(12)青天の霹靂、再び

「よし、それじゃあ行ってくるか」

 いつも通り出社した天輝が、連絡事項や幾つかの書類の確認を手早く済ませ、椅子を温める間もなく立ち上がったのを見て、隣席の朱里が声をかけてきた。


「あ、高梨先輩。今日は外回りでしたか?」

「そう。あちこち回って、戻るのは夕方かな? 遅くとも、定時までには一度戻る予定だけど。期限が差し迫っているレポートもあるし」

 鞄を持ち上げながら簡単に予定を告げると、朱里が納得したように頷く。


「あちこちの第3四半期決算の公表時期が重なっていますから大変ですね。直帰できれば良いのに」

「いつもの事だから。それに、三月決算公表期よりはましよ」

「それもそうですね。先輩。昨日貰ったデータの入力は今日中に済ませておきますので、戻ったら確認をお願いします」

「分かった。よろしくね」

 互いに笑顔で別れて外出した天輝だったが、ビルから出て最寄りの駅に向かいながら、徐々に気が重くなってきた。


(それにしても……。今日出向くところは、あまり良い印象が無いところばかりなのよね。確かに前任の永島さんは、ベテランで男性のアナリストだけど……)

 無意識に溜め息を吐きながら、天輝は地下鉄駅に直結しているビル内に入って行く。


(あそこの広報担当者とか、あそこの経理担当役員とか……。販売実績や営業利益を落とした挙げ句、不採算部門の再編成や売却も依然として進められずに借入金だけ増えているのに、評価据え置きなんてできるわけ無いでしょうが。そんな事をしたら、こっちの判断能力が問われるわよ)

 エスカレーターで地下へと下りていった天輝だったが、下降するに従って徐々に機嫌も悪くなっていった。


(それなのに、はっきり口に出しては言われないけど、お宅の評価が低いから銀行が追加融資をしてくれないとか、永島さんだったらもっと高評価をしてくれたのにとか、見当違い筋違いの事をネチネチと……。女で若造で悪かったわね! それでもあんた達よりは、まともな仕事をしてるつもりよ! 本来だったら、もっと格付けが下がっていてもおかしくないわよ!)

 エスカレーターから降り立ち、憤慨しながら改札口へ向かって歩き始めた天輝だったが、ふと通路の両側に並んでいる店舗の壁面ガラスに目を向けた。するとそこには自分の強張った顔が映り込んでおり、それに気がついた天輝が思わず足を止める。


「駄目だ駄目だ、平常心平常心。こんな状態で、公平な取材や財務分析なんてできないわ。ちょっと頭を冷やそう。余裕を持って出て来たから、まだ十分時間はあるもの。一杯珈琲でも飲んで……」

 空いている左手で軽く自分の頬を軽く叩きながら自分に言い聞かせた天輝は、反射的に周囲を見回し、トイレのピクトグラムを確認した。そして当座の行き先を変更する。


「それよりも笑顔かな。こういう時こそ、伸也のアドバイスに従うべきよね。でも人通りがある場所で百面相なんかしたら悪目立ちするから、トイレに行こう。なるべく大きな鏡がある方が良いし」

 そこで迷わずトイレに直行した天輝は、通勤時間帯を外れた事で無人のパウダールームに足を踏み入れ、早速両手で引っ張ったり撫で回したりして顔の筋肉を解し始めた。


「スマイルスマイル。何を言われても必要な情報以外は、笑って右から左に聞き流す事。こっちの度量の広さを示して、最後まで余裕で受け答えするのよ、天輝」

 ブツブツと自分に言い聞かせながら、顔を笑顔を作る練習をする事、五分強。その頃には天輝の精神状態も完全に落ち着き、鏡の中の自分に向かって満面の笑みで頷いた。


「うん、元気出てきた。自分では『弱小事務所だ』なんて言ってるけど、やっぱり一国一城の主だもの。伸也の苦労に比べたら単なる一社員の私の気苦労なんか、たかが知れているわよね。伸也、ありがとう。私、頑張るから! その評価で企業の価値が変わり存続に影響すると経営者達が恐れおののく、お父さんのような凄腕のアナリストになってみせるわね!」

 御守り代わりにポケットに入れてある、伸也から貰った携帯用ミラーを服の上から軽く叩きながら天輝は力強く宣言したが、ここで彼女の周囲で異変が生じた。


「え? 何? この光……」

 見覚えがあるというより、十日程前に無理やり記憶の奥底に封じ込めた物と同様の光の輪が、突然自分を取り囲むように床面に出現した事で、天輝は盛大に顔を引き攣らせた。


「って、まさか……、また“あれ”なの!?」

 限界まで目を見開いた天輝が思わず叫んだ途端、前回と同様に床面の輪の光量が爆発的に増加し、彼女の足がゆっくりと床から離れて宙に浮き始める。


「だから本当に何なのよ、これっ!? もう本当に、勘弁してよっ!! いっやぁあーーーーっ!!」

 理不尽な現象に対する怒りと本能的な恐怖から、声を限りに叫びつつ光の輪から抜け出そうとした天輝だったが、足を踏み出す間もなく周囲が眼が眩むほどの光に包まれた。反射的に彼女が目を閉じた瞬間、その姿はパウダールームの中から消え、床には彼女の取り落とした鞄が放置されていた。

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