーし! スリッパ卓球なんて遊びだろ、せめて卓球で呼べよ!」



 その一言に、カイバミの目の色が変わった。



「行くわよ」


「あいよ、っと!」



 屋根の上から飛び、道路を超えて彼らの下へ着地。唖然としている男子の耳元にそっと口を寄せる。



「坊や、貴方はただ頷きなさいな。スリッパ卓球は本物の卓球ではない、そうよね?」



 こくこくと、にわかには震えているだけにも見える頷きに、口角を吊り上げた。



「ハチモリ。よく見ておきなさいな」


「御託はいいからさっさと始めろババア」



 カイバミは癪に障る生意気を一瞥し、



「出羽の地に縁を持ちし職人よ。ムドサゲたるカイバミの名において命じる。今、闇邪鎧と成りて、姿を現せ!」



 指先に青の瘴気を生み出した。






  * * * * * *






 もう一口だけ炭酸水を口に含み、糺がペットボトルを鞄に戻した時だった。

 外から轟いた音に、動きが止まる。かすかな地揺れに少し遅れて、悲鳴。

 このような異常は他に考えられない。



「ちっ、週末くらい休んでろっての!」



 糺は鞄からインロウガジェットを引き抜いた。

 全員外に出ていることは幸か不幸か。気兼ねなく変身できる一方で、不安要素は限りなく大きかった。まして今は一人なのだ。ミダグナスと闇邪鎧を相手に、皆を守りきれるだろうか。


 真人の顔が浮かぶ。彼がいてくれれば、あるいは――



「いいえ、やりきって見せるって誓ったでしょうが! オラ・オガレ!」

《ベニバナ! 出陣‐Go-ahead‐ゴー・アヘッド、レイ! 花開け、クリムゾン・プリンセス!!》



 二階の窓から外へ飛び出し、一番近い同級生からミダグナスを引き剥がす。



「逃げて!」



 叫びながら『紅花乾坤圏』を召喚し、すぐさま次へと踊りかかった。幸い、皆はまだミダグナスに囲まれたばかりらしい。怪我もなく救出することに成功する。

 最後の一人である元卓球部部長――マキを助け出すと、彼女が縋りついてきた。



「お願い、中にまだ友達がいるんです! あの子……糺ちゃんも助けてあげて!」



 必死の願いに、レイはマスクの中で泣きそうになる。

 こんな状況で、私のことも心配してくれるなんて。真人といい、凛といい、マキといい、自分は本当に良い仲間に恵まれたものだ。

 仲間たちは、ちゃんと憶えてくれていた。『つや姫』のことも、ちゃんと。



「ありがと。最っ高に幸せだわ、私」


「えっ……?」


「大丈夫、その糺って子は任せて。あなたたちはもう帰りなさい」



 マキの背中を。無事に他の同級生たちと合流したのを見届け、レイは振り返った。



「あんたたち、誰に手ぇ出したか解ってんでしょうね……!」



 群がってくるミダグナスたちに、拳を握り締める。



「絶対許さないんだから。ちぇいさあああ――――ッ!!」



 奥に見える闇邪鎧を目指して、レイは飛びかかった。




――中編に続く――

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