月鈴子の散華
楸 茉夕
序章
序章
一瞬、少女が生首を抱えているのかと思った。
(……びっくりした)
黒衣の少年が不自然な姿勢で倒れており、彼の頭を同じ年頃の少女が膝に乗せて抱いている。地面に広がる白い長衣の裾と、蜂蜜色の長い巻き毛が深紅に染まっていた。少女に怪我はないようなので、石畳に散らばった赤い染みや、少女の
愛らしい
闇の中、不規則に揺れる灯は異様な光景をますます不気味に浮かび上がらせる。
「ノイン様、あちらですわ」
半ば呆然としていたノインは、呼ばれて我に返った。振り返れば、難しい顔をした侍女が視線を少女へ送る。笑声に混ざって、小さな鈴を束ねて振っているような音が聞こえ、ますます背筋が寒くなる。この場を立ち去りたくなるが、そういうわけにはいかない。
「侵入者というのは、あの少年なのですか、アレクシアさん」
「ええ、そうです。姫様がお放しになりませんの」
寝ていたところを叩き起こされ、賊が侵入した、自分たちでは手に負えないと言うアレクシアに引っ張ってこられたのだが、手に負えないというのがこういう意味だとは思わなかった。
ここは離宮の中庭にある
「何故こんなところまで侵入されたんです? 兵士が全員居眠りしていたわけでもあるまいに」
「経緯は存じませんわ。それよりも、早く姫様をお助けくださいませ」
想像以上の答えは返ってこず、ノインは眼鏡を押し上げた。警備から聞いた報告によると、賊は一名、手負い。こちらの被害は軽傷三名。重傷者、死者はなし、物的被害もなしとのことだった。
(どちらかというと、助けが必要なのは少年の方では……)
気がつけば視線が集中しており、ノインは落ちてもいない眼鏡を押し上げる。
たしかに、離宮の主がああでは誰も手出しができないだろう。本音を言えばノインとて関わりたくないが、ここで突っ立っていても何も解決しない。
近くにいる兵士に灯りを借りて二人へ近付こうとして、
「カルスルーエ准将!」
背後から呼ばれたノインは足を止めて振り返った。見覚えのない男が小走りに駆け寄ってくる。
(……誰?)
ノインは首を捻りつつ青年に向き直った。長い金髪を後頭部で括り、ノインを見下ろしている瞳は深い湖のような緑。同性から見ても整っている
「……何か?」
尋ねれば、彼ははっとした様子で背筋を伸ばした。
「失礼いたしました。私はアルスキール・フリスト大佐です。明日付けで、グランエスカ東部国境守備軍から
フリストという名には聞き覚えがあった。グランエスカ王国のフリスト伯爵家と言えば武門の名家で、古くは騎士の時代から優秀な武人を多く輩出している。しかし、夜中にこんなところで挨拶される覚えがないノインは軽く首をかしげた。
「兵站部長は、私ではなくバーレス少将ですが。と言うか、何故ここに」
「バーレス少将には既にお目にかかりました。カルスルーエ准将は、
「……ああ、あなたが」
思い出してノインは目を見開いた。少し前にそんなことを聞いた気がする。他のことに忙しくて頭の片隅に追い遣ってしまっていた。
大佐であれば東部守備軍でそれなりの地位にいたはずだ。それが突然、兵站部に異動になり、虹翅の姫の警備担当になるとは、明らかな左遷人事だ。一体何をやったのだろうと考えたことを思い出す。
「諸々の手続きから解放されたのがついさっきでして。夜中ですし離宮の場所だけ確認して戻ろうと思ったところ、何やら騒がしかったので様子を見に」
「なるほど。遅くまでご苦労様です」
「お気遣い痛み入ります」
「よく私がカルスルーエだとわかりましたね」
初対面なのに、というのを言外に含めて言えば、フリストは淡く笑む。
「すぐわかりましたよ。カルスルーエ准将といえば、長い赤毛と眼鏡ですから」
「……そうですか」
昔から髪の毛に特にこだわりはなく、伸びては切って伸びては切っての繰り返しだ。今も、切るのが面倒で放っておくうちに、背中の半ばほどまで伸びてしまっただけなのだが、いつの間にか目印のように使われているらしい。
「賊はあれですね? 片付けてしまいましょう」
「え? ちょ、ま、待ってください!」
一切の躊躇いもなく剣を抜き、少女と少年へ向かっていこうとするフリストを、ノインは慌てて止めた。振り返ったフリストが不思議そうにノインを見る。
「どうかしましたか?」
「剣はしまってください。大佐の着任は明日なのですよね。ここは私に任せて」
「少々早まったところで不都合はありませんよ」
「大丈夫です。大丈夫ですから、剣を納めてください」
「……ご命令とあらば」
待つようにフリストへ言い置いて、ノインは少女へ歩み寄った。
「ごきげんよう、ルーシェ」
視線を合わせるために跪いて声をかければ、彼女は秋空の色をした双眸をノインに向けた。
「あの人嫌いよ! どこかへやって!」
噛み付くように言う少女、ルーシェには怪我はなさそうだと判断したノインは、彼女を宥めにかかる。
「彼には後でよく言っておきます。それよりも、その……」
「後でじゃなく今! もういや、出て行って! みんな出て行って!」
ルーシェの怒声とほぼ同時に突然耳鳴りがして、ノインは顔を顰めた。最近耳鳴りがすることが多いのだが、こんなときにと舌打ちを堪える。
「落ち着いてください、ルーシェ。その少年を渡してくれれば、今すぐにでも」
「いや! このかたにするの! このかたがいいの!」
「……このかた、というのはその少年ですか?」
「そうよ。このかたでなければ絶対いや!」
引き
「わかりました。しかし、彼はどうやら怪我をしているようですね。手当をしなければ。任せてくれますか」
「いやよ、連れて行かないで」
「出血が酷い。手当をしなければ死んでしまいますよ」
「そんなのいや!」
悲鳴のような声を上げるルーシェへ、ノインはできるだけ柔らかく見えるように笑んだ。
「ええ、ですから手当をさせてください。死なせるようなことはしません。約束します」
「……絶対ね? 約束よ」
考える素振りを見せたルーシェは、少年から腕を解いた。
灯りを脇に置き、ノインは少年を抱き上げる。意識を失っているかと思いきや、
(……これは)
ガラス玉のような眼球が動き、ノインを捉えて微かに揺れた。すると双眸にほんの僅か意思の光のようなものが戻り、少年はゆるゆると右手を伸ばす。
「動くな。傷が……」
少年の指先が喉元にかかってノインは言葉を止めた。触れる寸前に手は力を失ってぱたりと落ちる。それが最後の力だったとでもいうように
「着替えてはいかがですか、ルーシェ。酷く汚れてしまっていますよ」
「まあ、本当だわ」
言われて初めて気付いたというふうにルーシェは目を丸くする。彼女が立ち上がるのと同時に、アレクシアが滑るように歩み出てルーシェへ寄り添った。
「姫様、どこか痛むところはございませんか」
「どこも痛くないわ、アレクシア。でも、服が汚れてしまったの」
「ええ、湯浴みをしてお着替えくださいませ。ただいま支度をいたします」
アレクシアはルーシェを兵士たちの目から隠すように連れて行った。ルーシェの怒りも解けたようだし、アレクシアに任せておけば大丈夫だろうと、ノインは一つ息をつく。こちらの少年をなんとかしなければならない。
「誰か、この子を医者に」
大人しく待っていたフリストが驚いたように目を見開く。
「賊の手当をなさるのですか?」
「ルーシェが選んでしまいましたから、死なせたらまた面倒なことになります」
「選んだ?」
「侍女に欠員が出まして。ルーシェ……虹翅の姫は、自分が気に入った相手しか側に寄るのを許さないので」
「そうは申しましても、その子は男の子でしょう? 侍女にはどうかと」
「私も同意見ですが、約束してしまいましたから。―――君、頼めるか」
「はっ」
近くの兵士を捉まえて少年を託し、ノインは一つ息をついた。いつの間にか耳鳴りが止んでいる。
遠巻きにしていた兵士たちへ、後始末を指示しなければと
「お優しいのですね」
「どういう意味ですか」
フリストの言葉に嫌味や皮肉の響きはなかったが、ノインは不機嫌な声音を押さえることができなかった。しかしフリストは気を悪くした様子もなく言う。
「他意はありません、お気に障りましたら謝ります。赤の軍神、戦場の
「……忘れてください、今すぐに」
ノインには、本人も知らない珍妙な異名が山ほどある。恥ずかしいわ腹が立つわで、最初は聞く度に呼ぶなと咎めていたのだが、潰しても潰しても出てくるので、今となっては諦めている。しかし、面と向かって呼ばれることを許容できるかというのは話が別だ。
「おいやですか」
「いやですよ。そんな変な名前で呼ばれて喜ぶ人がいますか。―――それはさておき、私はここの後始末をしなければなりません。賊は捕らえたと王城の警備にも伝えなければ」
「お手伝いしますよ」
「着任は明日でしょう? 兼任ならば更に忙しくなる。今日は休んでください、詳しい話は明日にでも」
正直なところ相手をするのが面倒だっただけだが、フリストは好意的に受け取ったようで、淡く笑む。
「では、お言葉に甘えて。兵舎におりますので、いつでも呼んでください」
言い置いてフリストは去って行った。後ろ姿を見送りながら、ノインは眼鏡を押し上げて一つ息をつく。
(……徹夜かな、これは)
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