(11)ちょっとした愚痴

 資産家である桐生家は、都内に庭付きの7LDKを有していた。それで賢人は実子の悠真と伸也は勿論、後見していた天輝と海晴にも一部屋ずつ与えていたが、それに関して天輝は常々申し訳なく思っていた。

 伸也が帰宅した日も、皆で揃って夕飯を食べ終えてから各自の部屋に引き上げていたが、少しして伸也が天輝の部屋のドアをノックしながら声をかけてきた。


「天輝。今、ちょっと良いか?」

「うん、良いよ。どうかした?」

 机に向かっていた天輝が振り返りながら気安く返事をすると、部屋に入ってきた伸也が手近なクッションを引き寄せて床に座る。


「最近、何か悩んでいる事とか無いのか?」

 唐突にそんな事を真顔で問われた天輝は、目を丸くした。


「一体、藪から棒に何なの?」

「さっき、母さんから頼まれてさ。最近お前が、何だか悩んでいる感じだけど、仕事上の事なら却って父さんや兄さんに相談しにくい事もあるだろうし、ちょっと話を聞いてみてくれって。仕事上の事なら余計に、俺が話を聞いてもアドバイスなんかできないっていうのに、無茶ぶり過ぎると思わないか?」

 困惑顔での訴えに、天輝は思わず苦笑した。


「お母さんって、時々そういう所があるよね。でも……、大きく外してはいないかな?」

「あれ? やっぱり何か悩み事があるのか? それなら五ヶ月だけ年長のお兄ちゃんが、話を聞いてやろうじゃないか。もしかして男関係か?」

 急に期待するような顔つきで身を乗り出してきた伸也を見て、天輝は盛大に溜め息を吐く。


「お母さんといい伸也といい……、どうしてそっち方向に話が飛ぶのよ。そういう事じゃなくて、半分は仕事かな?」

「へぇ? 半分ね。それで?」

 そこで一瞬躊躇った天輝は、脳裏をよぎった白昼夢もどきの出来事ではなく、仕事に関する事を口にした。


「う~ん、あのね? 入社してから今まで無我夢中で仕事を覚えたり先輩から引き継いで頑張ってきたけど、最近考え込む事が多くて。自分はこれからも、ここでやっていけるんだろうかって」

 そこまで聞いた伸也は、怪訝な顔になって首を傾げた。


「仕事上で何か大きな失敗をしたとか、トラブルでもあったのか?」

「ううん、そうじゃないの。これまでは周囲や上から指示された内容をこなしていけば良かったけど、後輩もできて様々な企画立案にも携わるようになって、急に不安になってきたというか……」

「あぁ~、うん、何となくわかる。サラリーマンになった昔のダチが、似たような事を言ってたな。入社直後は大して気にしないけど、仕事に慣れて周囲が見えてくると、急に今後について不安になる時があるとか」

「そう! そうなのよ! だけどそんな事、業界内でも一目置かれている辣腕経営者のお父さんや、一年目から死角無しの即戦力と言われたお兄ちゃんに言っても、絶対ピンとこないだろうし!」

「あぁ~、うん。天輝の、その気持ちも分かるなぁ~。確かに二人とも、仕事上では隙が無さすぎるだろうし。……あくまでも、仕事上では」

 思わず遠い目をしてしまった伸也だったが、天輝は興奮気味に話を続けた。


「だって私、就活でも十社以上落ちて、ようやく桐生アセットマネジメントに採用になったんだよ? お父さんが拾ってくれなかったら」

「天輝、ちょっと待て。今の台詞は、父さんに対する侮辱だ。お前、就活中に父さんに『採用してくれ』って頼んだのか? それとも父さんが『天輝なら入社させてやる』とでも言ったのか?」

 急に険しい表情で鋭く追及してきた伸也に、天輝は冷や汗を冷やしながら慌てて否定した。


「どっちも言ってない! ごめん、口が滑った!」

「当たり前だ。父さんがその手の事で手心を加える筈がない。まかり間違っても父さんの前で口走るなよ? 天輝にそんな風に思われていたのかと、ショックを受けるから」

「うん、気を付ける!」

(うわ……、本当にさっきの伸也は怖かった。普段はヘラヘラしてるのに、昔から本気で怒るとお兄ちゃん並みに迫力あるからな……)

 些かきつい口調で指摘した事で天輝を萎縮させてしまったと気付いた伸也は、すぐに表情を緩めて穏やかに言い聞かせた。


「天輝は、実力で採用試験に受かったのに決まっているだろう。落ちた会社は、縁がなかったって事だ」

「そう思う事にする。贅沢を言えばお父さんの本当の娘だったら、もう少し自信を持って仕事ができたのかもしれないけど」

「天輝達の母親の真知子さんと父さんが又従兄弟の関係だし、俺達は全くの赤の他人じゃないんだぞ? それに血筋で才能が決まるなら、俺なんかどうなるんだよ。金勘定がからきしだから、いつもレイナに怒られまくってるのに」

 そこで肩を竦めた伸也を見て、天輝はすかさず同意する。


「確かにそうね。昔から伸也はお金を増やす事は無理でも、使う事には才能を発揮してたし。お祭りとかに行くとお小遣いをあるだけ使いきって私や海晴に借金を申し出て、お兄ちゃんに怒られていたよね?」

「反論できないな」

 そこで伸也が苦笑したところで、天輝は話題を変えた。


「ところでレイナさんって半年位前に伸也を車で送ってきた、二十代後半に見える金髪美女の事?」

「ああ、それで間違っていない。事務所の経理を一手に引き受けて、抜かりなく業務を回している俺の右腕だよ」

「あの時、顔を合わせて挨拶程度の会話をしたけど、日本語のイントネーションに全く違和感が無くて驚いたの。どう見ても外国人なのに凄いよね。事務所の所属歌手やタレントにも、そういう人が多いでしょう?」

 感心しきっている風情で天輝が感想を述べると、伸也が笑いながら事も無げに答える。


「あいつらは、今では全員日本に帰化しているが、元々難民みたいなものだからな。目の前に現状から抜け出せるチャンスが転がっていたら、言葉が分からなくて文化が異なろうが必死にそれに食らい付くさ」

「確かに生活がかかっているから、本気度が違うかもね……。だけど伸也は、そういう人達をどこでスカウトしてるの?」

「企業秘密」

「何? その秘密主義。でも確かに、世の中には私が普段想像もしないような極限状態に置かれている人達が、数多く存在しているのよね……。それなのに、それとは比べ物にならない位些細な事で悩んでいる自分が、猛烈に恥ずかしくなってきたわ」

「そうか。それじゃあ前向きになれた可愛い妹に、お兄ちゃんが良い物をやろう。これを持ってろ」

 伸也が満面の笑みでスラックスのポケットから取り出した物を見て、天輝は怪訝な顔になった。


「折り畳み式の携帯用ミラー? どうしてこんな物を?」

 素直に受け取ったものの困惑している天輝に、伸也が持論を展開する。


「うちの事務所で働く全員に、一つずつ渡しているんだ。溜め息を吐くと、幸運が逃げるって言うだろう? 逆に笑顔でいると福の神が寄ってくるから、毎日鏡で自分の顔をチェックして、笑顔の練習をしろと言ってるんだ。天輝は万事難しく考えすぎる傾向があるし、二十代のうちに眉間の皺が固定化したら悲劇だからな」

「何か酷い事を言われた! 反論できないのが悔しいけど!」

「まあまあ、そう怒らずに。取り敢えずこれを持ち歩いて、時々取り出して自分の顔を見てみろ。そして、三十前の眉間の皺の固定化を回避しろよ?」

 茶目っ気たっぷりにウインク付きで言われてしまった天輝は、笑いを誘われながら頷いた。


「分かった。伸也の言う事は尤もだしね。ありがたく貰っておく」

「それじゃあ、俺は部屋に行くから」

「うん、おやすみ」

 そして笑顔で手を振りながら天輝の部屋から出た伸也だったが、閉めたドアのすぐ横に悠真が背中を壁に預けつつ仏頂面で佇んでいるのを認めて、うんざりしたように声をかけた。


「こんな所で、盗み聞きなんかしてるなよ……」

 そんな弟を、悠真は軽く睨み付ける。

「人聞きが悪いな。せめて立ち聞きと言え。それより、首尾よく“あれ”を渡せたようだな」

「ああ。特に不審には思われていない筈だ。だけどこそこそ様子を窺っていた上に文句があるのなら、自分で渡せよ」

「……悪かったな」

 不機嫌そうにそっぽを向いた兄を見て、伸也は呆れ気味に肩を竦めた。そして気になっていた事について確認を入れる。

「ところで……、本当に警戒するのは天輝の方だけで良いんだよな?」

 その問いに、悠真は即座に答えた。


「ああ。相変わらず海晴の方は霊力が無さすぎて、滅多に所在位置を探れない。海外なら完全にアウトなレベルだからな。一応来月帰って来る時に、探りは入れてみるが」

「本当に、二人を足して二で割れば、能力的にも性格的にもちょうど良かったかもしれないな。それじゃあ、俺は寝るから。明日の昼前には出るしな」

「相変わらず慌ただしいな……。体調管理だけは怠るなよ? 弱小プロダクションでも社長は社長。従業員の生活に責任があるんだからな」

「分かってるって。おやすみ」

 そこで兄弟は短い会話を終わらせ、何事もなかったかのように、それぞれの部屋に引き上げていった。

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