(8)自分の正気を疑う時

「……え、ええと。戻った、んだ……、よね?」

 再び床に着地した感触を得た天輝は、光が収束後は周囲の状況が一変しており、使い慣れたエレベーター内部である事を確認した。それにより一気に緊張感から解放された彼女は、思わず無言でその場にへたり込む。その直後にゆっくりと目の前の扉が左右に開き、その向こうに立っていた人物が天輝の姿を認めて狼狽した声を上げた。


「高梨先輩!? こんな所で座り込んだりして、どうしたんですか!? エレベーターがこの階で止まっているから、てっきり無人だと思っていたのに!」

「……あ、宮崎さん。お疲れ様」

 後輩である宮崎朱里が慌てて駆け寄り、しゃがみ込んで声をかけてきた事で、天輝はまだ多少失調状態ながらも言葉を返した。しかし未だ座り込んだままの彼女に、朱里が顔つきを険しくしながら申し出る。


「先輩、具合でも悪いんですか!? ビル内のクリニックに行きますか!? 私、付き添いますから! ちょっと部長に連絡を入れますね!」

 早速自分のスマホを取り出し、職場を離れる旨の連絡をしようとする朱里を見て、変に事を大きくしたくなかった天輝は、愛想笑いを浮かべながら立ち上がった。


「ええと……、うん。大丈夫、具合は悪くないから。それに今日は14:30から会議だし……。あ、もう14:38だから完全に遅刻だけど、急いで行かないと」

「先輩? まだ14:23ですけど?」

 何気なく自身の腕時計で時刻を確認しつつ歩き出そうとした天輝だったが、怪訝そうに朱里が口にした内容を耳にして足を止めた。


「え? だって、私の時計は14:38よ? 今、14:39になったけど。宮崎さん、その時計は遅れているから、直した方が良いわ」

「私、毎朝時刻が合っているか確認していますし、このスマホの時刻表示もそうですが……。先輩、今、スマホを持っていませんか?」

「持ってるわよ。これだと時刻は……」

 朱里は何を言っているのかと不審に思いながらも、キーホルダーを入れているのとは別のポケットからスマホを取り出した天輝は、そこに表示されている時刻を確認して口を閉ざした。


「14:24になったところですよね? 日付と時刻は自動設定にされているでしょうし、私のスマホも同様ですから、こちらが正しい時刻ですよ。会議はこれからですから、安心してください」

「…………」

「先輩、本当にどうかしたんですか?」

 手にしたスマホを硬い表情で見下ろしたまま微動だにしない天輝を見て、朱里が心配そうに問いかける。それでようやく我に返った天輝は、慌てて笑顔を取り繕った。


「うん、大丈夫大丈夫、ちょっと寝ぼけただけだから。休憩時間が終わるし、仕事に戻るわね」

「『寝ぼけた』って……、先輩。本当に大丈夫ですか?」

「本当に大丈夫だから。ごめんね、変な事を言ったりして。時計が遅れるならまだしも、進んでしまうなんて変ね。買い換え時かしら?」

 まだ幾分心配そうにエレベーターに乗り込んだ朱里を、天輝は引き攣り気味の笑顔を浮かべながら見送り、急いで職場の自分の席に戻った。そして会議の開始時間まで切迫していた為、何気なくポケットからキーホルダーを取り出し、机の鍵を摘まんで引き出しの鍵穴に差し込み、解錠する。

 そこからファイルの1つを取り出し、再び施錠しようとした天輝だったが、そこでキーホルダーに付随している代物に、否応無く気が付いてしまった。


(凄くリアルだったけど、白昼夢かな……。いやいや、天輝、落ち着こうか。取り敢えず目の前の仕事を片付けて、その後ゆっくり考えよう)

 一瞬固まったものの、半ば現実逃避した天輝は、素早く元通り引き出しを施錠してキーホルダーをポケットに放り込み、何事も無かったかのようにファイルを抱えて隣接する会議室へと向かった。

 それから一心不乱に仕事に取り組んだ天輝は、退社直前に引き出しを施錠する時だけ非日常的な出来事を再び思い出したものの、すぐに脳裏に浮かんだその情景を消し去り、足早に帰宅した。そして無事に帰宅して心底安堵した天輝だったが、和枝と二人で夕飯を食べ始めて早々に、ちょっとした追及を受けた。


「ところで天輝、最近何か変わった事はなかった?」

「……え? 変わった事?」

「ええ。色々な面で」

 僅かに顔を強張らせた天輝だったが、和枝は笑みを深めながら娘の答えを待つ。


(どうしてお母さんは、このタイミングでそんな質問を……。確かに今日、自分の正気を疑う事があったばかりだけど。自分でも本当に現実の事だったのか自信が持てないのに、他人にあんな内容を披露したら、酷い妄想癖でもあるのかと疑われそうだわ……)

 わざわざ自分でも信じられないような話をする事も無いだろうと判断した天輝は、しらを切る事にした。


「変わった事ね……。今のところ、特に無いけど?」

「本当に? 少しはあるんじゃない?」

「本当に無いから。因みにお母さんは、どんな変わった事があったと思うの?」

「ほら、天輝に彼氏ができたとか。有り得そうじゃない?」

 変に思わせ振りに尋ねてくるから、何だろうと思えばそんな事だったかと、天輝は激しく脱力した。そして半ば安堵しながら、正直に現状を報告する。


「あのね……、彼氏なんて影も形もないから安心して」

「そうなの? 本当に?」

「どうしてそんな事を聞くの?」

「お父さんがみっともなく動揺する姿を、そろそろ見てみたいなぁと思って」

 妙に食い下がるなと怪訝に思いながら天輝が問い返すと、和枝がニヤリと面白がるように笑う。それを見た天輝は、半ば呆れながら意見を述べた。


「お母さん……。仮に私が恋人を家に連れて来たとしても、普段何事にも泰然自若としているお父さんが、大して動揺するとは思えないわ」

「甘いわね。狼狽して因縁を付けて、この家から叩き出しかねないわよ?」

「えぇ? それは絶対、お母さんの考えすぎだから」

「そうかしら?」

「そうよ」

 自信満々に答える母を見て天輝は少々不思議に思いながらも、当初懸念していた事とは見当違いの追及であった事に安堵した。


(何か意味深に尋ねられて、ちょっと焦ったわ。今日のような事はやっぱり迂闊に口外できないから、色々考えすぎて精神的に疲労している時に、そんな見当違いの事を聞いてこないで欲しい)

 取り敢えず変な事はさっさと記憶から消去するに限ると天輝は決心し、猛然と夕食を食べ進めてから自室に引き上げた。

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