(3)密談

 職場である桐生アセットマネジメントに出社後、天輝はいつも通り勤務していたが、直属の上司である運用部部長経由で指示を伝えられ、仕事を中断して社長室へと向かった。


「どうぞ」

 ノックをすると即座に了承の返事が室内から響き、天輝は静かにドアを開けてから一礼する。

「桐生社長。高梨です。部長からお呼びと伺いましたが」

 社内ではこれまで賢人が公私混同などした事は無く、しかし平社員の自分をわざわざ社長室に呼び出す用件など思い付かなかった天輝は怪訝な顔で入室したが、対する賢人は笑顔で彼女を手招きした。


「ああ、昨夜これを渡そうと思っていたんだが、すっかり忘れていてね。たった今思い出したものだから、早い方が良いだろうと思って」

「何ですか?」

「これだ。これから肌身離さず持っていてくれ」

 歩み寄った重厚な机の上に載せられた掌に握り込めるサイズの、太めのライターのような代物を目にした天輝は思わず目を見張り、戸惑いながら説明を求める。


「あの……、社長? これは何でしょうか?」

「緊急脱出用の携帯用フロントガラス割りだ。先端の保護キャップを外し、割りたいガラス面に先端の凸部分を押し当てると、中心部に収納されている合金ヘッドが高品質のスプリングの瞬発力で勢い良く出てくる仕掛けだ。そして設置面から先端を外すと同時にヘッドが本体内部に収納され、繰り返し使うことができる優れものだ」

「………………」

 大真面目な賢人の説明を聞いた天輝は綺麗に表情を消し、問題の代物を見下ろしながら三十秒ほど無言になった。それから深呼吸して気を取り直してから、真顔で言葉を返す。


「社長、申し訳ありません。私は確かに普通自動車運転免許は保持しておりますが、自家用車を持っておりません。加えて社用車も滅多に使う機会の無い私が、それを持ち歩く必要性を全く感じないのですが。できればこれを所持する必要性を教えていただけませんか?」

 すると賢人は座ったまま軽く身を乗り出し、娘に向かって真摯に訴え始めた。


「天輝。お前が普段、車を運転する機会が少ないのは確かだ。しかしあらゆる可能性を視野に入れ、考えられる全てのリスクへの対処法を考えておくのは、仕事上でも基本中の基本だと思うが?」

「それは確かにそうでしょうが……」

「車には乗らなくても、電車には乗るだろう? その時、脱線事故とかポイントの切り換えミスでの衝突事故に巻き込まれる可能性は、未来永劫0では無いよな?」

「はぁ……、それは確かに、コンマゼロゼロ幾つかの可能性はあるかも知れませんね……」

(お父さんったら、いきなり何を言い出すの……。色々な意味で大丈夫かしら?)

 尤もらしい事を言っているようだが、どう考えてもこじつけにしか思えない主張に天輝が内心で呆れていると、賢人が問題の物を押し出しながら言い聞かせてくる。


「そういう訳だから、天輝。これをキーホルダーかバッグに付けて、持ち歩くようにしなさい。万が一、電車に閉じ込められた時には、これで窓を破って脱出するんだよ?」

「勝手に線路に下りたりしたら、それはそれで危険ですからあまり褒められた事ではないですし、車掌や駅員に止められると思うのですが……。分かりました、取り敢えず頂いていきます。ですが社長。室内に他の人間はおりませんが、ここはれっきとした社内ですよ?」

 一応勤務時間内であり、無駄な押し問答は止めておこうと天輝は大人しく受け取る事にしたが、最後にチクリと父親に公私混同だと指摘した。それで賢人は、自分が家にいる時のような口調や名前呼びをしていた事に気がつき少々ばつが悪そうな表情を見せてから、いつもの代表取締役社長の顔に戻る。


「おや、これは失態だったな……。それでは高梨君、仕事中に私用で呼び立ててしまって申し訳なかった。戻ってくれて構わない」

「はい。それでは失礼します」

 そして天輝が一礼して踵を返そうとしたタイミングで、ファンドマネージャーである悠真が短いノックに続いて入室してくる。


「失礼します。社長、先日経営会議の議題に上がった、新興国国債ファンド再査定の件ですが……、お邪魔でしたか?」

「いや、彼女との話はちょうど終わったところだ」

 その間に、心得た天輝は悠真に一礼して退出した。それを見送って社長室に二人きりになったところで、悠真が父親に前置き無しで確認を入れる。

「そうすると、首尾良くあれを渡せたんだな?」

「ああ。もの凄く不審そうな顔をされたがな。天輝に、とんでもなく過保護でウザい父親と思われないか心配だ」

「それ位、大した事は無いだろう。実際、過保護でウザい父親だし」

 呆れ顔で悠真が評すると、賢人は些か気分を害したように言い返す。

「……ほぅう? そうかそうか。それなら以後は、お前が全てフォローしろよ?」

 その宣言に、悠真の顔が微妙に引き攣る。


「それはさすがに……。やはり年配者の方が、話に信憑性を持たせる事ができるし……」

「遠慮するな。後進に道を譲るのが、先達の役目と言うものだ」

「俺が悪かった! 頼むから、遠慮させてくれ! 父さんが言い聞かせたなら不審に思われるだけで済むが、俺が言ったら絶対変人扱いされるから!」

「さて……、どうしたものかな?」

 必死になって言い募る悠真を賢人は意地悪く見やりながらからかったが、それはほんの少しの間だけであり、すぐに社長の顔に戻って仕事の話を進めた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る