二章 3-1
3
夕刻。
日中にアレクシアとルーシェを捉まえることができず、結局いつもの仕事に追われたノインは、夕食時ならば帰っているだろうと離宮にやってきた。
警備兵の敬礼に頷き返してルーシェの部屋の扉を叩くと、ナンナが顔を出した。
「ノイン様」
「やあ、ナンナ。ルーシェはいるかい?」
「ただいまお食事中で―――」
「ノインね? 入っていいわ」
ナンナの言葉を遮るようにルーシェの声がして、ナンナは一礼して脇に退けた。部屋に踏み込んだノインは、テーブルに着いているルーシェへ向かって会釈をする。
「お食事中に失礼します、ルーシェ」
「もう終わるところだから大丈夫よ。お話ししましょう」
にこにこと言うルーシェとは裏腹に、傍らに立つアレクシアは顔を顰めた。
「姫様、お話しはそれを召し上がってからです」
「もうお腹いっぱい。ごちそうさま」
ルーシェの主食は木の実や果実だ。小食で、毎食片手に一杯ほどしか食べない。よく腹が空かないものだと、ノインは彼女の食事に遭遇する度に思う。
不満げに唇を尖らせ、翅と爪先をぱたぱたと動かすルーシェへ、アレクシアは鹿爪らしい顔を向ける。
「お行儀が悪いですよ」
所在なく突っ立っていると、ルーシェが皿のグーズベリーを一房差し出してきた。
「はい、ノイン。あげるわ」
「……ありがとうございます」
「姫様、落ち着いて召し上がれないようですから、ノイン様にはお帰りいただきましょう」
「そんなのいやよ、ノインとお話ししたいわ」
「では、お食事を終えられますよう。お
「お薬は要らないわ。わたしは元気だもの」
「姫様にお元気でいていただくためのお薬湯です。お飲みくださいませ」
「……わかったわ」
不承不承ながら、ルーシェは残りのグーズベリーを口に運んだ。ノインも受け取ってしまったそれを食べる。少々緑の残っている、熟し切っていない実は酸味が強い。
ルーシェが皿を空にすると、アレクシアは一転笑顔になった。対照的にルーシェは渋面になる。
「お茶を頂戴、アレクシア」
「ただいまお淹れいたします」
アレクシアがお茶を淹れるためにテーブルを離れ、ナンナは食器を下げて部屋を出て行った。ルーシェは立ったままのノインを見上げ、向かいの席を示す。
「座って。御用はなにかしら」
礼を言いながらノインが席に着くと、ルーシェは無言で薬湯の入ったカップを押して寄越した。そして、懇願するように上目遣いで見てくる。
(……飲めと?)
ノインがカップと自分を交互に指差すと、ルーシェはにこにこと首肯した。珍しく聞き分けがいいと思ったら、ノインに薬湯を押しつけようと考えていたかららしい。
「何が入っているんですか?」
アレクシアには聞こえないように囁けば、ルーシェも同じように小声で言う。
「さあ、知らないわ。アレクシアはいろんなところから取り寄せたり、自分で摘んできたりしてるみたい。身体にいいんですって」
よくわからないものを出されたのに口にするのは、よほどの信頼だろう。断ろうかと思ったが、ノインはアレクシアの調合する薬を飲んだことがないので、興味本位で口に運んでみる。
(……ふむ)
特に苦かったり変な味がしたりはせず、飲みづらさは感じない。薬と言うよりは、少々癖のあるお茶のようだ。匂いで主に使われている薬草の見当はつく。
「美味しいじゃないですか」
「だって、いつもこの味なのよ。お砂糖は入れては駄目って言うし、飽きてしまうわ」
唇を尖らせるルーシェに苦笑いをして、ノインはアレクシアに気付かれる前にと薬湯を飲み干し、空のカップをルーシェの前に戻した。ありがとう、とルーシェの唇が動く。
「今回だけですよ。―――東方国境への慰問を申し出たと聞きました。そのことについての相談です」
ノインが声の大きさを元に戻すと、ルーシェも頷いて応える。
「ええ、東にいる軍の人たちが大変そうだって聞いたの。わたしに何かできないかしらってアレクシアに言ったら、わたしの『声』を聞かせてあげるのがいいんじゃないかって。女王様も賛成してくださったわ」
「……なるほど。その、東の部隊が大変だという話は誰から聞いたのです?」
「スヴァルト様ですわよ」
声と同時にお茶のカップが前に置かれて、ノインはアレクシアを見上げた。
「中将が?」
「ええ。スヴァルト様とハール様のお話を、姫様が耳になさって」
「ちなみに、どちらで?」
「女王陛下からのお召しがあったときに、王城で」
二人は主戦派だ。フォールク国、もしくは東方国境守備軍について話しているのを聞いたのかも知れない。
(ルーシェの耳に入るような場所で喋るとは、不用意な……)
アレクシアはルーシェの前にもカップを置いた。
「姫様にはこちらを」
カップを覗き込んだルーシェが首をかしげる。
「お薬はさっき飲んだわ」
「ええ、ノイン様が召し上がりましたね」
気付いていたのかと、ノインは首を竦めた。ルーシェは不満げに唇を尖らせるが、反論は無駄と見てか、カップを取り上げて口に運んだ。しかし、ぱっと顔を上げてアレクシアを振り返る。
「にがーい! 何よこれ、いつもより苦いわ!」
「味に飽きていらっしゃると仰せでしたので、変化をつけてみました。残さず全部お上がりくださいね」
「ひどーい! だからって、苦くすることないじゃない! 絶対に飲まないんだから!」
ルーシェはカップをテーブルの中央へ押し遣った。ノインは興味本位でそれを引き寄せて覗き込む。色は先程の薬湯と変わらないように見える。
「飲んでいいわよ、ノイン」
「ノイン様が召し上がってもよろしいですよ、薬草はたくさんありますから」
「いえ、遠慮します」
苦いとわかっているものを口にするほど物好きではない。カップを押し戻したときに先程と同じ、少し強い匂いを感じて、ノインはアレクシアを見上げた。
「これ、キナリス草入ってますか?」
アレクシアは意外そうな顔になる。
「ご存知ですの? さすがは元学者ですわね、このあたりでは珍しいものですのに」
「ええ、見かけませんね。薬効は高いのですが」
「味が悪いですからね。もっと寒い場所でないと育てづらいですし」
アレクシアの言う通り、キナリス草の原産地は大陸の北の方だ。しかし、グランエスカでも育たないわけではない。殆ど流通していないので、ノインの花壇で育てている。体調不良の改善や滋養強壮、精神安定など薬効は多岐に渡り、北方では霊草として扱われている国もある。
万能薬的に使えるのだが、独特の風味と苦みがあるので、量を間違うととんでもない味になる。ノインのキャンディが大半の人々にいやがられるのは、キナリス草を入れているかも知れない。
気を取り直し、ノインはまだ膨れているルーシェに言う。
「東の国境はフォールク国と接しています。あの国とは……その、あまり仲が良くないので危険かも知れませんよ」
ルーシェはぱっとノインを見ると、笑みを浮かべた。
「ええ、だから東を守っている人たちが大変なのでしょう? でも、向こうからは攻撃してこないと聞いたわ。だから大丈夫よ」
スヴァルトとハールは、一体どんな話をしていたのかとノインは舌打ちを堪えた。どんな状況だろうと、絶対はない。フォールクはグランエスカと戦をしたくないだろうが、だからといって攻撃してこないという保障はないのだ。状況は一瞬で変わる。
「今の時期ですと、着く頃には東部は雨期ですが」
「雨は嫌いではないわ。濡れるとアレクシアが怒るけれど」
「ええ、お風邪を召されては一大事ですからね」
ルーシェは口を挟むアレクシアにちらりと視線を投げて、ノインに向き直ると可愛らしく小首をかしげた。
「馬車に乗るのでしょう? 楽しみね」
「……そうですね」
先手を取られ、ノインは同意しつつお茶を啜った。この分では、旅程の長さや道中の野営の可能性を告げても、楽しみの一言で片付けられてしまいそうだ。
ノインの考えを読んだかのように、ルーシェはにこにこと言う。
「途中は宿に泊まるの? それとも野宿?」
「街道を行くので、よほどのことがない限り野宿にはならないと思います。が、万が一の時は覚悟はしておいてください」
「覚悟なんて要らないわ、わたしは毎日野宿でもいいもの」
「とんでもないことでございますわ、姫様。外には獰猛な肉食動物がおりますのよ。姫様に野宿をおさせ申し上げることがないよう、日程を組んでくださいね、ノイン様」
街道や村落の周囲は兵士が定期的に巡回して狩っているため、害獣や野盗の心配はないのだが、それを言うとルーシェを止める理由が減ってしまうので、ノインは口を噤んだ。
ルーシェは頬を膨らませてアレクシアを見上げる。
「んもう、アレクシアは心配性なんだから」
「姫様に万一のことがあってはなりません。心配性にもなります」
このままだと言い合いが始まってしまいそうで、ノインは急いで話題を変えた。
「警備兵は剣を持っていますよ」
ルーシェが驚いた顔をしてから、いやそうに眉を顰めた。
「剣は……」
「装備しないわけにはいきません。いやなら慰問は諦めてください」
ノインの言葉を聞いたルーシェは、ますます渋面になった。不満げに口を尖らせて言う。
「銃だけで十分でしょう? なんで剣なんか必要なのよ」
「近い敵には銃より剣です。繰り返しますが、剣を装備するなと言うのなら」
「いいわ。……我慢するわ」
心底不服そうだが、ルーシェが承諾したのをノインは内心驚いた。そこまで慰問に行きたいのか、あるいは理由を付けて単に外に出たいのか、どちらにせよルーシェの意思は固いらしい。見るのもいやだと言っている剣を我慢すると言うほどに。
「でも、抜かないでね。絶対よ」
「絶対とは言えません。危険種が出るなど、不測の事態が起きないとは限らない」
「―――…」
ルーシェは難しい表情で黙り込んだ。葛藤があるのか、しばらく返事がないので、ノインは続ける。
「現地では、守備軍の本隊がいるヴェンド要塞に滞在します。あまり長く逗留して守備軍の負担になってもいけませんから、二日ほどで考えています」
顔を上げたルーシェが難色を示した。
「たった二日? せっかく行くのに」
「物見遊山に行くのではありません。急に決まりましたし、長くても三日が限度かと」
「……いいわ、三日で」
「では三日で予定を組みます。護衛に関してはフリスト大佐の」
「フリストはいや。別の人にして」
案の定、皆まで言わずに遮られてため息を堪えた。
「そうは言っても、フリスト大佐は警備の……」
「いやったら、いや」
「ですが」
「いやなの!」
「では、慰問は諦めますか?」
「慰問には行くわ、でもフリストは行かないの!」
押し問答になりそうだったので、ひとまず引き下がることにする。
「……確約はできませんが、護衛の顔ぶれが決まったら知らせます。侍女は、アレクシアさんとナンナ、ライヤの三人でいいんですか? 手が足りなそうなら応援を頼みますが」
傍らのアレクシアを見上げれば、彼女は心得顔で頷いた。
「お心遣い痛み入りますが、わたくしども三人で大丈夫ですわ」
「私にできることならお手伝いします」
「助かりますわ。ここへきてから、姫様は遠出をなさったことがございません。わたくしどもも予定を立てたことはありませんから、旅程はノイン様にお任せいたします。ですが、決定前に予定をご提示くださいませんか。それを見て、意見を述べさせていただければと思います」
「わかりました。では、目処が付き次第もう一度相談しましょう」
「お願いいたします。―――ジズの具合はどうですか?」
唐突に尋ねられて、ノインは軽く首をかたむけた。同行させるかどうか、遠回しに訊かれているのだろうかと答える。
「今日ようやく外出できるようになったばかりです。完治はしていませんから、出発までにどうなるか……ヴィーラント大尉も無理は禁物だと」
今のところ、ジズはルーシェの侍従扱いなので連れて行くのが妥当だろうが、怪我の治り具合次第だ。置いて行くのもそれはそれで心配である。出発まで一月もない。その間に完治するかどうかはなんとも言えない。
迷っていると、ルーシェがりりりと啼いた。
「ジズに無理をさせないで。治りが遅くなっては本末転倒だもの」
ルーシェの言葉をノインは意外に感じる。彼女はジズに記憶がないと知って、すっかり興味を失ったと思っていた。
「そうですね。出発の日が近くなったら、ヴィーラント大尉に訊いてみましょう」
とりあえず一通り聞き終わったかと、ノインは立ち上がった。できれば今日中にフリストに会って護衛の話しをしたい。
「では、私はこれで」
ノインは離宮を出て兵站部を目指す。今ならフリストはそちらにいるだろう。
(個人的にはあんまり会いたくないんだけど)
クーデターの話を持ちかけられてからというもの、ノインはフリストと極力接触しないようにしてきた。立場上まったく関わらないというのも不可能なので、物騒な話を蒸し返されないように、なるべく人の多い場所で会うようにしている。
幸い、互いに忙しく、仕事以外の話をするには無理矢理時間を作らないといけないという状況である。不穏な噂が聞こえてくることもないので、思い留まってくれたのだと思いたい。
考えているうちに目的の部屋に到着し、ノインは扉を叩いた。
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