三章 3-2

     *     *     *



「揃いました」

 報告を受け、ノインは立ち上がった。居並ぶ隊長たちの前に移動する。ノインが中央に立つと、一同は一斉に姿勢を正した。嘆息しそうになるのを堪えてノインは口を開く。

「作戦を説明する」

 伝令の手間を省くためと、なるべく間に人を挟まず直接伝えるために、大隊長格まで集まるように言ったので、天幕内は混み合っている。後方まで聞こえるようノインは声を張った。

「現在、フォールク軍は国境を挟んだ先、旧フィヨルム川対岸に展開している。我々はこれを迎撃する。こちらは専守防衛。どんなに好機に思えても、命令があるまで絶対に動くな」

 戸惑ったように兵士たちがざわめくが、ノインは構わず続けた。

「フィヨルム川はここ数日の雨でかなり増水している。おそらくフォールクは、我々を旧フィヨルム川跡に誘い込んで堤を切るつもりだ。だから決して動いてはいけない」

 ざわめきが大きくなる。ノインは注意を引くためにこつこつと軽く机を叩いた。

「静かに。堤には別働隊を派遣する。フォールク工兵がいなければよし、いれば排除の後合図の閃光弾が上がる。動くのはその後だ。―――以上。質問は」

 兵士たちは顔を見合わせながらも沈黙を守っている。ノインは一呼吸待ってから告げた。

「では散会。各部隊、待機を徹底させるように。勝手に動けば流されると心得よ」

 敬礼を残して隊長たちは天幕を出て行った。ノインは眼鏡を押し上げながら息をつく。

 読みが外れていたらと思うと胃が痛むが、考えまいとかぶりを振る。不安を反芻するよりも、次の手を考えた方がよほど建設的だ。

 こちらに被害が出ないうちに叩いてしまえるならそれが一番だというのがノインの考えだが、今回ばかりは手を出すわけには行かない。兵士たちの手前、フォールク工兵を排除したら仕掛けるような物言いをしたが、こちらが動くときは撤退だけだ。

 鬱々としていると、傍らに控えていたゼーギンが声をかけてきた。

「さすが、『あけ戦神いくさがみ』の異名をとるだけはありますな」

「その二つ名、覚えがないのでやめてもらえますか。ゼーギン中佐……っ!」

 振り返ろうとして不穏な気配を感じ、咄嗟に仰け反ると目の前を刃が通り過ぎた。切っ先がつるを引っかけて眼鏡が飛ぶ。

「な……」

 一瞬遅かったら、喉を掻き切られていただろう。ノインは体制を立て直しながら声を上げる。

「何をするんですか!」

「勘だけは良いようだ」

「中佐!」

 ゼーギンは要塞に残ったクラーテルがノインに付けて寄越した。ただの監視だと思っていたが、違ったらしい。

(隙を見て始末しろとでも言われたか、くそ!)

 天幕の中で剣は振り回せない。ゼーギンから距離を取りながら、ノインは腰の後ろの短剣を抜く。慈悲の刃と呼ばれる類のものだ。まさかこれを使うことになるとは思わなかった。

 回り込んでこようとするゼーギンへ机を蹴り飛ばす。どうにかして外に出なければならない。ここでは袋の鼠だ。

(いや、今仕掛けてくるということは、外に出たら囲まれるか?)

 繰り出されるゼーギンの短剣をなんとかさばきながらノインは後退する。すぐに背中が柱にあたった。振り下ろされる刃を弾き、身を沈めると横薙ぎにされたゼーギンの刃が柱に食い込む。その隙を狙ってノインは足払いをかけた。体勢を崩して片膝と片手をついたゼーギンはしかし、それを利用して四つん這いの獣のように体当たりしてくる。

「っ!」

 倒れ込んだノインは堪らず声を上げた。

「誰か! いないのか! 警備は!」

「黙れ!」

 起き上がったゼーギンがノインの喉目がけて振り下ろした刃を、すんでの所で受け止める。押し合いになり、ノインは食いしばった歯の間から押し出すように言う。

「やめろ……中佐……」

「この戦の手柄はクラーテル大佐のものになるべきです。あなたのような青二才が横取りしていいものではない」

「手柄なぞ……くれてやる……私は、戦争を……起こしたくない、だけ……」

「それもいけませんな。スヴァルト中将は開戦をお望みだ」

「ふざけ……っ」

 体重をかけられ、刃が喉元に迫る。下から押し返すのはもう無理だ。

 多少の傷を覚悟して切っ先を逸らすしかないかと考えたとき、天幕の戸布が巻き上がった。

「失礼いたします、准将―――これは、一体……!?」

 入ってきた兵士が目を見開き、ゼーギンが一瞬だけ振り返る。

「丁度いい、貴様。私が押さえているで、准将をれ」

「や、やれ、とは……」

「殺せ! 早く!」

 ゼーギンに怒鳴りつけられ、兵士は混乱している様子ながらも剣に手を伸ばした。このままでは殺されてしまうと、ノインは声を絞る。ぷつりと、刃先が喉の皮膚に刺さる感触がある。

「私を、殺せば……フォールク国と戦争になるぞ……」

「いい加減くどいぞ、准将!」

「止める人間が、いなくなる……また、長い、戦に……」

「聞くな、戯言だ。フォールクとの開戦こそ望むところ。早く殺れ!」

 兵士は意を決したように唇を引き結び、剣を抜いた。近付いてきて、振り上げる。

(くそ……こんなところで……!)

 ノインは思わず強く目を閉じた。

「がっ……」

 しかし覚悟していた衝撃はこず、ゼーギンの呻き声が聞こえた。不意に短剣にかかる負荷がなくなる。

「……?」

 目を開けると、剣を納めた兵士が、気絶したらしいゼーギンを横に転がすところだった。

「お怪我はありませんか、カルスルーエ准将」

「……すまない。助かった」

 ノインは起き上がって呼吸を整える。全力で握り締めていたせいで、短剣の柄から指を放すのに苦労した。

「けれど、いいのか? 君はクラーテル麾下だろう」

「……私は、戦を望みません。先の終戦からようやく二年なのに、また戦争をするなど正気ではありません。大佐ならきっとそう仰るはずです」

 この「大佐」は、クラーテルのことではないだろう。合点がいって、ノインはひざまずく兵士を見上げた。

「そうか……、君はフリスト大佐の頃からの」

「はい。今ヴェンド要塞にいる部隊の大半はそうです。准将のことは、フリスト大佐から伺っております。我々は准将に従います」

 フリストは兵站部へ左遷されても、かつても部下たちと連絡を取り合っていたらしい。ゼーギンもクラーテルも、下士官や兵士の大半が非戦派だとわかっていたから、誰かを使わずゼーギン自らノインを殺しにきたのかも知れない。主戦派で占められているのは将校だけのようだ。

「よかった。全員が主戦派だったらどうしようかと思っていたところだ」

 これならきっとなんとかなる、戦は回避できると、ノインは明るい兆しを見たような気がした。無論、すべてはこれからの動きにかかっている。フォールク軍は依然、川跡の対岸に展開している。

「君、名前は?」

「は、エルステッド・ラウンデル曹長です」

「ラウンデル曹長。ゼーギンのことについて、責任は私が取る。君に不利なことが起こらないようにするから安心して欲しい」

 ラウンデルは意外そうに瞠目し、すぐに頭を下げた。

「お心遣い痛み入ります」

「命を救って貰ったんだから当然だ。ついでと言ってはなんだが、別働隊を呼んでくれるか。隊長はどこにいる?」

「私が隊長です」

 言われてノインは目を瞬いた。

「ああ、それでさっき入ってきたのか」

「はい。些か時間がかかっているようでしたので、僭越せんえつながら」

 ということは、天幕周辺に人はいなかったらしい。ゼーギンがノインを始末するのに、物音を聞かれるのを嫌って人払いをしたのだろう。

「じゃあ、別働隊をここへ。全員だ」

「承りました。……あの」

「うん?」

「よろしければ、お使いください。左目の下と、喉に血が」

 ラウンデルが示した場所に思わず手を遣ると、指先に赤いものがついた。

「ありがとう」

 差し出された手巾をノインが受け取ると、ラウンデルは一礼して天幕を出て行った。

 手巾で傷を押さえ、出血が止まっていることを確認して、ノインは立ち上がる。飛ばされた眼鏡は天幕の隅に転がっていた。幸い、傷がついているくらいで壊れてはいない。眼鏡がないと何も見えなくなるほどではないが、眼を細めるせいで人相が悪くなるし、細かい字は鼻先くらいまで近付けないと読めない。

(さて、どうするか……)

 ゼーギンは気を失っているだけで、死んではいない。目を覚ますと面倒そうなので、とりあえずゼーギンの装備を使って動けないよう拘束した。猿轡さるぐつわを噛ませ、この戦闘が終わるまではここで大人しくして貰うことにする。

 頭を切り換えて机を元に戻し、散らばった地図や書類を拾い集める。改めて地図を見下ろし、息をつく。

(フォールク軍が堤を切るだろうと考えたが……こちらが読むことを読まれていたら……しかし、敢えて今の時期に仕掛けてくるというのは、水を利用するとしか……)

 考えまい、とノインは重ねてかぶりを振った。

 エルステッド率いる別働隊が天幕の中へ入ってくる。ノインは眼鏡を押し上げながら顔を上げた。東部国境守備軍の顔ぶれを把握していないノインは、人選をクラーテルに頼んだ。工兵を含む四十人弱の部隊になったと聞いている。

 口を開きかけるラウンデルを制し、ノインは告げる。

「ラウンデル曹長」

「なんでしょうか」

「今、部隊を二つに分けてくれ。便宜上、一班と二班とする」

「はい」

 返事をすると、ラウンデルは速やかに部隊を二つに分けた。それを待ってノインは地図を示し、説明を始めた。

「敵軍はこの辺りに展開している。我が軍は旧フィヨルム川を挟んで対岸に。十中八九、フォールクは堤を切ろうとしている。我が軍を旧フィヨルム川跡に誘い込んでからな」

 兵士たちは一様に息を飲んで目を見張った。気遣っている余裕はないのでノインは続ける。

「まず一班。君たちにはそれを止めた上で、堤を切って欲しい。切られると思われる場所はここ。直ちに向かい、フォールク兵を排除か、できれば捕らえた後、すぐさま堤を切れ。敵兵がいなければそのまま周囲を警戒しつつ、堤を切れ。切れる直前に閃光弾で合図を。以上、質問は」

 ラウンデルがおそるおそるというふうに片手を挙げた。

「あの……」

「なんだ」

「堤を切れと仰いましたか」

「そうだ。堤を切って、旧フィヨルム川へ水を流す。さすれば相手も攻めてはこられまい。旧フィヨルム川沿いには、しばらく集落はない。短い間水が流れても問題ない。終わった後、堤は直ちに修復する。雨期が終わるまでに直せばフィヨルム川下流への影響も少ない。その上今は増水しているし、少し放流した方が下流の堤が切れることもないだろう」

 一度言葉を切り、ノインは別働隊を見回した。

「他に質問は」

 手を挙げる者はいない。

「では一班は作戦行動に移れ。―――兵の練度も数もこちらが上だ、君たちが負けることはまずない。君たちに開戦に至るか否かがかかっている。頼んだぞ」

『はっ!』

 一班が天幕を出て行き、ノインは一つ息をついた。迷いは消えない。しかし、迷っていることを味方に悟られてはいけない。指揮官の迷いは士気の低下に関わる。

「次、二班。麻袋はあるな?」

 別働隊にはヴェンド要塞を出る前に、麻袋を集めておけと言い渡していた。二班の班長が首肯する。

「はい、仰せのとおりに」

「よろしい。君たちの作戦目標はここ」

 言いながらノインは地図で該当の場所を示した。一班が切る予定の堤よりもやや手前側である。

「土は現地調達。土嚢を作って川に沈めろ」

 戸惑ったように兵士たちがざわめく。一人が困惑した様子で口を開いた。

「川に、沈める……のですか」

「そうだ。堰き止めるには足りないだろうが、流れを遮るだけでいい。一班が堤を切った後、そちらに多く水が流れるように。堤にフォールク兵がいて、一班が劣勢ならそちらの援護を優先。以上、何か質問は」

 動きはなく、ノインは一つ頷く。

「では作戦開始。危険な任務だが心して当たって欲しい。君たちの援護があれば一班が動きやすくなる。よろしく頼む」

『はっ!』

 二班も天幕を出て行った。一人残されたノインは大きくため息をつく。

(戦をさせないために戦をする……矛盾していると言ったのは俺なのに)

 フリストのことを非難できないではないかと、苦々しく思う。だが、開戦させないためにはここで衝突するのだけはなんとしても避けねばならない。国境である旧フィヨルム川が水で満たされれば、しばらくの間は双方とも攻め込むことはできなくなるだろう。

(俺なら正規兵は使わない……金で雇った人間を行かせる)

 そもそもこんな策は使わないということは、ひとまず棚上げして、ノインは自分が今のフォールク軍にいたらと仮定して考える。

 もしフォールク軍の作戦が成って、首尾良くグランエスカ軍を押し流せたとて、フォールク軍が故意に堤を切ったとなれば非難が集中するだろう。ならば最初から兵士ではなく適当に集めた者を使い、賊がやったことだと言い張ればいい。無論、人夫の口は封じる。こちらとしても、兵士を相手取るよりやりやすい。そこまで考えて、ノインはがしがしと頭を掻いた。

(なんで仕掛けてきたんだ、しかも昼間に正々堂々と。夜襲でもかけた方がよほどいいだろうに)

 フォールクが講じたのも、ノインの対抗策も、どちらも下策だ。今後しばらくフォールクが攻めてこられないように、またこちらからも攻め込めないようにと考えて、今はこれしか浮かばなかった。もっと自分の頭が切れれば、堤を切るなどという手段を執らなくても戦闘を回避できるだろうにと自己嫌悪に陥りそうになる。

 このまま一人でいると落ち込むばかりだ。少し外の空気を吸おうと、天幕の出入り口に垂らされている布を捲ろうとしたところで、急に外が騒がしくなった。

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