二章 2-2
* * *
ハールから話を聞いたノインは困惑しつつ問い返した。
「慰問……ですか」
「そうだ」
ルーシェが東方国境警備軍への慰問を望んでいるという。慰問自体は珍しい話ではないが、それをルーシェがというのは、少なくともノインは聞いたことがない。
第一、東の国境を接しているのは上層部が攻め込みたがっているフォールク国だ。何か裏があるのではないかと勘繰りたくなる。
重々しく頷いたきりハールが口を開く気配がないので、ノインは続ける。
「確かに現在、東の国境は慢性的な緊張状態ですが……何故今? せめて雨期が明けてからの方がいいのでは」
グランエスカ王国のあるイネルティア大陸南東部には、夏になる前に二月弱ほど長雨が続く雨期がある。今王都を発てば、東の国境に着く頃にはまず間違いなく雨期にぶつかる。
ハールは渋面のまま嘆息した。
「
「……そうですか」
「そう、面倒事を言いだしおって準備を整えるこちらの身にもなれただでさえ忙しいのに、という顔をするな」
胸中を的確に言い当てられ、ノインは目を逸らして眼鏡を押し上げた。
「そのような顔をしていましたか?」
「していたぞ。―――同行の人選、日程などはカルスルーエ准将に一任する。出立は来月半ばを目処に調整を」
「……あまり日がありませんね」
ささやかな抵抗の一言は聞き流された。ハールはまったく関係のないことを口にする。
「子犬の様子はどうかね」
唐突に言われて咄嗟に理解できず、ノインは目を瞬いた。一呼吸置いて、子犬とはジズのことかと思い至る。
「記憶が戻る
「情報部の調査の結果、何も出てこなかったそうだ。貧民街の孤児だな。何度か女と接触していたようだが、その女の正体は今のところ不明だ。同一の女かもわからん。情報が足りん。貧民街は出入りが激しいからな」
その話は初耳のノインは目を見開いた。ジズの身辺は早い段階で調べられていたのだろう。それで、何もなかったから放って置かれているのだろうかと考える。
(もしくは、泳がせて尻尾を出すのを待っている……)
ジズの治療を黙認されたのは、回復を待って背後を吐かせたかったからなのだろうし、記憶を失っていてそれがかなわないとなれば、ある程度自由にさせてジズの後ろにいる何者かとの接触を狙おうというのも十分ありえる。ジズが生きているとわかれば、ハールの言う「女」が再び現れるかもしれない。
「……誰を殺しにきたのでしょうか」
言ってしまってから、ノインは後悔した。ハールは、何故そのようなことを訊くのかと言うように少しだけ眉を上げる。
「さあ、誰だろうな。城の中の誰かだということはたしかだ。―――情が移ったかね」
「一月以上も見ていますから、それなりには」
「子犬も貴公に懐いているそうだな。ヴィーラントは、目覚めた当初から准将の言うことは聞いたと言っていた」
「気がついたときにたまたま私が傍にいたからでは? 雛鳥は、孵化して最初に見た者を親だと認識すると言います」
「今は雛鳥の話はしていない」
ばっさりと切り捨てられて、ノインは余計なことを言うのではなかったと口を閉じた。机に両肘をついて組んだ手で口元を隠すようにしながら、ハールはノインを見上げてくる。
「カルスルーエ准将。襟章はどうした?」
不意のことだったので、ノインは思わず襟章があるはずの場所を片手で押さえた。それから、さもたった今気付いたというように驚いた顔を作ってみせる。
「……どこかで外れてしまったようです。探しておきます」
ハールはじっとノインを見ていたが、やがて一つ息をついた。
「まあ、あの少年は私の管轄ではないからな。―――慰問の件、よろしく頼む」
「はい」
話は終わりと見てノインは一礼し、廊下に出た。さてどうしようかと歩き出す。
(ルーシェが言い出したことなら、アレクシアさんはもう知ってるよな。当然同行するだろうし……俺も行かなきゃ駄目かな。行きたくないなあ)
とはいえ、他に任せられる人間も思いつかず、ノインはため息をついた。ノインが信のおける人物を指名しても、ルーシェが了承しなければどうしようもないのが辛い。既に女王レートフェティが許可しているので、よほどのことがなければ中止できないのも痛い。ノインやほかの誰かに言えば反対されるのを見越して、レートフェティに直接、話を持って行ったのかもしれない。
とりあえずアレクシアに話を聞こうと、ノインは離宮へ足を向けた。遠出となれば侍女が三人だけでは足りないかも知れないし、護衛の人選や必要物資の手配など、やることは山ほどある。だがそれらは一人で考えても埒があかないので一旦脇に退け、ノインは別のことを考えることにした。
(ジズの後ろにいるのは誰だ……?)
少なくともノインが接しているジズは、他人を殺めようなどと考えも及ばないような、普通の子供だ。だから、ジズが「人形」であった仮説を捨てきれない。「人形」が限界まで動いて倒れた後、奇跡的に意識を取り戻した例も皆無ではないはずだ。一度精神を壊されているのだから、記憶が抜け落ちても不思議ではない。あるいは、敵の手に落ちて尋問される場合まで考えて、予め記憶を消されたのかも知れない。人道的にどうこうという理屈は置いておいて、自分だったらそうするだろうとノインは考えを巡らせる。
(相手方が諦めなければ次の手を打ってくるだろう。そのうちジズが何か思い出すかも知れないし……)
あまり悲観的には考えないようにして、ノインは足を速めた。逃避しても目の前の問題はなくなってくれない。
* * *
適当に歩き回り、木立の中に迷い込んだところでジズはぎくりと足を止めた。微かだが、鈴のようなルーシェの鈴鳴が聞こえる。
(離宮の外に出ることもあるのか……)
離宮には広い中庭があり、建物自体もかなり大きいのだが、長くそこで暮らし、ずっと閉じこもっているのは退屈するのかも知れない。散歩でもしているのだろうと、ジズは鈴鳴から離れようと踵を返した。ノインのキャンディを一つ口に入れる。
城の人々は口々にルーシェの鈴鳴を褒めそやすが、ジズは鈴鳴が苦手である。音は綺麗だと思うし、不快にも感じないのだが、聞いていると何故か頭痛がする上、たまに言葉が混ざって聞こえて不気味なのだ。日常的に聞いているはずのノインや侍女たちは何も言わないので、きっと彼らは頭痛がしたり、言葉が聞こえたりするようなことはないのだろう。
頭痛に効く薬草が使われているのか、ノインのキャンディを嘗めると頭痛が治まるので、ジズは多めに貰って鈴鳴が聞こえるときはできるだけ口に含むようにしている。
木立を抜けると今度は開けた場所に出た。
(城ってのはどれだけ広いんだよ)
ここまでくるのに森のような場所を幾つか抜けたし、何の建物なのかわからないが、やたらに豪奢な宮殿もあった。小さな町か村ほどの規模があるのではと思う。
鈴の音から逃げるように進んでいると、今度は歌声が聞こえて、ジズは目を瞬いた。
(……女の声?)
歌詞があるような、鼻歌のような、不思議な歌声に惹かれてジズは茂みを抜けた。すると、ぽっかりと開けた場所に出る。草が生い茂っているが背の高い木はなく、所々には花が咲いている。石が積まれたような場所もあり、何らかの理由で放棄された庭園らしかった。
元は石畳だったのだろう、隙間から雑草が生えてがたがたになっている道を進んでいくと、歌声の主の姿が見えた。淡い色のドレスを纏った長い銀髪の女性である。この一帯だけ草が刈られ、花壇の
邪魔をするのも悪い気がして、気付かれないうちに立ち去った方がいいだろうかと迷っていると、
「止まれ、動くな!」
「え?」
どこに隠れていたのか、兵士たちが突然現れた。戸惑っているうちに囲まれて地面に引き倒され、咄嗟に左腕を庇って手を離れた杖が転がる。
「痛っ……!」
「やめなさい」
柔らかな歌声とはうって変わって凛とした声が響き、紫色の花束を手にした女性が歩み寄ってくる。
「子供ではありませんか。迷い込んだだけでしょう、放してあげて」
「お言葉ですが、陛下。子供とてこのような場所にいる以上、ただ者ではありますまい」
ジズを押さえつけている女兵士の言葉を聞いて、ジズはぎょっと目を見開いた。目の前にいるこの女性がグランエスカ女王ならば、この仰々しいまでの護衛も、問答無用で自分が取り押さえられたのも頷ける。
近付いてきた女王は、ふと足下から何かを拾い上げた。それがノインの襟章だと気付いて、ジズは瞠目する。ベストのポケットに入れておいたはずが、倒されたときに飛び出してしまったらしい。借り物なので取り上げられるのはまずい。
「あ……それ」
「……これをどこで?」
「ノイン……准将が、知り合いだってわかるようにと……」
しどろもどろに説明すると、女王は小さく頷いた。
「そう、准将が面倒を見ている子というのはあなたのことね。―――もういいでしょう、放してあげて。これは確かにカルスルーエ准将のものだわ」
短い返事をして女兵士が離れ、背中の重みがなくなったジズはよろよろと立ち上がった。兵士の一人が杖を渡してくれるのを、おっかなびっくり受け取る。真っ直ぐに立ってみて身体の感覚を辿り、幸い、新たに怪我が増えることはなかったようだと胸を撫で下ろす。
女王が申し訳なさそうに覗き込んできた。
「痛かったでしょう。……怪我をしているのね。大丈夫?」
「はい……大丈夫、です」
女王に対する口の利き方がわからないので、探りながら答えれば、女王は寂しげな複雑な笑みを浮かべる。輝くような美人ではないが聡明そうな顔立ちに、光の加減で
「襟章を返します。あなたの名前は?」
「ジズ、です」
「まあ、『
「……飴のことですか?」
ロズルにも同じようなことを言われたと思って問い返せば、女王は懐かしそうに眼を細める。
「薬草キャンディ、今も作っているのね。准将は元気にしているかしら」
「はい。……俺が見る限りでは」
付け加えると、女王は柔らかく笑んだ。
「ジズは、ノイ……カルスルーエ准将から薬草を摘むように頼まれたの?」
「薬草?」
どういうことだろうと問い返せば、女王は小さく首をかしげる。長い銀髪が流れて、隙間から巻き貝のような変わった形の耳飾りが見えた。
「違ったかしら。ここはカルスルーエ准将の花壇なの。わたくしは、このキナリスの花が好きで、毎年貰っているのよ」
なるほど、とジズは納得した。先ほどロズルも、ノインは園芸が趣味で、城内の使われてない花壇を改修して草花を育てているのだと言っていた。それがここなのだろう。
「いえ……ここへは、たまたま……迷ってしまって」
「そう。では、どちらへ?」
「ええと、離宮に。ルーシェのいる」
「あら、では通り過ぎてきてしまったのね。ルーシェの離宮はもう少し向こうよ。途中で木立を通らなかったかしら。その反対側」
どの木立のことかわからなかったが、ジズは頷いておいた。女王は頷き返して踵を返す。
「ごきげんよう、ジズ。また会えたらいいわね」
衛兵と侍女を引き連れ、女王は去って行った。姿が完全に見えなくなってから、ジズは改めて周囲を見回す。やはり、この周辺だけは手入れがされているようで、雑草は取り除かれて、草花が種類毎に整然と植えられている。
(ノインと女王陛下、知り合いなんだな……)
詳しく聞いてみたいが、散歩中に女王に行き合ったなどと告げてはノインがひっくり返りそうだ。
そろそろ太陽が中天に達する。午後は大人しくしているという約束なので、戻らねばならない。とりあえず、女王が言っていたように木立を反対側に抜けてみようと、ジズは花壇を後にした。
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