三章 1-2

     *     *     *


 一昨日降り出した雨は、勢いを増しつつ今も降り続いている。そのせいで進む速度がにぶり、ヴェンド要塞に着いたのは昨日の夜更けだった。

 その日は要塞の総司令であるクラーテル大佐に挨拶するだけで休ませて貰い、慰問物資の引き渡しなどは今日の昼にでも、ということになった。午前中は時間に余裕があるので、ノインは早起きしないつもりで眠りについたのだが、

「……ン。ノイン、起きろ」

「ん……」

 肩を揺さぶられて、ノインは呻いた。返事をするのも億劫で上掛けの中に逃げると、容赦なく剥ぎ取られる。

「起きろってば。聞こえてるんだろ」

「……朝食は……要らない……」

「とっくに終わったっての。起ーきーろーよー」

「ロズル……は、いないんだった……」

 ノインもロズルもいなくなってしまうと戦務部の仕事が滞ってしまうため、ロズルは置いてきたのだ。本人は行きたがっていたが、仕方がない。

「ルーシェが迷子になっても知らないぞ」

「まい、ご……?」

 それは聞き捨てならないと、仕方なくノインは目を開けた。ぼやけた視界の中でジズが困り顔で見下ろしている。

「アレクシアさんたちが……一人にはしないと思うよ……」

「逃げられたんだって」

「……うん?」

「逃げられたんだって、ルーシェに。朝食の後に要塞の中を見て回りたいって言い出して、何言っても聞かないから仕方なく要塞の中回ってたら、護衛共々かれたって」

「ええ……」

 もう一度眠って夢にしたかったが、そうするともっと面倒なことになりそうで、ノインは片手で顔を覆いながら起き上がった。ジズが心得たように眼鏡を渡してくれる。それをかけながら思い切りため息をついた。

「お披露目の前に自分で顔出して回っちゃ駄目だろ……慰問の主役なのに……」

 乱れ放題の髪を掻きやりながら立ち上がると、ノインが起きたことを確認したとばかりにジズは踵を返した。

「護衛の人たちも総出で手分けして探してる。おれも頼まれたから行ってくるよ」

「待て待て、一緒に行こう」

 ルーシェの一行が慰問にくることは要塞全体に知らされているだろうし、ノインたちの顔を知らなくてもルーシェの護衛と侍女だということは出で立ちでわかるだろう。しかし、ジズだけは年格好からしても不審に思われかねない。一応は侍従という扱いだが、ここの兵士たちにそこまで細かく伝わっているかは怪しいところだ。

 ノインは急いで身支度を調え、ジズと共に部屋を出た。もしかしたら戻っているかも知れないと一縷の望みをかけてルーシェたちに宛がわれている部屋を尋ねてみたが、ルーシェが戻ってきたときのためにライヤが残っていただけだった。

「今うろつかなくても、紹介が終われば案内して貰えるのに」

 ぼやけば、隣を歩くジズが首をかしげる。

「見せたい場所だけ見せられるより、自分で好きなところ回りたいんじゃないか?」

「その気持ちはわからなくもないけど……どうした?」

 ジズが顔を顰めて額を押さえたのに気付いてノインは尋ねた。ジズはなんでもないと首を左右に振る。

「平気。ちょっと頭痛がするだけ」

「部屋に戻って休んでいるといい。少しだけど薬も……」

「いや、すぐ収まるから大丈夫。それより、多分こっちにいる」

 言いながら薬草キャンディを取り出して口に放り込み、ジズは右手側の廊下を指差した。突然どうしたのかと、ノインはジズの指差す先と彼とを交互に見る。

「わかるのかい?」

「なんとなくだけど。間違ってたらごめん」

 言葉とは裏腹に迷いのない声で言い、ジズは己が示した方向へ足を向けた。宛てなどないので、ノインもそれについていく。

 少し歩くと、まずは鈴を振るような音が聞こえた。当たりだと思いつつ横目でジズを見れば、頭痛のせいか渋い顔をしている。

 近付くにつれ人の話し声も届くようになり、ノインは声の聞こえる部屋を覗き込んだ。そこはかなり広く、テーブルと椅子が規則的に並べられていて、食堂兼休憩室らしかった。その一角に人だかりが出来、楽しげな鈴鳴と声が聞こえる。

「それで、その後どうなったの?」

「勿論、居合わせた奴らで蹴散らしてやりました」

「凄いわ。少ない数で勝ってしまうなんて、みんな強いのね!」

 弾むように言ったルーシェが声を立てて笑うと、集まっている兵士たちがさざめく。

「可愛い……」

「綺麗な声だなあ……」

「妖精さんがいる……」

 この輪を破ろうとすれば、否応なしに注目を浴びるだろう。見なかったことにして立ち去ろうかと思ったが、この現場をアレクシアが見たらそれこそ大騒ぎになるに違いない。水を注すのは本意ではないが、仕方がないとノインは腹を括る。

「ルーシェ」

 会話が途切れた隙に声をかければ、その場にいる全員が一斉にノインを振り返った。一拍置いて、血の下がる音が聞こえるような気がするほど見事に一同が顔色を無くす。

 凍り付いてしまった人垣をかき分けるようにして、ルーシェがひょこりと顔を出した。

「あら? ノインも道に迷ったの?」

「いいえ。あなたを探しに来たんですよ、ルーシェ」

 今日のルーシェは白一色のドレスを纏っている。彼女の服は翅を出すためにどれも背中が大きく開いていて、離宮の外に出るときはストールなどで覆って隠しているのだが、今日はそれがない。蜂蜜のような金色の巻き毛、長い睫に縁取られた大きな黄玉の瞳、人形もかくやというほど整った容姿と相俟って、確かに妖精然としている。

「この人が准将……」

「あの准将か……」

「本物だ……初めて見た」

「ほんとに赤いんだな……」

「あれは目立つなあ……」

 衝撃から立ち直ったのか、ひそひそと囁き交わされる声を聞いて、いつの間にやら自分も有名になったものだと思いつつ、ノインはなるべく酷薄に見えるよう笑みを浮かべる。

「聞こえているよ」

 兵士が一斉に姿勢を正し、ノインはルーシェへ視線を戻した。

「一人で出歩くのは感心しませんね。アレクシアさんたちが心配していましたよ」

 ルーシェは不満げに唇を尖らせる。

「アレクシアたちと一緒だと行きたい場所へ行けないのだもの、つまらないわ。それに、わたしはちゃんと言ったもの。一人で大丈夫よって、五回も」

「気持ちはわかりますが、戻りましょう。後で案内して貰えるように頼みますから」

「いやよ。もっとみんなとお話ししたいわ」

 同意を求めるように小首をかしげながら周囲を見回すルーシェに、皆相好を崩す。古代には一人の女を巡って大陸間戦争が起きたと言うが、あながち誇張でもないのかも知れない。同時に、逃避しかかっている思考に気付いてノインは気を取り直す。

「ルーシェの身に何かあったら、彼らは減棒程度では済みませんよ。一体何人の首を飛ばすつもりですか」

 ルーシェはきょとんと小首をかしげた。

「首を切ったら死んでしまうわ。ノイン、そういうことはしないって言っていたじゃない」

「比喩です。殺しはしません。ですが、北の僻地に転属の後、退役まで雪かきという可能性は否めません」

「まあ、雪? 楽しそうね。雪に触れてみたいのに、いつもアレクシアに止められるの」

「……ちなみに、罰を受けるのは彼らだけではありません。私を含む護衛や、アレクシアさんとライヤ、ナンナも免れないでしょうね」

 アレクシアの名を出すと微かにルーシェが反応した。もう一押しかとノインは続ける。

「厳罰ではないかもしれませんが、少なくともルーシェの侍女からは解任されるでしょう」

「そんなのいや。……わかった。戻るわ」

 ルーシェが承諾してくれて安堵したのも束の間、入口の方から悲鳴じみた声が聞こえた。

「姫様!!」

 響き渡ったアレクシアの声に、見つかった、とばかりにルーシェが首を竦める。駆け寄ってきたアレクシアは、ルーシェを頭の天辺から爪先まで改めて、大きく息をついた。

「ご心配申し上げました……ご無事でようございましたわ」

「アレクシアは少し心配しすぎだと思うわ」

「そのようなことはございません。さ、お戻りくださいませ」

 アレクシアは頬を膨らませたルーシェを引き摺るように連れて行ってしまった。ぽかんとそれを見送ったノインは我に返り、同じくぽかんとしている兵士たちを振り返った。

「非番じゃない者は持ち場に戻れ。見なかったことにしておくから」

 それぞれ返事をして、兵士たちは蜘蛛の子を散らすように食堂を出て行った。短い時間だったのに妙に疲れてしまい、ノインは傍らのジズを振り返る。

「……戻ろうか」

 ジズは渋面で左耳を押さえていた。また幻聴が聞こえるのだろうかと心配になり、しかしノインが尋ねる前に気付いたらしいジズが、耳を押さえていた手を下ろす。また暗示の声が聞こえたのだろうかと心配になってノインが尋ねると、そうではないとかぶりを振る。それから周囲を見回し、人がいないのを確かめてから声を潜めて口を開いた。

「ルーシェが鈴の音を出すのって、無意識なのか?」

 ジズの質問が唐突に思えて、ノインは首をかしげる。

「さあ……訊いたことないな。ルーシェにとっては『啼く』のも言葉も、自分の考えや気持ちを伝える手段なんだろうとは思う」

「ノインは、あの鈴の音がただの音に聞こえる?」

「ただの……?」

 音にただも特別もあるのだろうかと聞き返せば、ジズはもう一度あたりを見回す。

「ここじゃ、ちょっと」

「人に聞かれたくない話かい?」

「……うん」

「なら、ここのほうがいい。今は俺と君以外に誰もいないし、隠れられる場所もない。―――こういうとこの個室には、盗聴用の空気穴があることが多いんだよ。ヴェンド要塞にあるかは知らないけど、念のため」

 ジズは小さく頷いて、ノインにしか聞こえない程度の声で話し始めた。

「おれ……ルーシェの鈴鳴が、言葉に聞こえることがあるんだ」

「言葉?」

「うん。文章じゃなくて、単語……命令みたいな。聞こえるときと聞こえないことがあるから、その……幻聴のこともあって、それの一種かと思ってた。あの鈴鳴聞いてると頭痛くなってくるし。でも、やっぱり……さっきも」

「さっきは、なんて?」

「……『集まれ』って」

「なるほど。啼きながら要塞の中を歩き回って、兵士を集めたわけか。集めて何をしようとしたのか……」

 ルーシェに尋ねても、素直に答えてくれるとは思えない。そもそも、現時点でルーシェは、彼女の鈴鳴に乗せられた命令を解読できる人間がいることを知らない可能性が高い。そのことを―――ジズが鈴鳴の言葉を聞き取れることを、ルーシェに知らせるべきかどうかノインは迷う。

 考え込んでいると、ジズに腕を引かれた。

「信じるのか? こんな話」

「嘘なのかい?」

「嘘じゃないけど……おれの頭がおかしいだけかもしれないのに」

「ジズの頭はしっかりしているよ。俺なんかよりも、よほどね」

 言いながらジズの頭を撫でると、彼は複雑そうな、泣き出すのを堪えているような顔をした。手触りのいい黒髪を指で梳いて、ノインは告げる。

「今のでわかった気がする。なんとなくだけど」

「何が?」

「人間に、精神や魂みたいなものがあるとして」

 仮説だが、と前置きしてノインはジズに説明した。

 精神に異常をきたした場合などを指して「壊れる」と比喩として使われることがあるが、今回のジズの場合は文字通りだったのだとノインは考える。

 未だに有翅族について多くは解明されていないが、五感が人間よりも遙かに鋭いことはわかっている。それだけでなく第六感―――感応能力のようなものが備わっているのだとしたら、ジズが眠っている間、傍らで啼き続け、「呼んでいる」のだと言っていたことに説明が付く気がする。

 ルーシェは故郷の匂いのするジズを気に入り、詳しい話を聞きたいと思った。彼女は、ジズの魂が「壊れて」いることを最初から察知していたのだろう。その上で、砕けたジズの欠片を呼び集めて修復しようとしていた。その結果、目覚めるはずのなかったジズは目を覚まし、しかし、代償のように過去の記憶をすべて失っていた。

 ノインの説明を聞いていたジズは、表情を強張らせた。

「おれが目を覚ますことができたのは、ルーシェのおかげ……?」

「あくまで仮説だ、本当のところはどうなのかわからない。けど、その副作用みたいなもので、ルーシェの鈴鳴に含まれる言葉がジズにだけ聞こえるようになったんじゃないかって思ったんだ」

 そして、ジズの話の通りだとすると、有翅族の鈴鳴は、聞いた者の精神に働きかける。本人に自覚がないままに従わせるのかもしれない。

「そんなことができるなら……、他人を全部思いのままに操れるってことじゃないか」

「そこまではいかないんじゃないかな。ジズが聞いたのは、単純な命令だけなんだろう?」

「うん。さっきの『集まれ』とか……ちょっと前には『帰れ』とか聞いた。『去れ』、『行け』なんてのもあった」

「主語も目的語もない……『帰れ』はともかく、ただ『行け』って言われても困るよね。聞いた人がどうとるかで変わるのかな……。聞いた人たちは、それに従った?」

「……大体は。偶然かも知れないけど」

「そうか。俺も、無意識のうちに影響を受けていたかも知れないね」

 半ば独白のつもりで言ったのだが、ジズは首を左右に振った。

「多分、ノインには影響ないよ。おれの知る限りは」

「何故だい? 個人差があるってこと?」

「個人差もあるだろうけど、ノインのはこれのせいなんじゃないかと思う」

 言いながらジズはポケットに手を突っ込み、何かをつまみ出す。その手にあったのは、ノインが作ったキャンディだった。

「この飴、あんたもよく嘗めてるよな。頭痛に効く薬草使ってる?」

「いいや。精神安定とか苛々を鎮めるとか、そういうのだよ。頭痛に効く薬草もなくはないけど、それには入れてないな」

「そっか……おれは、ルーシェの声で頭痛がするとき、これ嘗めると収まるんだ。てっきり、そういう薬草が入ってるんだと思ってた」

 思いがけないことを言われてノインは目を見開いた。

「俺が鈴鳴の影響を受けないのは、キャンディに入れた薬草の効果……?」

「鈴鳴が原因の頭痛が治まるなら、精神への影響も防ぐんじゃないかって。実際、ノインには効いてないっぽいし。おれがそう感じただけで、実際そうかはわからないけど」

「ここにいる間、食べるのやめてみようか」

 ノインは軽い気持ちで言ったのだが、ジズは予想外の動揺を見せた。

「や、やめてくれよ。やだぞ、おれだけ正気、みたいなの」

「わかった、やらない。―――アレクシアさんはどうなんだろう。かなり昔からルーシェに仕えてるらしいし、離れたところもあんまり見たことないけど」

「さあ……長いこと近くで聞いてると、耐性がつくとか、慣れるとか」

「ああ、そういうのはあるかもしれないね。防ぐ薬草を知っていて、常用しているとか」

 一つの単語だけでも強制できるのであれば、ルーシェに警備や護衛がいくら付いても彼女を止められないことになる。ならばアレクシアは十中八九ルーシェの鈴鳴のことを承知している。影響を防ぐ手立ても知っていて、その上で離れないようにしているのではないだろうかとノインは仮説を立てる。

「少し注意して見てみるよ。またルーシェの鈴鳴の声が聞こえたら、教えてくれ。話してくれてありがとう」

 ジズは目を見開き、次いで何故か赤面した。何度か唇を動かして目を伏せる。

「べ、別に、お礼をいわれるようなことじゃ……」

 ぼそぼそと言うジズの頭をもう一度撫で、ノインは笑んだ。

「さて、戻ろうか。午後からは忙しくなりそうだしね」

 ジズを促して廊下へ出ながらノインは、ルーシェの鈴鳴のことをアレクシアにそれとなく訊いてみようかと考える。何か新しいことがわかるかもしれない。

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