(15)反動
「……うぉっと、無事着地」
光が消失するのとほぼ同時に、天輝は30㎝程の高さから軽い衝撃と共に床に降り立った。そして、まだ多少動揺しながらも、注意深く周囲の様子を確認する。
「うん。私がさっきまでいた、元の場所で間違いない。鞄もある。取り敢えず負傷も無し。そして……」
パウダールームの床に転がっていた自分の鞄を取り敢えず持ち上げ、全身が映る鏡でスーツが破れたりしていないかをチェックし終えた天輝は、恐る恐る腕時計とスマホの両方で現在時刻を確認した。しかし当たって欲しくない予想通りの結果だった事で、がっくりと項垂れる。
「どうして腕時計の時刻が、スマホより14分も進んでいるのよ……。もう、訳が分からない。本当に勘弁して……」
論理的に考えると、前回同様得体の知れない場所に14分程滞在し、元の場所へ元の時間に戻って来たと考えるのが妥当な、しかしとても理解の範疇を越える状況に、天輝は現実逃避をしたくなった。だが仕事が控えており、そうもいかない彼女は現実逃避をする代わりにその日一日、目の前の仕事にいつも以上に集中して取り組んでいった。
「ただいま戻りました」
当初の予定通り、天輝が夕方に職場に戻って挨拶すると、出入り口近くの席にいた永島が声をかけてきた。
「おう高梨、戻ったか。今日は一日、外回りだったんだよな? お疲れ」
「永島さんもお疲れさまです。今日は新規投信ラインナップの会議でしたよね? 無事に終わりましたか?」
「ああ。少々揉めたけど、なんとかな。ところで、俺が引き継ぎした数社の決算時期だと思うが、色々大丈夫か? かなり評価が微妙なところが数社あったから、タイミングが悪い時期に引き継がせる事になって気になっていたんだが」
ついでのように永島が話題に出すと、天輝は明るい笑顔で応じた。
「ああ、確かにありますが、そこら辺は大丈夫ですよ?」
「そうか?」
「はい。微妙に数字を操作して体裁を取り繕えれば誤魔化せるとか、本気で信じているらしい所とか、馬鹿馬鹿しくて笑っちゃいましたね。ビシバシ重箱の隅をつつくが如く指摘して、『ちゃんとした数字を出さないと税務署に通報するが、痛くもない腹を探られたくなかったらまともな数字を出しやがれ』と啖呵を切ってきました」
「……お、おい。高梨?」
全く悪びれないその笑顔に不穏なものしか感じなかった永島は、盛大に顔を引き攣らせたが、天輝は不気味な笑みを深めながら説明を続けた。
「他にも某社ではバランスシートと損益計算書に突っ込みを入れまくって向こうの説明担当者を交代させ、某社の合同説明会で資料の粗を追求して質疑応答を打ち切られ、某社の為替相場の変動予測値の見積もりと融資返済計画の甘さについて切り込んで、資料の再提出をお願いしてきました」
不敵に微笑みながら報告する天輝に、さすがに永島は異常を感じ、真顔になりながら慎重に問いかける。
「高梨……、お前、朝に出勤してきた時は普通だったよな? 何があった?」
「え? 特に何も? でも……、そうですね。強いて言えば…………」
「強いて言えば?」
何やら難しい顔で考え込んだ天輝を永島が促してみると、彼女は先程まで以上の満面の笑みで断言した。
「言葉が通じて、価値観が同じ相手と関わるのって、凄く爽快で快適な事ですね!」
「……日本国内にいれば、大抵の場面で言葉は通じると思うぞ?」
何を言っているのかと永島は訝しんだが、天輝は真剣な面持ちで断言する。
「永島さん。それは大きな間違いです。同じ言葉を喋っていたり聞き取る事ができても、価値観や倫理観がまるで違う相手とでは、完全に分かり合える事は不可能です。最近、それを実感しました」
「本当に、何があった……」
「詳細を簡易レポートに纏めて、今日中に部長に提出しておきます。相手方からクレームの類いがくるかもしれませんが、ちゃんと理論武装しておきますので。寧ろ、来るなら来い! 一つ残らず、返り討ちにしてくれるわ!」
「…………」
永島が額を押さえて呻く横で、天輝が力強い叫びを上げる。その頃には二人のやり取りを聞いた者達は、彼らを無言で凝視していた。
「おい、桐生。高梨はどうかしたのか?」
意気揚々と自分の机に向かった天輝と別れた永島は、そのまま悠真の席に直行して声を潜めて問い質した。それに悠真は、素知らぬふりで応じる。
「え? どうかとは……、どういう意味でしょうか?」
「何か、あいつらしくなく、普段の数倍、戦闘意欲に満ち溢れている気がするんだが……。最近、男にふられたとか? お前、一緒に暮らしているんだから、そこら辺は把握してるだろ?」
大真面目にそんな事を言われてしまった悠真は、盛大に溜め息を吐いた。
「……永島さん。今の台詞、下手するとセクハラですよ?」
「いや、だけどな? 明らかにおかしいだろう? 仕事はちゃんと、普段以上に容赦なくしているみたいだが」
それから少しの間、悠真は永島を宥める事に時間を費やす羽目になった。
不測の事態からの帰還後、がむしゃらに仕事に集中していた天輝だったが、退社後に無事に帰宅し、自分の部屋に落ち着いてから、冷静に考えを巡らせた。
「う~ん、いきなり訳の分からない事を言っても、伸也を混乱させるだけだよね。ここはやっぱり簡潔に、明らかな事実のみを伝える事にしよう」
そして考えを纏めた天輝は、スマホを取り上げて伸也に電話をかけ始めた。
「もしもし、伸也。今、大丈夫?」
「ああ、どうした天輝。そっちから電話がくるのは珍しいな。何か急用か?」
「ええと……、急用ってわけじゃないんだけど、こういう事は、なるべく早くに言っておいた方が良いかと思って……」
「うん? 一体何だ?」
不思議そうに尋ねられた天輝は、軽く息を整えてから、過程は省いて結果だけを短く告げる。
「この前、携帯用ミラーを貰ったじゃない? それが早速役に立ったから、ちょっとお礼を言いたくなったの。どうもありがとう」
それに伸也が、笑いを含んだ声で返してくる。
「そうか。それは何よりだった。だけどそれ位で、わざわざ電話してこなくても良いぞ? 天輝は律儀だな」
「本当に助かったから、一言お礼を言っておこうと思って。それだけなの。それじゃあ、おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
取り敢えず言いたい事を言い終えた天輝は気持ちを切り替え、遭遇した非日常的な出来事を再び記憶の底にしまい込んで、いつも通り寝る支度を始めた。
一方、通話を終えた伸也は、先程の天輝の声音から微妙な動揺を察知し、溜め息を吐きながら小さく首を振った。
「やれやれ、大変だな。あの様子じゃ、父さんや兄さんの考えでは、当事者の天輝にはまだ詳細を伝えない方針みたいだし。これで治まれば良いんだが」
そして無意識にカレンダーを眺めた伸也は、警戒する期間が終了するまでまだ日数がかかる事を確認して、再び小さく溜め息を吐いた。
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