(29)ブラックさんの献身

「それでは聖女様。歓迎の宴にご参加いただきますので、どうぞこちらに。ご案内いたします」

「それはどうもありがとうございます。でも友人が一働きしたくてうずうずしていますので、少々お待ちくださいね?」

「は? ご友人、でございますか?」

 怪訝な顔になった男の目の前で、天輝は満面の笑みで巾着袋からスプレー缶を取り出した。


「さあ、ブラックさん! 黒より黒いあなたの力で、この邪悪な存在を貴女色に染め上げてやって頂戴! とりゃあぁぁーーっ!」

 そう叫ぶと同時に中腰の姿勢になった天輝は、足下にスプレーを噴射しながら小走りで移動を始めた。彼女が移動すると同時に、召喚陣に黒い線が不規則に描かれ始めたのを見て、周囲の男達が仰天する。


「はぁ、はぁあぁぁ!? 聖女様! 何をなさっておいでなのですか!?」

「この中腰はさすがに疲れるわね! だけどブラックさんの力を最大限に発揮できる距離を、私は保つ! 任せて頂戴!」

 非難の声など全く気にせず、めちゃくちゃに動き回りながら、天輝は黒い線を無秩序に石舞台に増やしていった。そんな彼女を止めようと、屈強な兵士らしき男達が殺到してくる。


「聖女様、お止めください!」

「聖なる召喚陣を汚すのは、幾ら聖女様でも許されませんよ!?」

「私を呼び出すのに使った召喚陣を、私がどう扱おうと私の勝手よね!? くらえ!! 魔王も滅する毒霧よ!!」

 自分を拘束しようとした男達に向かって、天輝は不穏な台詞を吐きながらスプレーを噴射した。当然これまでに見たことがないそれに対する彼らの恐怖心は半端ではなく、瞬時に黒に染まった自分の手や衣類を見て、全員パニックに陥る。


「うわぁあぁぁっ!」

「なんだこれは!」

「黒い霧だぞ!」

「ひぃいぃっ! 触れたら黒くなったぞ! 助けてくれぇえぇっ!」

「はっ! 揃いも揃って情けないわね! そんなに怖いなら、黙って指を加えて見ていなさい!!」

 蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う男達をせせら笑った天輝は、黒線をぐちゃぐちゃに描くのを再開した。

すると国王らしき男達が、怒りで顔を紅潮させながら叫ぶ。


「貴様ら! あれは聖女などではない! あの魔物をさっさと殺せ!」

「そうね! 聖女なんかじゃないのは正解よ! これに懲りて、聖女の召喚は諦めるのね! まあ、この状態なら、当面できないでしょうからね!!」

 中心部の紋様が、殆ど黒く塗り潰されてしまった召喚陣を満足げに見下ろした天輝が、得意満面で怒鳴り返す。するとここで足下が再び光り出し、天輝は次に起こるべき出来事を悟った。


「あらあら、ブラックさんの効果絶大。それでは皆様、ごきげんよう! 永遠に、さようなら!!」

 軽く右手を振りながら天輝が勝利宣言をする間に、身体に僅かな浮遊感を感じ、周囲が爆発的な光で満たされた。その数瞬後にしっかりと床に立っていた天輝は、視界が回復すると同時に、握ったままのスプレー缶に視線を落とす。


「ふぅ……、なんとか無事生還。そして、使いきったか……」

 そして噴射ボタンから指を離した天輝は、スプレー缶を両手で包み込むように持ち替え、それに向かって神妙な顔つきで語りかける。


「ブラックさん。あなたの献身は、永遠に忘れないわ。ありがとう」

 その姿は端から見れば正気を疑われそうな光景ではあったが、幸い周囲に人影はなく、天輝の奇行を目にした者は皆無だった。


「ああ、高梨。戻ったか。すまん、光星興業のレポートを前倒しで出して貰いたいんだが」

 天輝が職場に戻って自分の席に向かう途中、永島から声をかけられた。それに彼女が笑顔で応じる。


「はい、準備できています。後は最終確認だけすれば良い状態なので、三十分だけ頂けますか?」

「それは構わないが……、どうかしたのか?」

「何がですか?」

「なんだか妙に、すっきりしているというか、憑き物が落ちたような感じがするが……。俺の気のせいか?」

 この間天輝から感じていた、どこかピリピリした緊張感に似た雰囲気が感じられなかった永島が、怪訝な顔で尋ねた。それに天輝が、穏やかな笑みを浮かべながら応じる。


「いえ、最近勃発した問題事項が一つ片付いて、晴れ晴れした気持ちでいるのは確かですね」

「そうなのか? それは良かったな」

「はい。このブラックさんの、献身のおかげです。今日は息絶えた彼女の御霊を見送りつつ、未来に向けて新たな一歩を踏み出していきます」

 徐に巾着袋からスプレー缶を取り出した天輝が、どこか悟りきった表情で告げると、彼女の周囲だけ不気味に静まり返った。


「……そうか。まあ、前向きなのは良いことだな」

「ええ、これからも頑張ります」

 そして何事もなかったように自席に戻る天輝を見送った永島は、悠真の席に駆け寄って小声で訴える。


「おい、桐生。高梨は大丈夫なのか?」

「安心してください。取り敢えずの懸案事項も、無事に解決したみたいですから」

「本当にそうなら良いんだがな……」

 納得しかねる顔つきの永島を宥めながら、スプレー缶を使っての召喚阻止ができたであろう事を悟った悠真は、安堵の溜め息を吐いていた。



「ただいま……。あれ? そう言えば、今日って木曜だった!」

 帰宅した天輝は玄関先に見慣れないスニーカーを認め、慌ててその日の予定を思い返した。それと同時に急いで靴を脱ぎ捨て、まっすぐリビングへと向かう。


「海晴、帰ってきてる!? あ、帰ってきてた! お帰り!」

 ドアを開けながら大声で問いを発した天輝は、ソファーに座っている旅装の妹を認めて、勢い良く彼女に抱き付いた。そんな姉を抱き止めながら、海晴が苦笑気味に問い返す。


「天輝、ただいま。どうしたの? 今までに、こんなに感激して出迎えてくれたことは無かったよね? 私が居ない間に、何かあった?」

「大ありよ! 海晴が戻ったら洗いざらいぶちまけようと、帰国を指折り数えて待ってたんだから!!」

「うん、何かあったのは分かったから、取り敢えずちょっと落ち着こうか。お母さん、夕飯までまだ少し時間があるよね? 天輝と部屋に行っていて良いかな?」

 海晴と向かい合って座って話をしていた和枝がそう問われ、少し困った顔つきになって天輝に提案する。


「天輝。今日、海晴が戻るのは二人とも知っているし、早く帰ると言っていたの。だから例の件は、全員揃って夕飯を済ませてからにしない?」

 それを聞いた天輝は、確かに全員揃ったところで一連の詳細を説明した方が良いだろうと考え、素直に頷く。


「その方が良いかもね。じゃあ海晴、夕飯まで今回の仕事先の話でもしてくれる?」

「一体なんなのよ、勿体ぶって。まあ、良いけどね」

 そこで姉妹は揃ってリビングを出て自室がある二階に移動し、和枝は台所に戻って男二人の帰宅を待つことになった。

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