(2)兄妹の関係
「じゃあ、行ってくるよ」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
都内に十分な敷地と部屋数がある自宅を出て、いつも通り出勤した天輝だったが、同じ職場勤務故に並んで歩いている悠真がどこか憂鬱そうに呟いた。
「そうか……、海晴が帰って来るか……」
「お兄ちゃん? どうかしたの?」
「ああ……、うん。大した事では無いが、また海晴から毒舌の洗礼を受けるんだろうなと思って、ちょっと気が重くなった」
職場の先輩でもあり稼ぎ頭の一人でもある悠真の、普段の泰然自若な様子とはかけ離れた姿に、天輝は本気で首を傾げる。
「確かに海晴は変に遠慮が無いというか、容赦がない所があるものね。お兄ちゃんに文句をつける人なんて、世の中にそうそういないのに……。いつもあの子が傍若無人でごめんなさい」
「いや、天輝が謝る筋合いの事では無いし、海晴の言い分は尤もな内容ばかりだから、仕方がないさ」
「そうなの? でも海晴が、どんな事についてお兄ちゃんを責めるの? 最近は一緒に暮らしていないし、全然想像できないけど」
「それは……」
「うん、何?」
急に足を止めて言い淀んだ悠真に、益々天輝の困惑が深まる。天輝は立ち止まったまま相手の返事を待ったが、悠真はここで彼女から微妙に視線を逸らしながら、何やら控え目に言い出した。
「その……、そろそろ天輝に、俺の事をお兄ちゃん呼びするのを止めて貰おうかなと……」
「……え?」
(お兄ちゃんの事を『お兄ちゃん』って呼んだらまずいって事? どういう事かしら……。あ、まさか、ひょっとして!?)
言われた内容が咄嗟に理解できなかった天輝だったが、少し考えてみて該当すると思われる内容に思い至った。それで反射的に持っていた鞄を取り落とし、両手で悠真のスーツに組み付きながら真顔で確認を入れる。
「ごめん、お兄ちゃん!! 私、ひょっとして無意識に職場で『お兄ちゃん』とか呼びかけていた!? 入社以来、そこの所には最大限の注意を払って、お父さんの事は『社長』、お兄ちゃんの事は『桐生マネージャー』って呼んでいたつもりなのに!?」
盛大に動揺している天輝を見て、悠真は溜め息を吐いてから優しく言い聞かせる。
「落ち着け天輝、大丈夫だ。俺が記憶している限り、職場でお前からお兄ちゃんと呼ばれた事は皆無だから」
「それなら良かったけど……。それならどういう事?」
「どういう、って……」
「何? 遠慮なく言って。すぐに改めるから」
取り敢えずは納得したものの、他に何か落ち度があれば即座に改めようと天輝が真剣な表情で見上げると、真正面からその視線を受けた悠真は、再び溜め息を吐いてから会話を終わらせる。
「何でもない。遅れるし、また改めて話すから。急ぐ話でもないし」
「そうなの?」
「ああ、行くぞ」
「……分かった」
天輝にはどうにも納得しかねる話だったが、大人しくスーツを掴んでいた手を放した。そして彼女が鞄を拾い上げたのを見た悠真が促し、二人で再び最寄り駅に向かう。
(何かすっきりしない……。でもお兄ちゃんがここまで言うなら、本当に大して重要な話ではないと思うけど……)
いつも通り雑談をしながら職場に向かった天輝だったが、時折並んで歩いている悠真の顔を盗み見ながら密かに考え込んでしまった。
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