二章 4-2
* * *
商談用の個室を借り、ノインはヘルギと向かい合っていた。
幸いエイリーヴに怪我はなく、ジズは気を失ってしまったので、エイリーヴはフレーグに、ジズはヘルギたちが連れてきた護衛にそれぞれ任せてある。
気を遣ってフレーグが出してくれたお茶は、手をつけられることなくテーブルの上で冷めかかっている。ヘルギは俯いたまま一切口をきかず、どうしたものかとノインは眼鏡を押し上げた。
顔を伏せているヘルギは、ノインの記憶にあるよりも随分と痩せてしまっている。
ヘルギと相対するのは、離縁することになって以来なので三年ぶりだ。その間に顔を合わせたことはあるものの、会話は儀礼的な挨拶のみだった。
憎くて別れたわけではない。しかし、やはり会うのは気まずく、また、会わねばならない用事もなかったので、避けるように過ごしてしまった。
(いや……、憎く思っていないのは俺だけか)
どんな事情があるにせよ、ノインが妻と息子を捨てたことに変わりはない。どうしようもなかったのだと言い聞かせ、ヘルギの気持ちを考えないようにしていただけだ。おそらく彼女は、ずっとノインを恨んでいたのだろう。
(無理もない……)
堪えきれず嘆息してしまい、ヘルギの肩が微かに揺れた。膝の上で握り合わされたか細い両手は、力を込められすぎて白くなってしまっている。
「……ごめんなさい。わたしのせいだわ」
か細い声に、ノインはかぶりを振る。
「ヘルギが謝る必要があるのか、俺にはわからない。……説明してくれないかな」
小さく頷き、ぽつりぽつりと、ヘルギは語り始めた。
「二月くらい前だったかしら……ラウグ伯爵夫人のサロンでのことよ。……不思議な人に会ったの」
そのときヘルギは、数日前に会った息子のことで頭が一杯だった。模擬戦で勝利し、教官に褒められて戦略科へ進むことを勧められたというエイリーヴは、口にこそ出さなかったものの、将来は軍人になりたいと―――父であるノインと同じ道を進みたいと考えているようだった。少なくとも、ヘルギにはそう見えた。
母親として息子を後押ししてやりたいが、ハイレン家は学者の家系だ。ノインの養父母でもあるヘルギの両親は、ノインを無理矢理カルスルーエ家に戻されたことに大層気落ちしており、反動のようにエイリーヴにとても期待している。エイリーヴが軍へ入りたいと言い出せば、反対するだろうし、ますます落ち込むに違いない。何より、ハイレンの家格では、エイリーヴが望むような地位にはきっと、相当な努力と運がないと届かない。
誰にも相談できずに一人で思い悩んでいるとき、その人物は声をかけてきた。
「何をそんなに悩んでいるのですか、って言われたわ。そんなに顔に出ていたかしらって、とても驚いた。だから、思わずどうしてわかったのか訊いてしまったの。そしたら……、その人はにっこり笑って、こう言ったのよ。奥様のお悩みに、きっと私がお役に立てます、って」
その言葉を聞いて、ノインは妙な寒気を感じた。ヘルギはゆるゆるとかぶりを振る。
「初対面で、その人の名前も知らないのに、どうして信用したのか……今でもわからないわ……」
ヘルギはその「誰か」と二人で会うようになった。そしてある日、連れられてきたのがジズだ。「誰か」は、エイリーヴのためにはノインが邪魔だ、邪魔なものは消してしまえばいいと言った。ノインがいなくなればカルスルーエ家直系の血を引く男子はエイリーヴだけになる。そうすればエイリーヴの夢も叶うだろう、と。
考えなくてもおかしいとわかる話なのに、ヘルギは何故か同意してしまった。そのときは、エイリーヴの夢を叶える方法はノインを消すしかないと思った。それ以外に考えられず―――そのことを疑問にすら思わず、「誰か」に言われるまま、「誰か」が連れてきた人形のような少年にノインの特徴と命令を吹き込んだ。
「あなたが……、その、死んだっていう報せはなかったから……悪い夢だったのだと思っていたの。わたくしが作りだした幻想だったのだと」
先程、表でジズを見たときのヘルギの反応が腑に落ちて、ノインは口元に手を遣った。夢や幻だと思っていたのなら、さぞ驚いたことだろう。
エイリーヴと会ったときからジズの様子はおかしかった。ヘルギが吹き込んだ「命令」がジズの中ではまだ生きていて、彼の中で、彼自身と「命令」、二つの意志の
「エルのことも手にかけてしまいかねないと、さっき初めて気付いたわ。……あなたとあの子は、そっくりだもの」
「そうかい? 色はともかく、顔立ちは君の方が似てると思うけれど」
「いいえ、あなたの方が似ているわ」
このままだと押し問答になってしまいそうなので、ノインは一度口を閉じた。
(俺が目標から外れた理由はなんだ……?)
赤い髪と金の瞳という、ノインとエイリーヴの外見的特徴はほぼ同じだ。エイリーヴに襲いかかったということは、大人という条件付けはなかったのだろう。眼鏡もそうだ。
「……まさか」
少し考え、ノインは思わず頭に手を遣った。
(髪の長さか!?)
エイリーヴは髪を伸ばし始めた。逆にノインは長かった髪を短く切った。まさかとは思うが、これくらいしか思いつかない。
「どうしたの?」
「え? いや、なんでもない」
ヘルギは傾けた首を元に戻すと、深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさい。謝って済むことではないけれど、わたくしがおかしな気を起こさなければ……あの人の誘いに乗らなければ……」
ノインは首を左右に振る。
「君の責任じゃない。元はといえば俺が、カルスルーエ家に戻ったからだ」
祖母の手から、ヘルギとエイリーヴを守る自信がなかった。二人を失うのは何よりも恐ろしい。悩んだ末に、楽な方へ流れた。これは、ノインの自業自得だ。自分がもっと強く在ったならと後悔は尽きない。
「ノイン……?」
不安げにヘルギに呼ばれ、黙ってしまっていたノインは気を取り直して尋ねた。
「名前は聞いていないんだっけ。そいつがどんな見た目だったか教えてくれないか」
頷き、ヘルギは話し始める。
「会うときはいつも黒い服で、髪は……」
記憶を探るように視線を上に向け、しばらく考えてヘルギは片手を額にあててかぶりを振った。
「何色だったかしら……。男……いえ、女……? ラウグ夫人のサロンで会ったのだから、女性のはず……年も……駄目、思い出せない……どうして?」
「焦らなくていいよ。ゆっくりでいい。なんでもいいから思い出せることを話して」
泣きそうな顔になるヘルギへ、ノインは努めて柔らかく聞こえるように言う。ヘルギは幼子のようにこくりと頷いた。
「……そうだわ、毎回同じお茶を出された。とても甘くて……、
お茶は覚えているのに、顔立ちや髪の色はおろか、性別すら曖昧なのはどういうわけかと首を捻るヘルギの傍ら、思い当たることがあってノインは口元に手を当てた。
(甘くて白粉……エバクリス草か?)
種子を燃やすと白粉のような匂いを出し、その煙を多く吸い込むと朦朧としたり、幻覚症状を引き起こしたりする、エバクリス草という植物がある。「誰か」はそれを使った可能性が高い。
(ヘルギに覚えられるのを警戒した? もしくは、考える力を奪うため……にしても、焚くんじゃなくて飲ませるなんて、危険なことを)
種子を煎じた液体も同じ効果を持つが、こちらは調合が難しく、量を間違うと一度で廃人になったり、悪ければ死んだりすることもある。今のヘルギを見る限り中毒になっている様子はないが、目的のために他人を顧みない「誰か」に腹が立つ。
エバクリス草の葉は無害だが種子は有害なので、収穫の段階で殆どは廃棄される。「誰か」は、種子を手に入れる
(しかも、伯爵夫人のサロンに潜り込めるような人物……女性か? それとも、そう誤解させるための偽装か)
ハールが、貧民街でジズが女と接触していたと言っていた。その女と同一人物の可能性が頭を過ぎるが、断定するのは早計だろう。相手がそれを狙っている可能性もある。
考え込んでいると、ヘルギが呟いた。
「軍の本部に出頭すればいいのかしら」
「うん? 何故だい?」
「わたくしは人を使ってノインを殺めようとしたわ。罪を償わなければ」
罪や償いなどという頭がなかったノインは、まじまじとヘルギを見てしまった。彼女は、何故そんな顔をするのかと言いたげに眉を顰める。何か返さなければと、ノインは考えたことをそのまま口に出した。
「……何の罪に問われるんだろう。騒乱罪?」
「騒乱? ……わたくしは、暗殺を企てたのよ?」
困ったように言うヘルギへ、ノインは笑みを向けた。
「俺はこのとおり生きてるし、怪我人は皆、
「それでも、わたくしがしたことはなくならないわ」
「話を聞いてると、ヘルギが企んだことじゃなく、その『誰か』が仕向けたように感じる。だから、そいつを捜してみるよ。それからどうするか考えてもいいんじゃないかな。―――傍から見れば、ただの元夫婦の
冗談めかして付け加えれば、俯きがちだったヘルギは顔を上げて泣き笑いのような表情を浮かべた。
「ごめんなさい……ありがとう」
「謝って貰うことでも、お礼を言われることでもないよ」
ノインは私情で事件をもみ消そうとしている。贖罪が必要なのはヘルギではなくノインだ。
俄に沈黙が落ち、ヘルギがぽつりと落とす。
「変わらないわね」
「何が?」
「あなたよ、ノイン。昔から、真面目で不器用でお人好し」
思いがけないことを言われて、ノインは目を瞬いた。
「そうかな……」
ヘルギは懐かしそうに眼を細める。ノインとヘルギはもう二十年以上の付き合いだ。彼女の方が三つ年上なので、ノインが忘れていてもヘルギは覚えていると言うことが何度もあった。きっと今も昔のことを思い出しているに違いないと、ノインは面映ゆいような複雑な気分になる。
もう少し話していたかったが、エイリーヴが気を揉んでいるかも知れないとノインは立ち上がった。
「エルは今日から夏休みなんだってね。今年もレナンディへ行くのかい?」
レナンディは北方にある、避暑地として有名な地域である。大抵の貴族はレナンディに避暑用の邸を持っており、ハイレン家もその例に漏れず別邸がある。
「ええ。あとは領地に顔を出す予定よ」
「そうか。気を付けて」
「ありがとう。……あなたも」
微笑むヘルギに頷き返し、ノインは扉に手をかけた。しかし、開く前に呼び止められる。
「ノイン」
振り返ると、ヘルギは驚いた顔をして両手で口元を押さえていた。呼ぶつもりはなかったのだろうかと思いながら、ノインはヘルギに向き直る。
「なんだい?」
「いいえ、なんでも……」
打ち消しかけて、ヘルギは思い直したように口を開いた。
「……手紙を書いてもいいかしら。手紙なら、あなたに届くわよね?」
申し出に驚いたが、ノインは首肯した。
「うん。王城の俺宛に送ってくれれば、ちゃんと届くよ。俺も返事を書くから」
嬉しそうに、少女のような笑みを浮かべるヘルギへ笑い返し、ノインは改めて扉を開いた。
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