(4)先輩としての気配り
集中してデータを作成しているうちに周囲は昼食を済ませており、仕事に区切りをつけた天輝は13時を過ぎてから自分の机の引き出しに鍵をかけた。そしてキーホルダーと財布をスーツのポケットに入れ、周囲に休憩を取る旨を告げて歩き出すと、ファンドマネージャーの一人である進藤由佳が鞄を提げて近寄りながら声をかけてくる。
「高梨さん、今からお昼? 私、今から出るから、一緒に食べない?」
「構いませんよ? 明日から長期出張ですから、今日はもう上がりですね」
「ええ、そうなの」
「じゃあ、お蕎麦とかお寿司にしましょうか?」
「そうしてくれると嬉しいわ。向こうでもあることはあるけど、当たり外れがあってね」
入社直後の指導役である由佳と、天輝はすこぶる友好な関係を築いていると同時に、尊敬する先輩でもあった。それで素直に誘いに応じたのだが、二人だけでエレベーターに乗った途端尋ねられた内容に、思わず項垂れてしまう。
「高梨さん、午前中に社長から呼び出しを受けていたでしょう? 何か深刻な問題でも発生したの? 今現在あなたが手掛けている案件で、そんな大事になる物は無かったと思ったけど」
真顔でそう問われた天輝は、まさか今現在ポケットに入っているしょうもない物を渡されただけとも言えず、曖昧に誤魔化した。
「ええと……、すみません。仕事上の話ではなくて、極めて個人的な話でした。どうやら父が、電話で済ませたくなかったらしくて……」
「そうなの? でも入社以来、社長が高梨さんを呼びつけた事なんて皆無よね? だからてっきり仕事上の問題かと思って、少し気になっていたの」
「お騒がせしてすみません。本当に大丈夫ですから」
「別に、問題が無ければそれで良いのよ。でも、個人的な事ね……」
そこで由佳は考え込んだが、エレベーターが1階に着いて扉が開くと同時に嬉々として言い出す。
「あ、そうか! 高梨さんが社内の誰かと付き合い始めたって噂が流れていて、娘ラブの社長が帰宅するまで我慢できずにその噂の真偽を問い質したとか!?」
「どうしてそうなるんですか!?」
「違うの? それが1番、信憑性があるかと思ったんだけど。でも確かに社内だと、あの桐生が睨みを利かせているから、よほどの猛者じゃないと太刀打ちできないか……。そのくせに色々な意味で不甲斐ない後輩に、そろそろ先輩として活を入れてあげるべきかしらね……」
由佳は三十半ばのベテランであり、今年三十の悠真も入社当時に世話になった事は知っていたが、どうして今更、しかも何に対して指導される必要があるのかと天輝は疑問に思い、並んで歩き出しながら問い返した。
「兄、いえ、桐生マネージャーがどうかしたんですか?」
「高梨さんが入社以来、桐生が社内の男性社員を牽制していたのは知っているでしょう?」
急に話題が変わったように感じた天輝は戸惑ったが、当時の事を思い返し、溜め息を吐いてから素直に答える。
「はい……。そのお陰で、私が兄の恋人だとか根も葉もない噂が社内に蔓延していて、それを進藤さんに教えて貰うまで全然気が付いていなかったんですよね……。その節は、本当にお世話になりました」
「名字が違うし、社長も身内だと公言していなかったから仕方がないわよ。私も詳しい事情を聞くまで、完全に誤解していたし。それにしても最初は『桐生マネージャーの恋人』とあなたを敵視していたと思ったら、それが誤解だと判明後は『社長の義理の娘でコネ入社』なんて陰口を叩くんだから、あの連中ときたら本当に始末に負えないわ」
該当する社員達を脳裏に浮かべながら、心底忌々しげに口にする由佳を、天輝は困り顔で宥める。
「あの人達が兄狙いだって事は以前から知っていますし、私が目障りだと感じるのも良く分かりますから。でもその事で、何か進藤さんにご迷惑をおかけしましたか?」
「迷惑はかけられていないわよ? かけられていないけど……。見ていてイライラすると言うか、腹が立つと言うか」
「私がですか?」
「安心して。桐生の方よ」
「兄がですか? どうしてでしょう?」
「…………」
益々訳が分からなくなった天輝が不思議そうに尋ねると、そこで足を止めた由佳は、しげしげと天輝の顔を見下ろした。同様に立ち止まった天輝は怪訝な顔のまま相手の反応を待ったが、結局由佳は小さく首を振って話を終わらせる。
「あれの立場もあるでしょうし、直接言うから。あなたからは特に何も言わなくて良いわ」
「そうですか。分かりました」
そこで目的の蕎麦屋に到着した事もあり、二人は一旦話を中断して店内へと入った。
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