三章 2
2
慰問物資の引き渡しやルーシェの紹介など、一連の式典めいたものが終わり、ヴェンド要塞総司令のクラーテルに要塞内を案内して貰うことになった。
司令官直々にということにノインは恐縮したが、暇なのだから気にするなと笑って流されてしまった。クラーテルは、髭をたくわえた厳つい見た目とは裏腹に、気さくな人柄らしい。要塞内を回っている間、目についたものを好奇心のままに片端から質問するルーシェにも、いやな顔一つせず丁寧に答えていた。
ルーシェの質問攻めのために思いの外時間がかかり、案内が済んで戻る頃には既に夕刻だった。すぐ夕食だから部屋にいろと言い渡されているので、ノインは窓際に椅子を据えて雨模様の景色を眺め、ジズは寝台に寝転がって大人しく本を読んでいる。
(この分なら、明後日まで何事もなく行けるかな……)
今日は無事に終わった。明日を乗り切れれば、後は帰るだけだ。まだ雨は降り続いていて帰り道が心配だが、往路が予定よりも短い日数で済んだ分余裕がある。今日明日はいくら降ってもいいので明後日は晴れてくれないかと、身勝手なことを考えていると、扉が叩かれた。起き上がろうとするジズを制し、ノインが出る。
「はい」
扉の前にいたのはアレクシアだった。一礼し、布を被せたワゴンを示す。
「失礼いたします。夕食をお持ちしました」
「ありがとうございます」
「ジズ、配膳をお願いね。食器は後ほど取りに参ります。それでは」
託されたワゴンを押してジズがテーブルへ移動し、アレクシアは踵を返した。丁度いいからルーシェについて訊いてみようと、ノインはアレクシアを呼び止めた。立ち去りかけたアレクシアがノインに向き直る。
「なんでしょうか」
「ちょっといいですか」
「今から姫様のお食事ですので、手短にお願いいたしますわ」
頷いてから、さてどこから話そうかとノインは迷う。鈴鳴に混ざる言葉は、ノインが聞いたわけではない。ジズを呼ぼうかと振り返り、テーブルで忙しく立ち働いている彼を見て、どうしても説明に困ったら頼もうと思い直す。
「つかぬ事をお伺いしますが、ルーシェが啼くのは生まれつきなんですか?」
「……有翅族なのですから、そうでしょうね。もっとも、すべての有翅族が啼くわけではないそうですが」
おや、とノインは眼鏡を押し上げた。
「アレクシアさんでもルーシェのことについてわからないことがあるんですね」
「当たり前ですわ。ノイン様はわたくしをなんだと思っておいでなのですか」
「ルーシェに一番長く仕えているかただと」
「そうですけれど……」
アレクシアは不可解そうな顔をする。このまま取り留めのないことを話していては怒られてしまいそうなので、ノインは本題に入ることにした。
「ルーシェの鈴鳴はとても綺麗ですよね」
切り出しかたが唐突に思えたようで、アレクシアは戸惑う様子を見せながらも頷いた。
「ええ、姫様のお声はどんな歌姫にも負けませんわ。大陸一、いえ、世界一です」
「私もそう思います。―――アレクシアさんは、鈴鳴が別の言葉に聞こえることはありませんか?」
「……言葉?」
何を言っているのだこいつは、という顔をされてノインは微かに苦笑いした。アレクシアは眉を顰めたまま言う。
「聞きなしのことでしょうか」
「聞きなし?」
覚えのない言葉を問い返せば、アレクシアは首をかしげる。
「違うのですか? 動物の鳴き声などを人間の耳に聞こえるように言葉を当てはめたのが『聞きなし』です。たとえば……犬の鳴き声はどう聞こえます?」
「わんわん、でしょうか」
「それです。犬は『わんわん』と発音しているわけではありませんから」
「なるほど。それは……多分、違います」
ジズの言い方は、音を無理矢理当てはめたのではなく、はっきりと人の言葉に聞こえているようだった。それに、聞きなしなのであれば、ジズだけでなく他にも言葉のように聞こえる人間がいてもおかしくないが、そんな話をノインは聞いたことがない。
「多分?」
怪訝そうに返されて、ノインは話を切り上げることにした。
「すみません、変なことを訊いてしまって」
「……いいえ。失礼いたします」
一礼してアレクシアは去って行った。ノインは部屋に入って扉を閉める。
(アレクシアさんには「聞こえ」ていない……?)
鈴鳴に言葉が乗って聞こえるというのは常にはない現象だ。もし他にも「聞こえ」ている者がいるとしたら噂になるだろうし、それがアレクシアの耳に入っていないというのは考え難い。
ルーシェに直接聞けば、存外あっさりと意図を教えてくれるかも知れない。だが、思惑が外れたたときに彼女がどういう反応を見せるか予想が付かないのが悩みどころである。
「ノイン」
呼ばれて思索から引き戻されたノインは顔を上げた。テーブルには料理が並べられ、ジズがワゴンを脇に避けている。
「冷めるぞ」
「ああ、すまない。食べよう」
空腹を覚えてノインはテーブルに付いた。ジズが向かいに座るのを待って、いただきますと手を合わせ、食べ始める。
(調べるにしても訊いてみるにしても、帰ってからだな。明日までに雨が止めばいいけど)
* * *
≪戦え!≫
「―――…!」
例の「言葉」が聞こえて、ジズは息を飲んで目を開けた。早鐘を打つ心臓を落ち着けるために胸を押さえながら身体を起こす。
(今のは……夢じゃない)
耳鳴りがしてジズは耳を押さえた。周囲は暗く、夜が明ける気配はない。隣の寝台を伺うと、ノインが静かな寝息を立てている。やはり、今のが聞こえたのは自分だけらしい。
耳鳴りと共に頭痛もし始めて、ジズは寝台から両足を下ろした。室内履きをつっかけて、かけてある上着のところまで行き、ポケットを探る。薬草キャンディが一つだけあったので口に入れた。
≪た……え……たた……≫
頭痛は軽くなったが、耳鳴りは続いている。途切れ途切れではあるが言葉も聞こえて、酷く胸騒ぎがした。
(鈴の音は聞こえないけど……まずいんじゃないか?)
声は「戦え」と言っている。ここはフォールク国との国境で、戦争状態ではないとはいえ、戦え戦えと煽られたらフォールクもグランエスカもその気になってしまうのではないだろうか。
「…………」
少し考え、目が冴えてしまったこともあって、ジズは声の元を捜しに行くことにした。ノインを起こさないように静かに移動して部屋を出る。
要塞内は静まり返っている。夜勤の兵士以外は皆寝ているのだろう。ぽつりぽつりと灯っている常夜灯のおかげでなんとか歩けるくらいの明るさがあるが、動くものの影はない。
声の元は要塞内にはないようだった。殆ど勘で声を辿る。途中、見回りの兵士を物陰に隠れてやり過ごした。出入り口には必ず見張りの兵士がいるので、一度二階に上がって空き部屋の窓から外を窺い、誰もいないのをたしかめて飛び降りる。
(……見つかったら怒られるじゃすまないかもな)
間者かと疑われても仕方がないことをジズはしている。耳鳴りが治まるか、夜明けまで部屋で大人しくしていればいいのだろうが、この声を放っておいてはいけない気がするのだ。
幸い、雨は殆ど霧のようになっている。雲越しに月のある場所はわかるが、周囲を照らし出すまでには至らない。灯りを持ってくれば良かったかとちらと考えたが、灯りを持って歩いていたらあっと言う間に見つかってしまいそうだ。
闇に目が慣れても殆ど見えない。転ばないよう注意しながらジズは足を進めた。自分が今どの方角に向かっているのかも定かではないが、声は近付いている。それを頼りに歩いて行くと、行く手に白っぽい何かがあるのに気付いた。どうやら、声はそちらから聞こえているらしい。
指先ほどだった白い物は、近付くにつれて白い服を着た人間なのだとわかった。少し高くなった場所に、小柄な人影が片膝を抱くようにして腰掛けている。
(ルーシェ……?)
ジズがまさかと眉を顰めると同時に、雲が割れて月光が降り注いだ。青白い光に、金色の巻き毛と白い長衣、虹色の翅が浮かび上がる。少女は大人の胸ほどの高さがある岩に腰掛けていた。
不意に耳鳴りが止んでジズは目を瞬く。晴れたことに気付いたか、ルーシェが空を見上げた。金色の髪が肩口から零れて、月光に薄い翅が燦めくのが、酷く現実離れした、幻想的なものに見える。
やがてルーシェは顔を正面に戻した。りり、と鈴のような音がする。
≪……かえ……た……え……≫
鈴鳴と共に言葉が聞こえ、ジズは耳を押さえる。じっと見ていると虹色の翅が微かに震えているのに気付き、鈴のような音がどこから鳴っているのかようやく合点がいった。
(そうか、翅を擦り合わせて……
これまで啼いているルーシェをちゃんと見たことがなかったので、どうやって啼いているのかわからなかったのだ。鳥のように囀っているのだろうと思っていた。
≪た……かえ……たたかえ……≫
止めた方がいいだろうと彼女を呼ぼうとして、
「ルー……」
とん、と首筋に衝撃を感じ、すぐに目の前が暗転した。
「……ズ。……ジズ、そろそろ起きて」
「ん……」
肩を揺さぶられてジズは顔を顰めた。仰向けになるよう寝返りを打ちながら目を開けると、ノインが覗き込んでいた。
「珍しいな、ジズが俺より遅いなんて」
「……ノイ、ン……」
呟き、唐突に記憶が蘇ってジズは息を飲んだ。跳ね起きると、驚いたのかノインが仰け反る。
「おっと。大丈夫だよ、そんなに急がなくても」
「おれ……寝てた……?」
「うん? うん、よく寝ていたよ。おかしな夢でもみたかい?」
「夢……?」
自分は昨夜、「声」で目を覚まし、その主を捜そうと部屋を抜け出した。辿っていくとルーシェがいて、しかし、声をかける前に昏倒させられた。
(夢だったのか? いや、でも、たしかに……)
昨夜、ジズはたしかに「戦え」という声で目を覚まし、要塞を抜け出して声の源を探しに行った。そしてルーシェを見付け、呼びかけようとしたところで誰かに昏倒させられた。夢にしては記憶が鮮明すぎるし、現実だったらあの場にはルーシェの他に少なくとももう一人いたことになる。普通に考えたらアレクシアか、ライヤかナンナのどちらか、あるいは全員だろうが、彼女たちに一撃でジズを倒せるとは思えない。しかも、ジズを昏倒させた誰かは、わざわざ部屋まで運んで元どおりに寝かせた。何故そんなことをしたのか理由がわからない。
「ジズ? 大丈夫かい? なんだか顔色が悪いけれど」
ノインに言われてジズは顔を上げた。昨夜の出来事を説明しようか迷い、夢でもなんでも伝えた方がいいだろうと口を開きかけたとき、扉が強く叩かれた。
「なんだ?」
首をかしげながらノインは扉へ向かう。なんだか胸騒ぎがして、ジズもそれを追う。
扉を叩いていたのは、王都から同行してきた警備隊長だった。
「失礼いたします、ノイン准将」
「何かあったのか?」
「旧フィヨルム川沿いの国境付近に、フォールク軍が集結しているとの報せです!」
「……なんだと」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます