一章 1-2

 扉の前に立つ、見張りも兼ねた警備兵の敬礼に頷き返し、ノインは扉を叩いた。すぐに侍女の声が返って扉が開く。鈴鳴が一層はっきり聞こえ、顔を出したルーシェ付きの侍女が一礼する。

「やあ、ライヤ」

「ノイン様、いかがなさいました?」

「様子を見に来た。ルーシェも中に?」

「はい、いらっしゃいます。アレクシア様が何度もご説得申し上げたのですが、目覚めるまではどうしてもと……」

 本人から聞いていたので、ノインは気にせず頷いた。

「うん。ルーシェと話せるかな」

「こちらです」

 ライヤはノインを招き入れ、扉を閉めた。居間から寝室へ移動すると、窓際にある寝台に少年が寝かされ、ルーシェは寝台の傍らに椅子を据えて腰掛け、少年の胸に片耳をつけていた。その状態で「いて」いる。

 壁際に控えている二人の警備兵が敬礼を寄越すのに頷き返し、ノインは寝台の足下の方へ移動した。

「失礼します、ルーシェ」

 ルーシェは啼くのをやめて微笑んだ。顔を上げることはしない。

「ノイン。ごきげんよう」

「ごきげんよう。そろそろ食事の時間ですから、お部屋に戻ってはいがかです?」

「お食事は要らないわ。お腹は空いていないもの」

「とはいえ、ずっと飲まず食わずというわけにもいかないでしょう。あまりアレクシアさんを困らせてはいけませんよ」

「わたしのお腹が空いていないのに、どうしてアレクシアが困るの?」

 本当に不思議そうに問い返されて、ノインは一旦口を閉じた。

「……アレクシアさんはルーシェのお世話係でしょう。ルーシェの体調を気遣うのもアレクシアさんの役目です。健康の維持に食事は大切なんですよ」

「そうね。お腹が空いたら食べるわ」

 今ひとつ話がかみ合わないので、ノインは話題を変えることにする。

「ルーシェはいつからここにいるのですか?」

「ずっとよ。わたしが呼ばないとこのかたは起きないもの」

 答えになっていないことを笑顔で言われ、ノインは言葉に詰まったのを誤魔化すために眼鏡を押し上げた。そのうちにルーシェが続ける。

「起きたらたくさんお話ししようと思うの。楽しみだわ」

 ルーシェが話をしたいというのは珍しいので、ノインは興味本位で尋ねてみた。

「お話というのは?」

「セドナのことよ」

「セドナ……セドナ王国ですか」

 ノインは西の方にあった国を思い出す。独立国であったのは五年ほど前までのことで、今はグランエスカ王国に併合されて一地方になっている。

「このかたからセドナの匂いがするの」

「だから、彼を侍女の補充に?」

「そうよ。ああ、ノルズリは今どうなっているのかしら」

 ノルズリは、かつてセドナ王国の王都だった町である。懐かしげに眼を細めるルーシェを、ノインは少々気の毒に思った。

 ルーシェの担当を任じられたときに受け取った資料によると、彼女は五年前、セドナ王国陥落の際にここに連れてこられた。セドナ王都ノルズリの王宮にいたらしいが、今や幻とも言われる有翅ゆうし族なので、殺すのを惜しんだのだろう。当時のグランエスカ王女であり、現女王がことほかいつくしんでいるので、現在は下に置かれぬ扱いをされている。

(無理もないってのは、そういう意味か)

 アレクシアの先程の言葉を理解し、ノインは一人で納得した。少年がルーシェの同郷かも知れないとなれば、強く言うわけにも行くまい。

「部屋に戻って貰うことはできませんか。怪我をしていて動けないとはいえ賊ですし、傍にいるのは危険です」

「危険? このかたが、何をしたの?」

 そこを尋ねられるとは思っていなかったので、ノインは僅かに目を見開いた。

 少年の目的は判明していない。正規の手段を踏まずに王城へ侵入して警備と衝突したので兇手扱いされているが、詳しいことは何もわかっていないのだ。持ち物から身元は判明しなかった。

 今の状況でルーシェの発言が広がれば、兇手を送り込んだのはセドナ王国の生き残りだと決めつけられかねない。それは少々―――否、かなり危険だ。

 少年は微動だにせず眠っている。黒髪は乱れ、痩せた頬にも唇にも血の気はなく、目を覚ます気配はない。ルーシェは彼が起きるまでここから動かない決意のようだし、早めに伝えた方がいいだろうとノインはルーシェに向き直った。

「ルーシェ」

「何かしら」

「大変残念なのですが、この少年は『人形』である可能性が高いのです」

 ノインの言うことがわからないという様子で、ルーシェは大きな目を瞬いた。

「お人形ではないわ、人間よ」

「……ええ、『人形』というのは……、比喩というかなんというか」

 まさか、少年が薬漬けの廃人かも知れないから、起きる見込みが殆どないと伝えるわけにもいくまいと、ノインは言葉を探しながら説明を試みる。

「とにかく、少年が目覚める可能性は低いと、ヴィーラント大尉が。その……大怪我なのもそうですが、精神的にも疲弊しているようでして」

「知っているわ。今はバラバラなの」

「……バラバラ?」

「バラバラ。このままじゃ起きないのも当然だわ。だから呼んでいるの。全部集まればちゃんと元に戻るわ」

「はあ……元に……」

 ルーシェの言うことがよくわからず、ノインは曖昧な返事をした。それに気を悪くしたふうでもなくルーシェは、りりり、と軽やかに啼いてみせる。

「ね? こんなふうに呼ぶのよ」

 ノインは返答に困って一つ頷いた。すると、出入り口の扉の方から声が聞こえる。

「失礼いたします! 准将はいらっしゃいますか!」

 またやかましいのがきたと頭を抱えたくなりながら、ノインは声を投げた。

「静かに、ロズル大尉。ルーシェと怪我人がいるのだから」

 寝室へ顔を出したロズルは、ぺこりと頭を下げる。

「失礼いたしました。姫様におかれましてはご機嫌麗しゅう」

 ルーシェはにこりと微笑んだ。

「こんにちは。ロズルはいつも元気ね」

「恐縮です、姫様。―――准将」

 呼ばれたノインは無言で先を促した。ロズルが続ける。

「ヘルモード中将より、准将を議場へお連れするよう命を受けました」

 出ると言っているのに、ノインの部下まで使って寄越したヘルモードは、ノインのことを一切信用していないらしい。

「お逃げになるようでしたら、腕の一、二本へし折ってでもお連れするようにとおおせです」

「いちいち物騒だなあの人は。出るって言ってるのに」

 腕を折ってでも軍議に出させろと言うのだから、意識不明くらいでないと欠席は許されないだろう。意識がなくても引き摺って議場まで連れて行かれかねない。

「それでは、私はこれで。アレクシアさんの言うことを聞いてくださいね、ルーシェ」

 言い置いて、ノインはロズルと共に部屋を出た。歩きながらロズルが言う。

「また戦争の相談ですかね」

 ロズルの声は笑みを含んでいて、冗談半分だとはわかる。しかし、同じことを考えていても、ノインとしては咎めずにはおけない。

「口に出すのはやめておけ。主戦派に聞かれたら面倒なことになる」

「わかってますけど、前の戦が終わって二年と少しじゃないですか。そろそろ上の人たちが騒ぎ出す頃かなって」

たちの悪い虫みたいに言うな」

「虫とまでは言ってませんよ。でも、また戦になったらいやだって、みんな言ってます」

「……それは、誰でもそうだろう」

 一部を除いて、という言葉をノインは飲み込む。ロズルをはじめ、大多数の人間は戦など望んでいない。何かにつけて戦をしたがる上層部への不信と不満の声は、日に日に高まっている。上層部がそれに気付いていないはずはないと思うのだが、軍議で出る話は次はどこを攻めるかということばかりである。

「ああ、カルスルーエ准将。こちらでしたか」

 声をかけられ、思わず立ち止まったノインは膝から崩れそうになった。

(この人の存在を忘れていた……)

 ロズルの手前、崩れるのは堪えて、努めて笑顔を作る。昨夜、詳しくは明日と言ったのは自分なので、追い返すこともできない。

「フリスト大佐、兵站へいたん部の方はよろしいのですか?」

「向こうの挨拶回りは一段落しましたので、こちらにもご挨拶をと思いまして」

「そうですか。―――こちらは、私の副官のロズル大尉です。ロズル、フリスト大佐だ。今日付で、兵站部に異動になったそうだ。ここの警備主任も兼任する」

「お初にお目にかかります。ライオ・ロズル大尉です」

「アルスキール・フリスト大佐だ。よろしく頼む」

 二人が挨拶を交わすのを待ち、ルーシェたちにもフリストを紹介しなければと振り返ると、丁度アレクシアが追いかけてきていた。

「ノイン様、お話し中に失礼いたします」

「どうしました?」

「姫様が、その……そちらの大佐を……」

 言いづらそうにするアレクシアの様子を見て、ノインはルーシェが何を言っているのか悟った。フリストも同じだったようで、苦笑めいた表情になる。

「嫌われてしまいましたね」

「仕方がありません、紹介はまたの機会に。そのうちルーシェの機嫌も治るでしょう」

 アレクシアだけにフリストを簡単に紹介し、ノインはとりあえず王城へ戻ろうと歩き出した。まだ少し時間があるので、休むのは諦めて昼食でも食べようかと思う。

 隣に並んだフリストが口を開いた。

「この調子で、私に警備主任が務まるのでしょうか」

「ルーシェは気分屋ですから、機嫌のいいときに行けば大丈夫でしょう。助かりますよ、私は用兵に関しては素人ですので」

「ディンファリ戦役の英雄が、ご謙遜を」

 思い出したくない地名を聞くのは今日二度目で、ノインは僅かに目をすがめた。

「英雄呼ばわりされる覚えはありません。人違いではありませんか」

「お気に障りましたのなら謝罪いたします。―――私は、あの戦で前線にいたんですよ」

 前線にと言われ、不意に記憶の中の人物と隣にいる人物が合致する。

「あ……中佐?」

 見上げて当時の階級を呟けば、フリストは嬉しそうに破顔した。

「覚えていてくださったんですね」

「ええ……、いえ、たった今まで忘れていました。すみません」

「いいえ、さきの戦ではろくにお話しする暇もありませんでしたから」

 当時とは風貌が随分と変わっている。ノインの記憶にある最前線の大隊長は、短い金髪と浅黒い肌をしていた。髪はともかく、肌は元々の色ではなく日焼けだったらしい。

 話の接ぎ穂を探していると、フリストの笑顔に微かに痛ましげな色が差す。

「いつ終わるとも知れない戦を、准将がやってきて一月足らずで収めてしまったときは、軍神が顕現したかと思いましたよ」

 大袈裟なとノインは顔を顰める。

 二年前、ディンファリ国の抵抗が思いの外激しく、戦況は泥沼化していたが、ノインが行かずともグランエスカの勝利は揺らがなかっただろう。ノインが臨場したのは終盤のみだ。それまでどれほど凄惨な戦いがあったのか、聞いた話でしか知らない。

「私は……、止めを刺しただけです。もう大勢は決まっていました」

「しかし、あなたがいらっしゃらなければ、終戦までもっとかかっていたでしょう。我々の部隊はきっと、全滅していた」

「……そんなことは」

 かぶりを振りながら、あれは己のために必要だったのだとノインは胸中で呟く。

 ノインが特例だらけで軍に入隊して一年も経たないうちに、人手不足を理由に戦場へ放り込まれた。おそらく、半分以上は当てつけだったのだろう。家の威光を笠に着て思い上がった若僧に、痛い目を見せてやろうと考えたのかも知れない。それで死んだらそこまでの人間だったということだ。

 だが、そんなことはノインにはどうでもよかった。生家の力で無理矢理に准将の地位を与えられたノインは、周囲を黙らせるために武功を挙げなければならならず、グランエスカ王国としては、長引いている戦を終わらせたかった。利害が一致しただけの話だ。結果として戦は終わり、ノインに対する風当たりは弱まった。賞賛されるようなことではない。

「あの場に私がいたことは忘れてください」

「ご命令とあらば忘れますが、事実は変わりませんよ。カルスルーエ准将」

 この様子では何を言っても無駄だなと、ノインは息をついた。別の話をすることにする。

「……私のことは名前で呼んで貰えませんか」

「ノイン准将とお呼びしてよろしいので?」

 意外そうに眉を上げるフリストへ、ノインは首肯を返す。

 八つで養子に出され、三年前に己の意に反して戻された実家カルスルーエの名には馴染みが薄い。ゆえに周囲の人々には、名前で呼ぶよう頼んでいる。

「わざわざ足を運んで貰ったのに申し訳ないのですが、この後軍議がありまして。終わってから具体的な話をしてもいいですか」

「ええ、私はの方は、今日は荷物の整理くらいしか仕事がありませんから。何時でもお待ちしていますよ」

「軍議が終わり次第、兵站部へ向かいますので」

「使いを寄越してくだされば私が参りますよ」

「それでは二度手間でしょう。使いを出すくらいなら私が出向いたほうが早い」

 言いながらノインはポケットから懐中時計を引っ張り出して現在時刻を確認した。一時からでは昼食を食べている時間もない。

「ノイン准将は甘い物がお好きなんですね」

「え? ……ああ」

 唐突に言われてなんのことかと思えば、フリストの視線は懐中時計を持っているノインの手に向いていた。時計と一緒にポケットに入っていたキャンディも掴み出していたらしい。

「特別好きというわけではありませんが。食べますか?」

「いいんですか? ありがとうございます」

「あ」

 フリストにキャンディをいくつか渡したのと同時にロズルが声を上げ、ノインは部下を振り返った。

「なんだ?」

「あの……、なんでもありません」

「ロズルも食べるか?」

「いえ! 私は結構です」

 間髪入れずに断られて、ノインは手を引っ込めた。目的地の方向が違うフリストと別れ、議場へ向かう。

(眠いわ、腹減るわ……)

 午後の自分は使い物にならないかも知れないと思いつつ、ノインはポケットに残っていたキャンディを口に放り込んだ。

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