二章 1-1

 二章


 1


 グランエスカ王国王都フェンサリル、貴族街の一角にカルスルーエ公爵家のやしきはある。現当主であるノインは殆ど寄りつかないため、現在家を取り仕切っているのは祖母のヒュンドラだ。

 その祖母が危篤との知らせを受けて戻ってきたのだが、邸に変わった様子はない。これは怪しいと思っていたら、門番が敬礼と共に門を開けた。その奥に並んでいた家令と使用人が一斉に頭を下げたのを見て、ノインはこのまま踵を返して帰りたくなった。

 カルスルーエ家の邸は広い。門から建物まで広大な前庭があるのだが、門の後ろで待ち構えていたのはノインを逃がさないためだろう。背後に気配が増えて思わず振り返れば、警備の私兵がずらりと展開していた。

 礼を保ったまま家令が口を開く。

「お帰りなさいませ、ノイン様」

「顔を上げて。……お祖母ばあ様が危篤と報せがきたんだが」

「ヒュンドラ様はノイン様を心待ちにしていらっしゃいます」

「元気なんだな?」

 露骨に顔をしかめても、祖父の代から仕えている老齢の家令は小揺るぎもしない。

 一応武器は携帯している。力尽くで帰ることはできるだろうが、それをすればヒュンドラの烈火の如き怒りを受けるのは彼らだ。―――と、ノインが考えることまで祖母と家令はおそらく読んでいる。

「お食事の支度が調うまでお部屋でおくつろぎくださいませ」

「食事は要らない。お祖母様に会ったらすぐ帰る」

 宣言してノインは邸へ足を進めた。背後を使用人と警備兵がぞろぞろとついてきて、お伽噺の笛吹き男にでもなった気分になる。

(そんなことだろうと思った)

 殺しても死にそうにないあの祖母が、そう簡単に危篤になるはずがないのだ。最後にまみえたのは四月ほど前だが、ぴんぴんしていた。おそらく、ノインがすべてを無視して避け続けていたため、危篤などという嘘をつく手段に出たのだろう。

 邸の入り口まできて、ノインは使用人たちを振り返った。

「全員持ち場に戻れ。―――お祖母様は部屋か?」

「左様でございます」

 家令の返事が終わらぬうちにノインはヒュンドラの私室を目指した。奥まった場所にある、重厚な扉を叩くと返事がある。扉を開け放てば、ヒュンドラはいつもと変わらぬ姿で椅子に腰掛けていた。祖母の向かいに若い女性が座っていたが、その存在はとりあえず置いておく。

「危篤と聞いていたのですが、お元気そうですね、お祖母様。嘘をついてまで孫を呼び戻すとは、見損ないましたよ」

「なんですかノイン、不躾に。挨拶くらいしなさい」

「ごきげんよう、お祖母様。さようなら」

「お待ちなさい、ノイン」

 去ろうとしたノインを呼び止め、ヒュンドラは立ち上がった。

「四箇月ぶりに帰ってきたかと思えば、せわしないこと。―――髪を切ったのですね、いいことです」

 満足げに言うヒュンドラに、ノインは舌打ちをしそうになる。

 別に祖母の機嫌を取るために髪を切ったわけではない。一月ほど前、正確には二十八日前、不注意で髪を焦がしてしまったのだ。ジズが目覚めた翌日、いろいろなことが一気にありすぎて、気分転換に料理をしようとしたときの出来事なので、日付まではっきり覚えている。疲れているときに火を扱ってはいけない、と思ったことまで。

 焦げたのは一房だけだが、それだけ随分と短くなってしまったので、いっそのことと思って全部切ってしまった。 

 昔からヒュンドラは男の長髪が気に入らないらしく、父にも兄たちにも、少しでも伸びると切れ切れと煩かった。余計なことまで思い出してしまい、ノインはますます苦い気分になる。

「いらっしゃい、紹介します」

 相変わらず話を聞かない人だと、ノインは眼鏡を押し上げた。灰色の髪を一筋の乱れもないシニヨンに纏め、襟の詰まった暗い色のドレスを纏う祖母は、厳格というものを体現しているようだ。姿勢のいい立ち姿は、老境にあることを感じさせない。

「紹介は結構。これでも暇ではないのです」

「こちらはレイネア・シデス・シルトクレーテ嬢。シルトクレーテ伯の次女です」

「そうですか。ごきげんよう、レイネア嬢。お会いできて光栄です。ではこれで」

「ノイン!」

 たまりかねたようにヒュンドラが声を上げた。幼い頃ならいざ知らず、今のノインがその程度ですくみ上がることはないのだが、祖母はしかつめらしい顔でノインを睨む。

「まったく、あなたは……いつになったらカルスルーエ家当主の自覚を持つのですか。領地に最後に顔を出したのはいつです? それだけではありませんよ、いつまで独り身でいるつもりです。跡継ぎを作るのも当主の義務の一つと思いなさい。誰か思う女性でも? あなたに相応しいかただったら、そのかたを迎えてもいいのですよ」

 立て板に水のように喋っていたヒュンドラは一旦言葉を切った。ノインが無言でいると、眉をひそめる。

「聞いているのですか、ノイン」

「いいえ。―――もうよろしいですか?」

 わざと満面の笑みで返せば、ヒュンドラは忌々しげに唇を歪めた。

「だから、わたくしは養子に出すのを反対したのです。末子九男といえどもカルスルーエ家の男子、ハイレン家のような貴族の端に辛うじて乗っているような家に―――」

「お祖母様」

 自分のことはいい。だが、育ててくれた家を悪し様に言われるのには耐えかねてノインは祖母を遮る。

「カルスルーエよりも、ハイレン家のほうがよほど」

「何をそんなに拘るのですか。もうあの家のことは忘れなさい。会うことも許しません。今のあなたとはなんの関係もないのですから」

「お祖母様がどれだけ否定しようと、過去を変えることはかないません」

「そうですね。確かに過去は変えられませんが、限りなく白紙に近付けることはできるのですよ」

「……お祖母様」

 卑怯な、とノインは祖母を睨んだ。三年前に最後の兄が死んで、ノインを連れ戻すためにヒュンドラは、ハイレン家の取り潰しと妻子の安全を盾に取って無理矢理に離縁させた。脅しだけならばまだしも、カルスルーエ家の繁栄と存続しか頭にないヒュンドラは、下級貴族の家を潰して縁者を皆殺しにするくらいは平気でやりかねない。

 黙り込んだノインを見て、ヒュンドラは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。

「間もなく食事です。湯浴みをして着替えなさい」

「あなたがそんなだから、兄上たちは殺し合いの末に皆死んでしまったんだ」

 椅子に座りなおしたヒュンドラは無言で目を眇めた。その氷のような双眸を見つめ、ノインは続ける。

「私は、私をハイレン家に養子に出してくださったことを、父上に感謝しています」

「いい加減目を覚ましなさい、ノイン。現実を見るのです」

「現実を見るのはあなたです、お祖母様。私がいつまでも黙っているとお思いですか。エルとヘルギに……いいえ、ハイレン家の誰かを少しでも傷つけたら私は本気で怒ります。カルスルーエ家の現当主は私であることをお忘れなきよう。財産をすべて国庫に入れてしまいましょうか」

「何を馬鹿な……」

「では、失礼します」

 鼻白むヒュンドラに笑んでみせて、ノインは踵を返した。そのまま邸の入り口を目指す。

(次は死んだってしらせがあるまで、呼び出しには絶対応じないからな)

 何故自分なのだろうと、ノインは細く息を吐きだした。

 なんの呪いか、兄たちの遺児に男はいない。正確には、二の兄と五の兄にはいたのだが、二の兄の息子は病で、五の兄の息子は跡目争いに巻き込まれて夭折ようせつしてしまった。他家に嫁いだ姉は男の子を産んでいるので、養子にしてはどうかと進言したことがあるが、ヒュンドラは首を縦には振らなかった。血の濃さは同じでも、女系の継嗣けいしは受け入れられないらしい。

 女性が家督を継ぐのが認められていなかったのは昔の話、今は数が少ないとはいえ女当主もいるし、何よりグランエスカが戴くのは女王だ。男にこだわる理由はないとノインは思うのだが、ヒュンドラはそうではないらしい。

(……そうだ)

 せっかくきたのだから手ぶらで帰ることもあるまいと、ノインは古参のメイドを捜した。兄たちの子供の頃の服が残っているかもしれない。

 ジズが目を覚まして一月ほど、幸い後遺症もなく順調に回復し、杖を使えば歩けるまでになっている。

 昨日、ヴィーラントから歩行訓練がてらの外出許可が出た。せっかくだからと離宮の外へ連れ出そうとしたところで、ようやくノインはジズの服がないことに気付いた。ジズは武器以外に何も持っておらず、衣服は侵入時に身につけていた黒装束のみで、療養中は医務室から借りた治療着で過ごしていた。生活は離宮の中だけで済んでいたので、気が回らなかったのだ。

 仕事が終わってからでは衣料品店は閉まっており、休日はまだ先だ。城のお針子に頼み込んで急いで仕立てて貰おうかと考えていたが、とりあえずの間に合わせなら兄の昔の服で事足りるだろう。

「ああ、君」

 ノインは丁度向こうから歩いてきたメイドに声をかけた。

「はい、ノイン様」

「兄上たちの古い服は残っているだろうか」

「ええ、取ってございます」

「十三歳くらいの男の子が着られそうな服を適当に見繕ってくれ。五揃いくらい」

「かしこまりました」

「部屋にいる」

 一礼し、メイドは早足に去って行った。ノインは自分の部屋に向かう。

 久々に自室に足を踏み入れ、変化のなさと埃一つ落ちていない様子に少々複雑になった。この分だと、嫁いだ姉や死んだ兄たちの部屋もそのままになっているのかもしれない。

(お祖母様の意向だろうが……過去は戻らないというのに)

 古い本をめくるなどして時間を潰していると、控えめに扉が叩かれた。ノインは顔だけを扉に向けて声を返す。

「どうぞ」

「失礼いたします。ご所望のものをお持ちいたしました」

 姿を現したのは衣装鞄を提げた、ノインが初めて見る若いメイドだった。ノインが頼んだメイドではなかったが、あまり考えずに頷く。

「ありがとう」

 ノインは鞄を受け取ってそのまま廊下に出た。部屋の外には警備兵がずらりと並んでいて、目を見開く。ヒュンドラは何がなんでもノインを外に出さないつもりらしい。

「……下がっていいよ」

 振り返ってメイドに言えば、彼女は困り顔でノインを見上げた。

「奥様から、ノイン様のお世話をするよう仰せつかっております」

「お世話って……」

 改めてメイドを見下ろし、見目麗しい容姿に加え、優雅な所作からして、どこぞの令嬢なのかもしれないとノインは思った。祖母の企みが透けて見えて、やれやれと息をつく。先程は別の令嬢を紹介しておきながら、節操のないことだ。

「もう帰るから」

「お帰りになるときはお引き留めするよう仰せです」

「振り切られたって言って」

 メイドを置いて廊下を進もうとすると、兵たちに取り囲まれた。

「通せ」

「お食事まではいま少しお待ちください。間もなくモージルが湯浴みへご案内いたします」

 ノイン思い切り嘆息した。今返事をしたのが隊長だとして、前後に四人ずつ。突破は可能だろう。しかし、彼らはノインを傷つけることはできない。そして、ノインとしても命令されているだけの人間を傷つけたくはない。

 ノインは鞄を持っていない方の手を軽く挙げた。

「わかった。こっちからは諦めよう」

 告げると同時に、メイドと身体を入れ替える。

「え?」

 きょとんとする彼女を廊下に残し、ノインは扉を閉めた。鍵をかける。部屋を横切って窓を開けようとするが、細工がされているようで開くことができなかった。

(念を入れすぎだろ。最初から閉じ込めるつもりだったのか)

 開かないのならば仕方ないと、ノインは手にした鞄を脇に置き、椅子を振り上げて思い切り窓に叩き付けた。木製の桟が折れ、ガラス片が飛び散る。ここは二階なので、飛び降りても問題はないだろう。

「どうした!」

「ノ、ノイン様だ!」

「なんだって!?」

 予想通り窓の下にも警備はいたが廊下よりは数が少ない。鞄を抱いて飛び降りたノインは、囲まれる前に手薄な方へと走った。

(無事に帰れるかな、これ)

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