(27)社会人としての心得

 翌朝、憂鬱な気分で着替えを済ませた悠真は、自室を出て天輝の部屋のドアを横目で眺めてから階段を下りた。そこでトイレから出てきたらしい賢人と合流し、二人で無言のままダイニングキッチンに向かう。


「おはよう」

 室内に足を踏み入れるなり、既にテーブルに着いて朝食を食べていた天輝がいつも通り挨拶をしてきた事で、悠真は固まり、賢人は驚きながら問いかけた。


「お……、おはよう」

「ええと……、天輝? 出社するのか?」

 昨日の今日であり、色々な意味でショックのあまり仕事を休むかと思っていた賢人だったが、それを聞いた天輝は凄みのある笑顔を向けながら問い返した。


「あら……、とても一企業のトップとは思えない物言いね、お父さん。具合が悪くて臥せっているならともかく、普通に起きて普通に朝食を食べている人間が、無断欠勤する理由なんてあるのかしら?」

「……無いな」

 天輝の背後で、和枝が無言のまま「天輝を刺激しないで」と言わんばかりに首を振っているのを見て、賢人は余計な事を言うのを止めた。


「そうよね? じゃあ、ごちそうさまでした。いってきます」

「いってらっしゃい。気を付けてね」

 取って付けたような笑顔の和枝に見送られ、出掛けようとした天輝だったが、いつもの鞄に加えて一辺が30㎝以上はあるように見える花柄の巾着袋を手に提げているのを見た悠真は、反射的に声をかけた。


「あの、天輝? その巾着袋は……」

 それにピクリと反応した天輝はゆっくりと向き直り、不気味に微笑みながら告げる。


「あら? この中身を昨夜私に渡したのはお兄ちゃんだと思っていたんだけど、幻覚だったのかしら? そうなると、常に持ち歩くようにとも言われた気がするんだけど、それって幻聴だったのかしらね?」

 それで巾着袋の中身が、昨夜自分が渡したスプレー缶であると分かった悠真は、微妙に視線を逸らしながら呟く。


「いや……、幻聴じゃないから」

「そうよね。それじゃあ、行ってきます」

 そして何事もなかったかのように出勤していく天輝を見送ってから、和枝は夫と息子に愚痴を溢した。


「あなた、悠真。どうして天輝の神経を逆撫でするような事をいうの? 聞いているこっちまでヒヤヒヤさはしたわ」

「悪い。だが、昨夜の様子だと、普通に出社するとは思わなかったから……」

 賢人に続いて和枝も溜め息を吐いてから、悠真に言い聞かせる。


「あの子に一社員としての自覚が、しっかり備わっていたという事よね。ある意味、良かったとは思うけど……。しばらく職場で天輝とは気まずい思いをするだろうけど、我慢しなさいよ?」

「……分かってる」

 悠真は渋面になりながら頷き、和枝の懸念は半分的中し、半分は外れた。



「桐生マネジャー。ちょっとよろしいですか?」

 何枚かの用紙を手にして歩み寄った天輝が、悠真の席まで行って声をかけると同時に、その周囲になんとも言えない微妙な緊張感が満ちた。それに気付かないふりをしながら、悠真が声をした方に向き直って顔を上げる。


「……ああ、高梨さん。どうしましたか?」

「先週頼まれていた市場状況の、データ分析を済ませました。共有ファイルT-5に入れてありますので、ご確認ください。条件に合致するポートフォリオ一覧だけは、プリントアウトしておきました。こちらになります」

「……ああ、ありがとう」

「どういたしまして。またいつでも、お申し付けください。それでは失礼します」

 悠真に持参した書類を手渡すと、普段の数割増しの笑顔を振り撒いた天輝は、恭しく一礼して自席に戻った。その一部始終を近くの席から見ていた永島が、天輝と入れ替わりに悠真のもとに行く。


「おい、桐生。高梨は一体どうしたんだ?」

「どうとは?」

 眼光鋭く尋ねられたものの、悠真はしらを切った。しかし先輩でもある永島は容赦なく追及を続ける。


「朝からいつにも増して笑顔だが、気迫に満ちた物騒すぎる笑顔だ。それがお前自身や業務関係に携わっている時に顕著だ。一体、何があった?」

「いえ……、特別な事は何も……」

「お前な……」

 口を割る気はない悠真に、永島が呆れ気味に応じる。すると仕事に区切りを付けたらしい天輝が立ち上がり、職場を出て行こうとしたところで、戻ってきた由佳と出くわした。


「あ、進藤さん。お疲れさまです」

「お疲れ様。高梨さんは今からお昼? ところで、その妙に大きくて、質感のある巾着袋は何?」

 いつもは手にしていない巾着袋に目を留めた由佳が何気なく尋ねると、天輝は明るく答えた。


「あ、これですか? これには、今現在の私の心の友が入っているんです」

「は? 心の友?」

「はい。心の友と書いて『しんゆう』と呼びます。ご紹介します。わたしの心友、ペイントスプレー缶のブラックさんです!」

「…………あの、高梨さん?」

「……………………」

 嬉々として巾着袋の口を広げ、中から取り出したスプレー缶を突き出して見せた天輝に、由佳は盛大に顔を引き攣らせ、その周囲が静まり返った。


「彼女を常に携帯しているお陰で、私のささやかな心の平穏が保たれているんです。まさに、心友で戦友。この鋼鉄のボディーを眺めるたび、その動じなさに惚れ惚れします」

「え、ええと……、高梨さん。お願い、ちょっと待って」

「それでは彼女と一緒に、お昼休憩に入ります。行ってきます」

「行ってらっしゃい……」

「…………」

 にこやかに断りを入れ、元通り巾着袋にスプレー缶を入れて歩き出した天輝を、由佳は呆然としながら見送った。その直後、彼女は憤然としながら悠真の席に駆け寄る。


「桐生!! あんた一体、何をやってるのよ!?」

 その非難の声に、さすがに悠真はむきになって反論した。


「ちょっと待ってください! どうして俺が、何かした前提なんですか?」

「だって昨日帰るまでは、彼女普通だったわよ!? どう考えても退社後、帰宅してから何かあったわよね?」

 その指摘に、様子を窺っていた周囲の者達が、顔を見合わせながら口々に言い出す。


「そうだよな……。少なくとも昨日までは、スプレー缶を擬人化して持ち歩くような真似はしていなかったよな……」

「一見普通に仕事をこなしてるけど、妙な緊張感がみなぎっているというか、なんというか……」

「迂闊に声をかけられない、微妙な雰囲気なんだよな」

「高梨先輩は大丈夫なんですか?」

 大真面目にそう問われた悠真は、かなり居心地の悪い思いをしながら答える。


「皆が心配する程のことではないと思うから。暫くしたら元に戻りますので、安心してください」

「本当に?」

「はぁ……、多分」

「やっぱりあんた、理由を知ってるわね!? 分かっているなら、さっさと対処しなさい!」

「進藤さん、それくらいで!」

「落ち着いてください!」

 煮え切らない態度の悠真に腹を立てた由佳が彼に組み付き、周囲は慌てて彼女を引き離そうとして、それから少しの間、その周囲は喧騒に包まれたのだった。

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