(20)単なる過保護?
「お先に失礼します」
「お疲れ様」
日中の非科学的な体験を頭の片隅に追いやり、仕事に没頭していた天輝は、想定していた時刻よりも早く業務を終わらせて席を離れた。内心では色々と思う事があるものの、周囲には笑顔で挨拶をしながら歩きだす。
(はぁ……、何となく疲れた。身体的にではなくて、精神的な疲れだとは分かっているけど……)
そこで斜め後ろから、予想外の声がかけられる。
「高梨。帰るなら一緒に行くから、ちょっと待ってくれ」
悠真が座ったまま鞄を手にしているのを見て、天輝は少々驚いた。
「え? 桐生さん? 今日は忙しくないんですか?」
「後は家でする。このまま職場に詰めていても、仕事が捗らない」
「そうですか?」
淡々とそう述べながら、手早く机の上を整理し始めた悠真を見ながら、天輝は不思議そうに首を傾げた。しかし本当に帰るつもりだったらしく、すぐに鞄を手に立ち上がった悠真と連れ立って職場を出る。
「何か新鮮かも。お兄ちゃんと一緒に帰るのって、久しぶりだよね?」
職場内では互いに名字で呼びあっていた二人だったが、桐生アセットマネジメントが入るビルを出た途端、いつも通りの兄妹の会話になった。
「そうだな。帰りの時間は、最近は合わない方が多いし。何か食べながら帰るか?」
「残念。今日はお母さんお手製のローストビーフが、私達のお腹に入るのを心待ちにしてるのよ」
「相手が母さんなら、抵抗は無意味だな。倍返しどころか十倍になって帰ってくるから。すっぽかしたら後が怖い」
「そう言いながら、最近、『仕事が押して軽く食べたから、夕飯は要らない』とか、かなり遅い時間になってから連絡してくる事が多いよね?」
「その自覚はある。だから天輝にはこれまで以上に、母さんのご機嫌取りを頑張って貰いたい。今度の休みは、何か奢るから」
「えぇ~? どうしようかな~? 今度の週末は、一人でゆっくり展覧会を見に行こうと思っていたんだけど」
他愛のない会話をしながら最寄り駅に向かって歩いていた天輝だったが、悠真が急に微妙に真剣な口調で言い出す。
「分かった。その展覧会はどこのだ?」
「え? どこって……、どうして?」
「俺も一緒に行くから」
「はぁ? だって、現代美術の作品展だけど。お兄ちゃんはそういうの、趣味じゃないよね?」
「そうだな。だが天輝は鑑賞したいよな? だから一緒に行く」
悠真の中では既に決定事項になっているらしく、淡々と会話が続けられた。それに天輝が溜め息まじりに応じる。
「……お兄ちゃん。微妙に文脈が繋がっていないような気がするのは、私の気のせいかな?」
「気のせいだ。それとも、俺が同行すると、何か不都合があるのか?」
「別に、不都合はないけど……。ほら、お兄ちゃんの予定とか約束とか」
「そんなものは誰とも微塵もないから安心しろ」
「はぁ……、そうですか……」
有無を言わさないその口調に、天輝はそれ以上食い下がるのを早々に諦めた。
(良く良く考えてみたら、最近休日に一人で出かけるのって皆無だったかも。お父さんやお母さんと出かける時もあったけど、殆どお兄ちゃんとだよね?)
ふと、そんな事実に気がついてしまった天輝は、隣を歩く悠真を見上げながら口を開いた。
「そういえば、この際ちょっと聞いても良い?」
「何だ?」
「お兄ちゃんは以前付き合っていた女の人がいた筈だけど、最近いないよね? 私が話を聞いていないだけ?」
その問いかけに、悠真は一瞬顔を強張らせたが、歩みを止めずに答えた。
「いや、二年前位から付き合っている女性はいないな」
「どうして?」
「どうして、って……。それはまあ……、色々仕事が忙しくて?」
「忙しいと言ったって……、これから益々忙しくなる事はあっても、暇になる事なんてないよね? 休日に妹にかかりきりになっている位なら、ちゃんと恋人を作ってその人との時間を大切にしたら?」
「ああ……、うん。そうだな」
たいして気乗りがしない風情で頷かれた事で、天輝は若干むきになりながら言い返す。
「あのね、他人事のように言わないでよね。何か私のせいでお兄ちゃんとの仲が駄目になったとか、いつか怒鳴り込まれそうで心配なんだけど」
「そんな馬鹿な事を言った馬鹿女がいたのか?」
いきなり足を止めた上、腕を掴んで怖い顔で問い質してきた悠真に、天輝は少々動揺しながら反論した。
「言われてないから! さっき『いつか怒鳴り込まれそう』って言ったよね!?」
「それならいい。万が一言われたら、すぐに教えろ」
「……はぁい」
素っ気なく言った後、悠真は無言でエスカレーターに乗り、地下鉄の構内に下りていった。当然天輝もおとなしく後に続いたが、少ししてホームの列に並んだところで、悠真がぼそりと呟く。
「それから……」
「うん、何?」
「いや、その……。本当に俺が一緒に行くと嫌だとか、仕事の延長みたいで息が詰まるとか、そういう事であれば俺は遠慮するから……」
微妙に自分から視線を逸らしながらのその台詞に、天輝は溜め息を吐いた。
(そんな、耳と尻尾を垂らして項垂れているワンコの幻影が脳裏に浮かぶような、情けない表情しないでよ。本当にらしくないわよね)
さすがに気がとがめた天輝は、苦笑しながら申し出る。
「いや、別にそんな事は言ってないから。お兄ちゃんさえ良ければ、一緒に行こう?」
「ああ」
それで悠真は微笑みながら頷き、天輝の週末予定は今回も保護者もどきの兄の同伴が決定したのだった。
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