二章 3-2

 何度か叩いても返事はなく、中にも人の気配はない。皆出払っているのだろうかと首を捻り、出直そうと踵を返すと、真後ろに人が立っていてノインは思わず声を上げた。

「うわあ!」

 よくよく見ればそれは書類を抱えたフリストで、ノインは跳ね上がった動悸を落ち着けようと胸元を手で押さえる。

「だ、黙って後ろに立たないでくださいよ……」

「すみません、声をかける前に振り返ると思わなくて」

 フリストは不思議そうに首を傾けた。

「ノイン准将がこちらにおいでとは珍しいですね。バーレス少将はもうお帰りになりましたが、何か御用ですか?」

「いえ、少将にではなく大佐に。相談したいことがあるのですが、少し時間を貰えますか」

 フリストは緑色の瞳をきょとんと瞬いた。それからやけに嬉しそうに笑う。

「いいですよ。いつにします?」

「いつ? ……いや、できれば今から」

「今すぐとは随分と性急ですね。なんの準備もありませんよ」

「相談に準備なんて必要ないでしょう。ルーシェの、東部守備隊への慰問の話です。護衛のことはあなたにと……どうしました?」

 あからさまに肩を落としたフリストに、ノインは戸惑う。項垂れたフリストは呻くように言った。

「ようやく准将が考え直してくれたのかと思ったのに……」

「今は都合が悪いようですね。では」

 何を考え直したのかと聞き返せば相手の術中に嵌ると思って踵を返すと、背後から肩を掴んで止められた。

「都合が悪いなんてとんでもない」

 本音を言えばこのまま帰りたかったが、どこまでも追いかけてこられそうなのでノインはかぶりを振った。手を下ろしたフリストは書類を抱え直し、廊下の先を示す。

「立ち話もなんですから、私の執務室へいらっしゃいませんか」

「……では、お言葉に甘えて」

 フリストは三つほど先の部屋の扉を開いた。

「どうぞ」

 招き入れられた部屋は、手狭ながら整頓されている。ただ、中央に置かれた机には未処理と思しき書類が山積みになっていた。

 勧められた長椅子に腰を下ろしながら、ノインはフリストを見上げる。

「忙しそうですね」

「ええ、まあ。バーレス少将が委任状を作ってしまいまして」

「委任状?」

「兵站部の一切を私に任せる、という……」

 書類を机に下ろし、部屋の隅に置いてあるワゴンでお茶を淹れつつフリストはため息混じりに言った。

「少将にしか決裁できないはずの書類を、私でも扱えるように。副長はヘルシル少佐がいらっしゃいますし、私はなんの役職もないんですけど……いつの間にか、バーレス少将の後任という認識が浸透してしまったようで」

「それは……大変ですね」

 外堀から埋められたかと、ノインは少々同情する。フリストは苦笑めいた表情でノインの前にお茶の注がれたカップを置いた。

「バーレス少将もヘルシル少佐もお年ですからね。私への引き継ぎが上手くいったら、引退なさるおつもりなんでしょう」

 自分のカップもテーブルに置き、フリストはノインの向かいに腰を下ろした。何も言わずにお茶を口に運ぶのを見て、ノインはふと、あまり考えずに尋ねた。

「何故、兵站部に異動になったのですか?」

 カップを下ろしたフリストが意外そうに目を瞬いて、ノインは問うたことを後悔した。

「あ、いや……立ち入ったことを訊きました。取り消します」

「いいえ、ノイン准将がご存じなかったことに驚いただけです。―――フォールク人を殺せという命令に反対したんですよ」

 事も無げに告げられて、ノインは己が耳を疑った。

「……まさか、そんな」

「中央―――誰かからは知りませんが、ヴェンド要塞に秘密裏に指令があったんです。フォールクの人間を一人二人、撃ち殺せとね。今そんなことをしたら間違いなく開戦でしょう? 全力で阻止したら異動になりました」

 初耳のことばかりで、ノインは目を見開いた。フリストは笑みの質を悪戯めいたものに変化させる。

「ノイン准将も似たような理由で現在の場所にいらっしゃるとうかがいましたよ」

 何故フリストが自分にクーデターを持ちかけたのか、今ようやく腑に落ちてノインは眼鏡を押し上げた。

 半年前、ノインが作戦部から事務仕事ばかりの戦務部に異動になり、ルーシェの責任者なるものを押しつけられたのは、戦に真っ向から反対したからだ。

 ディンファリ国との戦が終わって二年ほど経過した昨年の末頃から、フォールク攻略の話が上がるようになった。作戦の立案を命じられたノインはのらりくらりとかわしていたのだが、やがて逃げ場がなくなり、噛み付いた結果が現在の立ち位置である。

(志っていうのは、そういう……)

 納得はした。しかし、それならば何故フリスト自らが戦乱を起こそうとするのか、ノインには理解できない。

 考え込んでいると、フリストは軽く首をかしげた。

「私からも一つお訊きしてよろしいでしょうか」

「え? ええ」

「何故ノイン准将だけ、虹翅こうしの姫をルーシェと呼んでいるのですか?」

 予想外のことを質問されてノインは少しだけ瞠目する。今では当たり前のようになってしまっているが、知らない人間が聞けば確かに奇妙だろう。

「私も最初は姫と呼んでいたんですよ。命名したのは女王陛下です」

「陛下御自らですか」

「ええ。虹翅の姫はくでしょう?」

「たしかに、鈴のような綺麗な音を出しますね。はねで鳴らしているのでしたか」

「そうです。それを、陛下が古典を引用してお褒めになったんです。『燦めくような音の粒ルーシェ・ウル・レイム・レア』と。そうしたら、綺麗な響きだと大層喜んで」

 虹翅の姫は、自らをルーシェと呼んで欲しいと言い出したのだ。女王は快諾したが、アレクシアたちはとんでもないと固辞し、結局、離宮の関係者ではノインだけがルーシェと呼ぶようになった。

 フリストは納得した様子で頷く。

「なるほど。―――すみません、逸れてしまいました。虹翅の姫の、東部国境への慰問の話でしたね」

 不意に話が本題に戻り、ノインは目を瞬いてから首肯する。

「ええ、それで大佐に警備のご相談に」

「警備主任としては同行しなければならないのでしょうが、私は虹翅の姫には蛇蝎の如く嫌われていますからねえ」

 冗談めかして言い、フリストは片手を顎に当てる。第一印象が悪かったのだとノインは苦笑した。

「ルーシェは刃物が大嫌いなんです。昔何かあったのか……ペーパーナイフとか、テーブルナイフとか、そういうのは平気みたいですけど。剣や斧など、大きな刃物は駄目ですね」

「警備は帯剣していますよね」

「どうにか説き伏せました。武器がなければ警備になりませんからね。ルーシェの前では絶対に抜かないという条件で」

「なるほど。姫が気に入った少年に剣を向けた私は、芯から嫌われてしまったというわけですね」

 否定も肯定もできず、ノインは曖昧に首を動かした。

「来月半ばの出発を目安に予定を組んでいただきたいのですが。できれば、ルーシェから異議が出ない顔ぶれで」

「となると、やはり私は同行できませんね。まだ一度も口をきいて貰っていませんから」

「……困ったものです」

 癇癪かんしゃくを起こしたルーシェを説得するのを想像し、ノインは今からげんなりする。怒った彼女に理屈は通用しない。

「現地へ向かうのは、姫と姫の侍女三人、あとはノイン准将でよろしいですか」

「それと、ジズも入るかもしれません」

「ああ、あの子。連れて行けるくらい回復したんですか?」

「一人で動ける程度には。出発までに完治するかわかりませんが、最終的にはヴィーラント大尉の判断を仰ごうかと」

「あまり連れて行きたくなさそうですね」

 顔に出ていただろうかと、ノインは頬に片手を当てた。フリストは苦笑めいた表情になる。

「数回しか会っていませんが、いろいろ噂を聞くのでよく知っている子のような気がしますよ」

「……ちなみに、どんな噂ですか?」

「ノイン准将の隠し子だとか、亡国の王子だとか、暗殺者を准将が懐柔したとか、他国の間者だとか……まあ、無責任にいろいろです」

「ははは……」

 ノインは乾いた笑い声を立てた。暗殺者を懐柔というのが一番近い気がするが、ジズの記憶が戻らない今、真相は誰にもわからない。

 フリストはお茶を飲みながら首をかしげた。

「ノイン准将が選んでくださってもいいと思いますが、いかがですか?」

「いえ、私は……」

「今でも、兵を動かすのはおいやですか」

 言い淀んだところに不意打ちのように訊かれてノインは思わず動きを止めた。誰にも話したことのない胸の裡を見透かされたような気がして、素知らぬ顔をしてお茶を啜っているフリストを見る。

(……なんだ急に)

 適当に誤魔化そうかとちらと考えたが、この際だから正直に話してしまえと、ノインは独白のつもりで呟いた。

「いやなのではありません、怖いのです。私は、軍人には向いていないんですよ」

「何故そう思われます」

「血を見るのは嫌いですし、誰かが傷ついたり、死んだりするのはもっといやだ。……学者に戻りたいです」

 苦笑いで告げた言葉は、紛れもない本音だ。

 学者の家系であるハイレン家で学者になるよう育てられ、自らそれを志して城付きの学者になった。カルスルーエ家に連れ戻されてすぐ軍に放り込まれたのは、手っ取り早く「カルスルーエ公爵家当主」に相応しい地位が手に入るからだろう。カルスルーエ家は特に武門というわけではない。ヒュンドラの無茶に軍部も手を焼いたに違いない。

 覚悟もないまま入隊を余儀なくされ、わけもわからず訓練を受け、放り出されるように戦場に行き、保身のためだけに戦った。その戦が終わったときノインが感じたのは、安堵でも高揚でもなく恐怖だ。ノインの一言で兵が死ぬ。判断を誤れば更に多くの命が消える。二度と御免だと思ったし、もう自分以外の誰の命にも責任を持ちたくないと思った。

 束の間ノインを見つめたフリストは、ほんの一瞬だけ途方に暮れた迷子のような顔をして、どこか悲しげな笑みを浮かべた。

「神様は残酷ですね」

「……は?」

「戦が嫌いな人に戦の才能を与えるんですから。……嫌いだからこそ、なのかな」

 視線を落としたフリストが黙り込んでしまい、ノインは何も返さずに冷めかけたお茶を飲んだ。己の持つものが天賦てんぶだとは思えないし、そもそも戦の才能があるとは思わない。しかし、神というものがいるとして、残酷だというのには同意する。

「さておき、自分だけ仕事を減らそうというのも心苦しいですからね。お引き受けします」

 うって変わって軽い口調でフリストが言う。これ以上関係ない話を続けることもないだろうと、ノインもそれに乗った。

「よかった。これ以上仕事を増やされたら、死んでしまうところでした」

「それはいけません。准将に死なれては困ります。数日中には名簿をお渡ししますね」

「お願いします。それでは、私はこれで。ごちそうさまでした」

 お茶を飲み干し、ノインは立ち上がった。フリストに見送られて執務室を出る。

 歩いていると、終業の鐘が聞こえてきた。執務室に戻る前にジズの様子を見に行こうと、再び離宮に足を向ける。まだ仕事が残っているので、切り上げられるのが何時になるかわからない。

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