三章 1-1

 第三章


 1


 がたごとと馬車は進む。

 ポケットを探り、出発前に貰ったキャンディがもう残っていないのに気付いて、ジズは隣に座るノインの袖を引っ張った。

「なあノイン、薬草飴持ってる?」

 応えたのはノインではなく、大袈裟に仰け反ったアレクシアだった。

「まあ……! 自ら准将飴を……ジズ、ノイン様に気を遣って差し上げることはないのですよ」

 気を遣っているわけではないとジズが否定する前に、ノインが上着を探りながら薄ら寒い笑みを浮かべる。

「アレクシアさん、どういう意味ですか?」

「言葉以上の意味はありませんわ」

 ほほ、と笑うアレクシアに息をつき、ノインはジズへ拳を差し出した。ジズが手を広げると、そこへばらばらとキャンディが落とされる。

「いや、こんなには要らないんだけど……」

「たくさんあるから、遠慮しなくていいよ。ああ、でも、ご飯が食べられなくなるといけないから、ほどほどにね」

「わかってるよ。子供じゃあるまいし」

 言いながらジズは貰ったキャンディをポケットにしまい、一つを口に入れた。ルーシェと同乗しているので、彼女の鈴鳴から逃れる術がない。機嫌を損ねるのが恐ろしいので、啼くなとは言えず、なるべく啼かないことを祈っている。

 馬車は四台連なっている。護衛たちが乗っているものを先頭に、次にジズたちが乗っている馬車、あとの二台は荷馬車だ。中身は、旅に必要な物資の他に、慰問先への差し入れのようなものだとノインは言っていた。

 騎馬の護衛は六人、馬車に四人乗っているので護衛は全部で十人である。警備主任のフリストはルーシェが断固拒否したので同行していないが、ルーシェと三人の侍女の護衛に十人もつくと聞かされたときは、随分厳重なのだなとジズは驚いた。

 当初、ノインとジズは護衛の馬車の方に乗る予定だったのだが、ルーシェの希望で彼女たちと乗ることになった。六人乗りの馬車にジズとノインが加わることで定員になり、少々窮屈に感じる。加えて、ジズはルーシェの鈴鳴による頭痛を警戒しなければならない。ノインが大量に薬草キャンディを持っていてくれてよかったと思う。

 旅は順調すぎるほどに順調で、賊や危険種の動物などに襲われることも、ルーシェがぐずり出すこともなく、予定の半分ほどの日数で進んできている。南東部は雨期だというのに、雨が降らないというのも大きいだろう。空はずっと曇っていて、今にも雨が落ちてきそうだが、ここまでは降られることはなかった。

 離宮では小さな女王のように振る舞っているルーシェが、随所で不満を訴えることを予想していたジズは、彼女が始終上機嫌であることに少々拍子抜けした。街道沿いの村の、高級とは言えない宿屋にも素直に泊まるし、屋外での休憩にも不平を言わない。いつも離宮に閉じ込められていて、外に出られるのが嬉しいのかも知れないと考え、ジズは彼女への認識を改めなければと反省した。

 今も、ルーシェは窓の外に何かを見付けては楽しげに侍女たちに話しかけている。ジズは、出発した頃は物珍しさで窓に張り付いていたが、王都から遠ざかるにつれて風景に変化がなくなり、早々に飽きてしまった。早く目的地について欲しいとすら思う。このまま進めば、明日の夕方頃にはヴェンド要塞に到着するらしい。

 現在通過しているのは穀倉地帯のようで、地平まで麦畑が続いている。見る限り出穂はまだのようなので、春蒔きのものなのだろう。

 外を眺めていたルーシェが東の方角を指差した。

「ねえ、少し前から急に高くなっている場所があるのだけれど、あれは何かしら?」

 ルーシェ越しに外を見たアレクシアが答える。

「あれは堤でございます」

「つつみ?」

「はい。高くなっている場所の向こう側にはフィヨルム川という大きな川が流れています。この辺り一帯は雨期がございますので、川が氾濫しないように高くしてあるのですよ」

「わざわざ高くしなくても、川の近くに家や畑を作らなければいいのではないの?」

 素朴な疑問には、ノインが答えた。

「元々フィヨルム川はもっと蛇行していました。度々氾濫していたおかげで、この辺りは土地が豊かだったんです。人が増えて農地を広げなければならなかったこともあって、少々流れを変えて堤を作ったんですよ。せっかく作った畑が流されては困りますからね」

「そうなの。それじゃあ今は、雨が降っても平気?」

「大丈夫です……と、言いたいところですが、古い堤なのでたまに切れることもあります。その都度補修が必要になるので、そのうち大改修が入るかも知れませんね」

「大変なのね。―――そうだわ、人を減らせばいいのではない? そうすれば水がくる場所に畑を作らなくてもよくなるわよね」

 無邪気に物騒なことを言うルーシェを、ジズは思わず凝視した。彼女の顔には純粋な疑問しか浮かんでおらず、他意はないのだろう。困ったような笑みを浮かべてノインが返す。

「グランエスカは口減らしのようなことはしません」

「じゃあ、農地を広げるのは仕方ないわね。食べるものがないのは悲しいことだわ」

 自分が質問されたわけでもないのに、ルーシェが納得してくれたことにジズは胸を撫で下ろした。

(やっぱり、有翅ゆうし族って……ちょっと感覚が違うのかな)

 金色の巻き毛を持つ美しい少女の背中には虹色のはねがあって、本物の鈴の音のように美しい音でくかと思えば、人の言葉を解して喋る。愛らしい笑みで、人を減らせばいいと言う。「そういう生き物」なのだと言われればそれまでだが、ジズはまだ慣れることができない。

「雨だわ」

 ルーシェの声に外へ視線を向ければ、遂に耐えきれなくなったとでも言うように、大粒の雨が地面に無数の染みを作っていた。ルーシェが心配そうに言う。

「ノイン、外の人たちは濡れてしまわないかしら」

「大丈夫ですよ。雨天用の装備を持ってきていますから」

 雨粒が馬車の屋根を叩く音が大きく、間断なくなってきた。会話をするには大きな声を出さなければならず、皆自然と口数が少なくなる。馬車の進む速度が目に見えて落ち、ノインが懸念していたのはこれかと、ジズは一人で納得した。ここまで雨が降らなかったことが僥倖だったのだろう。

(遅れるかな……)

 座りっぱなしで揺られているだけというのも案外こたえるものだと、この数日でジズは身を以て学んだ。できるだけ早く解放されたいと思いながら、雨によって表情を変えた景色を眺めながら欠伸を噛み殺したとき、がくんと馬車が止まった。馬の嘶きも聞こえる。

 腰を浮かせたノインが窓から顔を出すより早く、警備兵が駆け寄ってきた。

水蛇すいだの群れです!」

「こんなところに? ―――ちょっと行ってくる。アレクシアさん、ルーシェを頼みます」

「お気を付けて」

 アレクシアが頷くのを見て、ジズは慌てて立ち上がった。

「おれも……」

「ジズはここに。外は危ない」

 言い置いてノインは椅子の下に横たえておいた銃を掴み、外に出ていった。アレクシアは畳んであったストールを広げて、ルーシェの頭から被せる。

 ルーシェはアレクシアの腕に手をかけ、不安げにかぶりを振った。

「アレクシア、剣はいやよ」

「こうしていれば大丈夫ですわ、姫様。ノイン様がすぐに追い払ってくださいます」

「ええ……でも、剣はいやなの……」

 普段からは想像できないような気弱な声で言い、ルーシェは椅子の上で膝を抱えるようにして丸くなった。ライヤとナンナもそれに寄り添うように移動する。

 ジズは外の様子が気になって、窓越しに目を凝らした。激しさを増す雨の中、赤子くらいなら一飲みにできそうな大きさの蛇が数匹、堤を乗り越えて這いずり下りてきている。その蛇にはひれがあった。

 護衛隊長が何か指示を飛ばし、騎馬兵が銃を撃つ。ノインは銃を手に、少し離れた場所から様子を伺っている。

 水蛇が飛びかかってきて、剣を抜いた兵士が斬り払う。水蛇は怯んだが逃げることはなく、一匹が兵士の包囲を抜けてジズたちのいる馬車に向かってきた。距離が縮まると一際大きく見えて、ジズは息を飲む。しかし、ノインの銃弾が水蛇の頭を貫いた。伸び上がった水蛇は糸を切られたように横様に倒れて動かなくなる。水蛇は次々と兵士に襲いかかり、ノインが何匹かを撃ち倒した。兵士たちも応戦している。

 ≪……れ≫

「え?」

 声が聞こえてジズは振り返った。アレクシアが訝しげに眉を顰める。

「どうかしました? ジズ」

「い、いえ……」

 かぶりを振ると強い耳鳴りがして、ジズは両耳を押さえた。

 ≪……さ……れ……≫

 耳鳴りに混ざって声が聞こえる。耳を塞いでも防ぐことはできず、耳鳴りは徐々に大きくなる。

「ジズ? 大丈夫? どこか痛いの?」

 うずくまったジズの肩をナンナがさすってくれるが、ジズはかぶりを振るだけで応えられなかった。耳鳴りは強くなり、「声」も大きくなる。

 ≪去れ!≫

「……っ!」

 意味のある言葉が聞こえた瞬間、一際強く耳鳴りが響き、ぱたりと治まった。耳を押さえていたジズは、恐る恐る手を下ろす。心配そうにしているナンナに、小さく頷いた。

「……大丈夫です」

「本当に? 無理は駄目よ」

「はい」

 ジズがもう一度頷くと、ナンナはまだ心配そうだったが手を放した。

(何だったんだ、今の……)

 ルーシェの鈴鳴に混ざる言葉に似ていたが、今は鈴のような音がしなかった。ルーシェは膝を抱えるようにして、アレクシアにぴったりくっついている。

 窓の外を見れば、撃退された水蛇が川へと逃げていくところだった。怯えたのか、馬がばらばらに動いていて、兵士が慌てて追いかけている。

 護衛隊長と幾つか言葉を交わしたノインが戻ってくる。ジズが扉を開けると、雨の滴を払いながら乗り込んできた。

「大丈夫か?」

「うん、ありがとう。私も兵士も被害はない」

 小さくなっていたルーシェがそろそろとストールから顔を出す。

「終わったの、ノイン?」

「ええ。もう大丈夫です」

 ノインが首肯し、ルーシェは安堵した様子で表情を緩めた。アレクシアがルーシェからストールを外し、侍女たちも座り直す。

「ノイン、射撃上手いんだな」

 隣に座ったノインに言えば、ノインは複雑そうな曖昧な笑みを浮かべた。

「剣よりはね。そもそも武芸は苦手なんだ」

「そうなのか? そのわりに全部命中してたじゃないか」

「たまたまさ。……っくしゅん!」

 冷えてしまったのか、ノインは大きなくしゃみをした。アレクシアがいやそうに顔を顰めながら布を差し出す。

「きちんと拭いてくださいませ。お風邪を召されては大変ですわ」

「ありがとうございます」

 布を受け取り、ノインは濡れた上着を脱いだ。幸い、中までは染み通っていないらしい。

「着替えなくて平気か?」

「ああ。真冬じゃないからね」

 やがて、馬車が動き出した。ジズには、早く目的地に着くよう祈るしかできない。

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