(19)現実逃避
僅かに全身が下降すると同時に足が床に着いた感覚に、天輝は立ったままゆっくりとまぶたを開けた。するとそこは、予想通り先程通された応接室内であり、
天輝の口から乾いた笑いが漏れる。
「あ、あはははは……。うん……、例によって例のごとく、無事に元の場所に戻ったのよね。あのボトルとチャッカマンを回収するのをすっかり忘れてしまったけど、鞄はちゃんと持って帰ってきたし構わないか……。あれ位で文明が進化するとか、社会に変化をもたらすとか、有り得ないだろうし……」
しっかり手に提げていた愛用の鞄を見下ろしながら、天輝はなげやりに呟いていたが、急に顔つきを険しくしながら鞄を机に載せた。
「そう言えば! 咄嗟にデュランなんとかの首筋を、この鞄で思いきり殴っちゃった! 中にモバイルPCを入れてあるのに! まさか壊れたりしていないわよね!?」
そう叫びながら、天輝は血相を変えて鞄からモバイルPCを引っ張り出し、開いて電源を入れてみる。
「失敗した! 会社からの支給品なのに、思いきりぶち当てるなんて! どこかおかしくなったりしていないよね!? とにかく立ち上げて、確認してみないと!」
「失礼します。あの……、どうかされましたか?」
先程案内してくれた女性社員が戻り、天輝の狼狽した声を聞いて心配そうに声をかけてくる。それに天輝は、何とか平静を装いながら必死に誤魔化した。
「あ、お騒がせしてすみません。PCを鞄から取り出そうとした時に、誤って床に取り落としてしまいまして。……よし、大丈夫だった。良かったぁ~」
返事をしている間にモバイルPCが問題なく立ち上がったのを確認した天輝は心底安堵した声を上げ、それを聞いた彼女も笑顔で持参したお茶を机に載せた。
「そうでしたか。それではお茶は、こちらに置いておきます。筒井はあと数分でこちらに参りますので、もう少々お待ちください」
「ありがとうございます。頂きます」
女性社員が一礼して退出し、再び応接室に一人になってから、天輝はポケットからスマホを取り出して自身の腕時計の時刻と比較してみる。
「やっぱりスマホの時刻より、腕時計の時刻の方が15分進んでる…………。でも……、この際、そんな事はどうでもいいか」
三度目ともなるとさすがに面倒になった天輝は、その事に関して真剣に考えることを放棄した。そして徐に、出された茶碗に手を伸ばす。
「うっわ……。このお茶、滅茶苦茶美味しい……。どうしよう、お代わり貰えないかな……」
そんな現実逃避気味な呟きを漏らしながら天輝はお茶を堪能し、完全に平常心を取り戻した。そして待ち時間を有効に使おうと、立ち上げたPCに向かって入力作業を始める。しかしそれからさほど待たされず、待ち人が室内に駆け込んできた。
「誠に申し訳ありません! 高梨さん、お待たせしました!」
「筒井さん、大丈夫です。待っている間、他の作業を進めていましたので。それでは早速、始めていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい。よろしくお願いします」
恐縮しきりの筒井を天輝は満面の笑顔で促した天輝は、それから予定していた仕事を問題なくさくさくと進めていった。
「ただいま戻りました」
天輝が職場に戻って何人かに挨拶していると、近くの席にいた永島が作業の手を止めて尋ねてくる。
「おう、高梨お疲れ。うまくいったか?」
「はい、特に問題はありませんでした。なかなか重要な情報を先方から頂きましたし、良いレポートが書けると思います」
「それは良かったな」
「それに加えて、今日は出されたお茶が非常に美味でした」
普段、訪問先で出された物の論評などしていなかった天輝の台詞に、微妙に違和感を感じた永島は、無意識に問い返した。
「……お茶が美味かった?」
「はい! これまでの人生で、一番の味だったかと! 甘露とは、まさにあの事ですね!」
満面の笑みで頷かれてしまった彼は、はっきりと顔を強張らせながら慎重に確認を入れる。
「……高梨。お前、本当に大丈夫か?」
「え? 何がですか? 体調は万全ですけど?」
「いや……、何でもない。レポートを作成したら部長に提出する前に、俺に少し見せてくれるか?」
「はい、分かりました。ちゃっちゃと片付けますね! 代わり映えしない日常って、本当に素晴らしいですね!」
「…………そうかもな」
不自然に明るすぎる笑顔を振りまきながら天輝は自分の席に向かい、それを見送ってから永島は静かに席を立った。そしてまっすぐ悠真の席に向かう。
「おい、桐生」
「はい。永島さん、どうかしましたか?」
急に至近距離から囁かれた悠真は何事かと思いながら顔を上げたが、そんな彼に永島が真剣な顔つきで尋ねる。
「高梨の事だが……。本当にプライベートで、最近何か問題を抱えているわけではないのか? 最近、色々な意味でメンタル面が心配なんだが……」
真剣な面持ちでそんな懸念を伝えられた悠真は、横目で天輝の様子を確認しながら永島に伝えた。
「ご心配なく。今日は少々おかしく見えているかもしれませんが、明日にはいつも通りになると思いますから」
「何なんだよ、それは……。本当に大丈夫なのか? 原因は何なんだよ」
「本当に、大したことではありませんから」
呆れ気味の永島を何とか宥めながら、悠真は溜め息を吐きたいのを堪えていた。
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