四章 3-1

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 キッチンメイドに化けたジズは、スカートの裾を踏まないことに注力して歩いていた。

 大きなバスケットを両手で提げているので、脚に絡みつくスカートをさばくことができない。ここで転び、バスケットの中身をぶちまけようならすべてが水泡に帰す。

 そもそも服のサイズが合っていないのだ。メイド服は一番小さいものを借りたが、小柄なジズにはそれでも大きい。肩や胴回りが余るのは下にもう一枚着ることで解決したが、袖と裾の長さはどうにもならない。詰める時間がなかった。

 短い髪は無理矢理まとめ、キッチンメイドの帽子を被ることで、長い髪を結い上げて帽子に押し込んでいるように見せかけている。キッチンメイドのものが、メイドの帽子のなかでは最も大きい。

 人質と連絡を取る最も確実な方法は、本人に接触することだ。今、反乱兵以外にそれができるのは、食料などを届ける女官しかいない。ならば、自分が侍女に化けて行ってくるとジズは提案した。ノインやフリストが侍女に化けるのは無理だし、女兵士は除外され、本物の侍女に間諜の役目を負わせるのは危険だ。その点、ジズならば最低限己の身は守れる。

 おそらくノインの頭の片隅にもあったのだろう、彼はジズの話を聞いてもあまり驚くことはなかった。そしてジズの予想通り、ノインは反対し、フリストは賛成した。

 ジズにそんな危ないことをさせられないと言うノインと、いい考えだから行かせればいいと言うフリスト。これまでのことをかんがみて、ジズが言うだけではノインは絶対に首を縦に振らないということは想像できたので、ジズはフリストに説得を任せることにした。心配してくれるのはありがたいが、ノインは少々心配性なのではないかと思う。

 フリストは、反対するなら代案を出せと言い、ノインが言葉に詰まった隙に話を纏めてしまった。時間があればノインは策を立てるだろうが、今はその時間がない。精神的にも肉体的にも追い詰められた反乱兵が暴走したら取り返しのつかないことになりかねない、などということを一方的にまくし立て、最終的にノインは不承不承ながらも頷いた。

 侍女が差し入れに行くのは毎日夕刻。女王とルーシェ付きの侍女は入れて貰えず、一度差し入れをした女性も駄目だという。

 ライヤとナンナに着替えを手伝って貰い、ノインとフリストには可愛いとあまり嬉しくない評価を受け、現在に至る。

(こんな格好でよく仕事できるよな)

 足下を気にするあまり、俯きがちになりながらジズは離宮の正面入り口に向かった。

「止まれ」

 声と共に、二人の門番が近付いて来る。ポーチの階段の前で足を止めたジズは、あまり顔を見られないように更に深く俯いた。緊張しているか怯えているように見えればいいと、身体を硬くする。

 兵士たちはジズを頭の先から爪先まで眺め、バスケットを示す。

「開けろ」

 言われたとおり、ジズはバスケットの蓋を開けてみせた。中にはパンや飲み物、冷めないように器ごと布にくるまれた料理が入っている。その包みもすべて開けて中を確認し、ようやく兵士はジズに離宮へ入る許可を出した。ジズは安堵しながら注意深く足を進める。

(……ばれなくてよかった)

 バスケットは内側に布が張られたつくりで、実はその布が剥がれる二重底になっている。見せかけの底の下には、ノインのキャンディを詰め込めるだけと、そのキャンディに使う薬草を濃く煮出したお茶を詰めた瓶が入っている。興味本位で少しだけめたフリストが物凄い顔をしていたので、最早お茶ではない何かになり果てた液体だろう。色も黒に近い紫色で、無論、女王に飲ませるのではなく、兵士が多くいそうな場所でうっかり落として割ってこいとのノインの指示である。匂いだけでも効果はあるかもしれないから、と。

 ジズが建物に入ると、二人の兵士が待ち構えていた。ついてこいと言う彼らに前後を挟まれ、ジズはますます転ぶわけにはいかないと注意深く足を進める。

 やがて、二階の端の部屋の前で兵士が足を止めた。入るように無言でジズを促す。ジズは軽く頭を下げ、扉を叩いた。ややあって、扉が開いて初老の侍女が顔を出す。地毛なのか加齢のせいなのか、白に近い色の髪をシニヨンに纏めている。

「……お入り」

 短く言い、侍女は踵を返す。ジズは一礼して部屋に踏み込んだ。扉が閉まる。同時にせ返るような甘い、そして粉っぽい匂いを感じてジズは顔を顰めた。空気もうっすらと煙っているように見える。なんとなくあまり吸い込んではいけない気がして、ジズは意識して呼吸を浅くする。兵士が入ってこないのを意外に思ったが、この匂いのせいかもしれない。

 ジズを招き入れた侍女は扉の付近に立ったまま何も言わない。仕方がないので、ジズは彼女に尋ねた。

「あの、陛下は……」

 侍女は緩慢かんまんな動作で振り返り、言われて初めて気付いたというふうに口を開く。

「ああ……、そうね。そちらです」

 侍女は寝室の方を示した。ぼんやりとした表情と光のない双眸に、ジズは不安を覚える。

(……これ、まずいんじゃないか?)

 侍女の様子は尋常ではない。怒られるかと思ったが、ジズはバスケットをテーブルに置いて窓を全部開けた。侍女が咎めないので寝室へ向かう。

「失礼します」

 女王は肘掛け椅子に座っていた。しかし、ジズが入ってきても視線を向けることすらなく、虚ろな瞳は宙を見つめている。彼女の足下に小さな香炉があり、この匂いと煙はそこから漂ってきていた。

 舌打ちをしたい気分で、ジズは香炉の火を消した。それから窓を開け放って煙を外へ逃がす。

「女王陛下、お気を確かに」

 呼びかければ、女王はのろのろとジズへ顔を向けた。

「どなた……?」

 花壇の前で会ったときとは別人のような女王の姿に、ジズは愕然とする。淡紫あわむらさきから薄橙うすだいだいに変わる不思議な色の双眸は、今はしゃがかかったように何も映していない。

「陛下にお食事をお持ちいたしました」

「そう……」

 興味なさげに呟き、それきり女王は黙ってしまった。これは本格的にまずいと思ったジズは居間にとって返し、バスケットを持ってくる。

(今まで差し入れにきた女官は気付かなかったのか?)

 詳しい状況はわからなくとも、女王やその侍女の様子がおかしいのはわかるだろう。それをバーレスに伝えれば、放っておかれるはずはないと思う。

(それとも、昨日まではこんなに症状が進んでなかった……?)

 考えながら薬草茶の入った瓶を取り出し、一か八かだと、それをティーカップに移して女王に差し出す。

「お茶です。お召し上がりください」

「ありがとう……」

 女王はなんの疑いもなくジズの手からカップを受け取って口をつけた。こくりと白い喉が動き、一呼吸置いて瞠目した女王は両手で口を押さえた。

「んん……!」

 手を放されたカップが中身を撒き散らしながら床に転がる。女王は何度か咳をして、涙を溜めた目でジズを見上げた。

「お水、お水を頂戴」

「はい、ただいま」

 ジズは寝台の傍らに用意してあった水差しからコップに水を注いで持ってくる。一応、水の匂いを嗅いで、少しだけ嘗めてみたが、特に異臭や変な味はしなかった。女王は奪い取るようにそれを受け取ると一息に飲み干し、大きく息をついた。

「もう一杯くださる?」

 ジズは女王のコップに水を注ぐ。二杯目も一気に飲んで、やや落ち着いたらしい女王は不思議そうにジズを見上げた。

「あら、あなた……ジズ。女の子だったの?」

 言われて驚き、ジズは慌ててかぶりを振った。覚えていてくれたらしい。

「いいえ、男です。ここへ入るために、メイドの服を借りました」

 納得した様子で頷いて、女王はコップをテーブルに置いた。

「今のお茶、ノインの仕業ね。まったく、どんな調合をすればこんな味になるのかしら」

 甘くて酸っぱくて苦くて、しかも変なえぐみがあるのだと、女王は顔を顰めた。それは薬効を度外視しても気付け薬になるのではないかと、ジズは液体の入った瓶を見る。フリストが凄い顔になるのも納得で、味見しなくて良かったと思う。

「でも、久しぶりに頭がすっきりしているわ。ここにきてから変に怠くて、ずっとぼんやりしていたの。昨日の夜からは特に酷かったわ、水の中にでもいるみたいで……ああ、お喋りしている場合ではないわね。このお茶、フェニヤにも飲ませてあげて。―――それで、わたくしは何をすればいいのかしら」

 言葉の真意がわからずきょとんとしていると、女王は付け足す。

「ノインの差し金でしょう? あの人が無意味にあなたに危険を冒させるとは思えないわ」

「いえ、おれ……私が、ノイン……准将に」

 ジズがしどろもどろになっているのを見かねてか、女王が笑んで告げた。

「言葉は気にしなくていいわ。ここにはあなたとわたくししかいないもの」

「……はい」

 そう言って貰えるのは、正直ありがたい。ジズは女王に対する口の利き方など知らない。

「おれがノインに、中の様子を探ってくると申し出たんです。女王陛下をお助けするために、離宮の中の様子を知る必要があったので。……それと」

 ジズはバスケットの中身をテーブルの上に出し、布を剥がして女王に見せる。

「ノインからです」

 頷き、女王はバスケットを覗き込んで目を瞬いた。

「まあ、たくさんのキャンディ。配ればいいのかしら? でも、兵士たちを懐柔したいなら、キャンディなどではなく食料を差し入れてくるはずよね。皆お腹を空かせているもの」

 早く降伏してしまえばいいのにと嘆息する女王は、キャンディを摘み上げて何かに気付いたように別のものを取り出す。

「あら、これは……」

 バスケットの隙間に挟むように差し込んであったのは、細く折りたたまれた紙だった。ノインの筆跡で彼の署名がある。

 幾重にも折られているのがもどかしそうに急いで広げ、目を通した女王は安堵したような嬉しそうな笑みを浮かべた。傍で見ているジズにも、女王がノインに絶大な信頼を置いているのがわかる。

(女王様と知り合いだって言ってたけど、結構親しかったのかな……)

 女王は手紙を元どおりに折りたたむと、耳飾りを片方外してジズへ差し出した。少し前に花壇で出会った時にも身につけていた、巻き貝のような変わった形のそれである。

「これをノインへ渡して、こう伝えて。―――今宵、灯星ともしびぼしが中天へ、暁は殻に籠もる。笛がいざなうう千のしろがね

「ええと……今宵、灯星が中天へ、暁は殻に籠もる。笛が誘う千の銀、ですね」

 耳飾りを受け取ったジズが詩のような一節を復唱すると、女王は笑んで頷いた。

「記憶力がいいわね。あと、ルーシェとアレクシアのことはわたくしに任せてって」

「わかりました」

「さあ、そろそろ行って。あまり長くいると怪しまれるわ。昨日の分の食器は向こうにあるから」

「わかりました。……どうか、ご無事で」

「ありがとう」

 ジズは例のお茶が入った瓶を手に取り、ふと思い出して香炉を指差す。

「あの……それの中身、少し貰っていってもいいですか」

 香炉を見た女王は、不思議そうに首をかしげた。

「こんなもの、この部屋にあったかしら。香炉ごと持っていってもいいわよ」

「いえ、中身だけで」

 香炉ごと消えていたのでは、これを仕掛けた誰かが怪しむだろう。ジズは香炉の中から枯れ葉のようなものと、小指の爪ほどの粒を幾つか取り出し、ポケットにしまい込んだ。植物に詳しいノインならこれがなんなのかわかるだろう。

「それでは、失礼いたします」

「ええ、気を付けて」

 一礼して居間に戻ると、先程と同じ位置に侍女―――フェニヤが立っている。ジズはテーブルに用意されているカップを一つ取り、例のお茶を注いでフェニヤに渡した。

「女王陛下が、飲んでくださいと」

「陛下が……」

 呟き、フェニヤはやはり何の躊躇いも見せずにカップ口に運んだ。そして一口飲み下し、カップを取り落として先程の女王と同じように咽せる。

「げほっ! げほ、けほっ! み、水……」

「どうぞ」

 水を飲んで一息ついたフェニヤは、ジズを見下ろして鬼のような形相になった。

「なんです、今のは! 悪戯にもほどがありますよ!」

 雷のような怒声にジズは思わず首を竦める。すると、寝室から女王が顔をのぞかせた。

「わたくしがお願いしたのよ、フェニヤ。相談したいことがあるからこちらへきて頂戴」

「……かしこまりました」

 小言を言い足りなそうだったが、フェニヤは寝室へ向かった。女王がジズを見て小さく頷く。ジズも頷き返し、扉へ向かった。脇にジズが持ってきたのと同じようなバスケットが置いてあり、中を覗き込めば食器が纏めて入っている。それを持ち上げ、ジズは部屋を出た。退屈そうにしていた兵士がジズを見て壁から背中を浮かせる。

 帰り道も兵士に前後に付かれ、どこで瓶を割ろうかとジズは迷う。往路で通り過ぎた廊下沿いには、特に兵士が集まっているような場所はない。兵士たちは皆、外に面した窓に張り付いて、攻撃を警戒しているようだった。

(風通しのよさそうな場所ならいいかな。建物中に匂いが広がりそうなとこ……)

 階段にさしかかったところで、ジズは傾けたバスケットから転がり落ちたふうを装って瓶を床に落とした。

「あっ!」

 瓶は上手く段の角に当たり、砕けて中身が飛び散る。兵士たちが悲鳴じみた声を上げた。

「うわっ!」

「何やってんだ!」

「す、すみません」

 言いながら屈んだジズは、大きな破片を拾い上げてバスケットに放り込んだ。あたりには場違いに爽やかな香りが立ちこめる。ここなら中央が一階から三階まで吹き抜けになっているし、多数の兵士が行き交うだろう。

「痛っ」

 破片で指を切ってしまい、ジズは小さく声を上げた。兵士が見かねた様子でため息混じりに言う。

「もういい。あとはこっちで片付ける」

「ったく、気を付けろよ」

「はい……」

 しおらしく頷いて見せ、小さくなって兵士に続きつつジズは胸中で舌を出した。とりあえず目的は達成できた。あわよくば抜け出してルーシェの様子も見に行きたかったが、この分では見張りを撒こうものなら大騒ぎになるだろう。

(大人しく帰って、あとはノインに任せよう)

 余計なことはするまいと決め、ジズはスカートを踏まないように歩くことに専念した。

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