二章 1-2

    *     *     *


「……い。……おい、起きろ」

 容赦なく揺さぶられて、ノインは唸った。うつ伏せに寝ている肩を何者かの手が掴み、揺すっている。

「んん……あと二時間……」

「長いわ。起きろって」

「―――…」

 声にならない呻きを漏らし、ノインは上着のポケットから自作のキャンディを取り出した。肩を掴んでいる相手の手を外し、幾つか握らせてやる。

「あげるから……あと三時間……」

「さりげなく増やすな。収賄を持ちかけられたって憲兵に言うぞ。起きろってば」

「ううううう……」

 ジズは諦めてくれそうになく、仕方なくノインは起きることにした。両腕を使ってなんとか上体を起こす。

「眼鏡……」

「頭。あんたの」

 言いながらジズが額の上あたりを指さし、ノインはそこへ手をやった。指先が斜めになっている眼鏡に触れて、正しい位置に戻す。はっきり見えるようになった少年は、呆れたような気の毒そうな顔をしていた。

「せめて眼鏡くらい外して寝ろよ」

 返す言葉もなく苦笑し、両足を寝台から下ろすと、直接床が触れた。睡魔に負けて上着を脱ぐことすらせず寝台に倒れ込んだことはぼんやりと覚えている。靴だけは辛うじて脱いだらしい。

「今……、何時だい?」

「九時半くらい。本当に寝起き悪いのな、あんた」

 寝起きが悪い自覚はあるが、いつもこうだと思われたくないと、ノインはぼそぼそと言い訳をする。

「……ここに帰ってきたの、今日の明け方でね」

「なんで?」

「実家に戻ったら監禁されそうになって……」

「はあ?」

 わけがわからないというような顔をするジズを見上げ、ノインは苦笑した。昨夜、カルスルーエ邸の全敷地を使っての全力鬼ごっこの結果、ノインが脱出に成功したのは夜もかなり更けた頃で、辻馬車も拾えず城まで結構な距離を歩いて帰ってきたのだ。

 途中で宿を取ろうか迷ったが、宿を襲撃されたら迷惑をかけるので諦めた。すべてを金で解決できると信じている祖母は、町中の宿だろうとノインを捕まえるためなら絶対にやる。

 靴を履いて立ち上がると、ジズは迷うように瞳を揺らしてから躊躇いがちに言う。

「あの……」

「うん?」

「この服、あんたがって……アレクシアさんから聞いた」

「ああ」

 言われて見れば、ジズは白いドレスシャツに黒いベストとズボン、暗い茶色の革靴を履いていた。ジズの部屋に書き置きと共に衣装鞄をそのまま置いてきたのだが、アレクシアが気付いてジズに着せてくれたのだろう。

「兄のお下がりで悪いけど」

「ううん……、ありがと」

 照れくさそうに言うジズの頭を思わず撫でてしまい、ノインは手を引っ込めた。ジズは不思議そうにきょとんとしている。

「頭に何かついてた?」

「いいや。―――どういたしまして。傷が全快したら、町に服を作りに行こうか」

「なんで? これで十分だ」

「大きさが合わないと動きづらくないかい」

「小さいならそうだけど、余裕があるから大丈夫だよ」

 左肩を回して見せながら、ジズは首をかたむけた。

「それよりあんた、なんでこんなところで寝てるんだ? 准将って偉いんじゃないのか」

「ん?」

 本当に不思議そうに言われて、ノインもジズを見下ろす。この離宮に出入りする者たちは、すっかりノインの「巣」に慣れてしまっていて、今更尋ねられることはない。

 さてどう説明したものかと、ノインは考え込んだ。

 離宮の奥、ルーシェや侍女たちも滅多に通らない回廊の隅を衝立で仕切り、寝台代わりの長椅子と書き物机を運び込んで、しばらく前からノインは殆どここで寝泊まりしている。

 ノインが「巣」を作ったのは、兵舎に招かざる客―――祖母から送り込まれた女性が現れたからである。

 見合を片っ端から断り、無視し続けているうちに、ヒュンドラはとんでもない実力行使に出てきた。部外者立ち入り禁止の兵舎に女性を送り込むなど、一体どういう手を使ったのか未だにわからない。祖母に放り込まれただけの女性のことを考えると騒ぎ立てるわけにもいかず、結局手引きした人間はわからずじまいだ。

 二度目があってはならないと兵舎から逃げ出したノインは、ここに「巣」を作るまで兵舎の空き部屋や王城の各所を転々としていた。幸いなことに、今のところ「巣」まで夜這いにくる強者はいない。

(……ってのを、子供に聞かせるわけにいかないしなあ)

 随分迷ってからノインは、誤魔化すことにした。

「ええと……いろいろあって」

 極めて曖昧に応えると、困っているのを察したらしいジズが、まあいいやと苦笑した。ノインは問い返す。

「それで、なんの用だい?」

「ロズルさんに、起こしてくれって頼まれた。演習の予算の資料? が欲しいって」

 起きられるようになった半月で、ノインに近しい人間とジズとは顔見知りになっている。ノインの寝起きが悪いのを知っているロズルは、ジズに起こすよう頼んだのだろう。歩けるようになったばかりの子供を使うなんてと、ノインは胸中で顔を顰めた。後でロズルに言っておかねばならない。

「予算関係の資料は持ち出してないはずだけど……演習って、なんの演習だろう」

「さあ……おれは演習としか聞いてない」

 書き物机を探してみるが、やはりそれらしき資料は見つからなかった。重ねられている紙を捲っていると、背後からジズが言う。

「あと、伝言。王城正門付近で赤星を見た、だって。こう言えばわかるって言われた」

 資料を捲る手を止め、ノインはジズを振り返った。

「わかった、ありがとう。ロズルには、俺の机を漁っていいと伝えてくれ」

「え? あ、ノイン!」

 目を丸くするジズを置いて、ノインは王城へ向かって走る。離宮内を全力疾走しているのをアレクシアに見つかれば小言を言われるだろうが、構ってはいられない。「赤星」は、ノインを探して王城深くまで潜り込んでしまい、騒ぎになりかけた過去がある。

 王城の表、政庁として機能している部分は外部の人間でも入れる。ノインは首を巡らせ、様々な目的の人々で混雑している中に目的の姿を探した。

「父様!」

 覚えのある声に振り返る前に、後ろから抱きつかれた。肩越しに振り返れば、ノインと同じ髪の色をした少年がぱっと顔を上げて笑う。

「お久しぶりです、父様」

「久しぶり、エイリーヴ」

 ノインの腰のあたりに抱きついたエイリーヴが腕を解き、身体ごと向き直ったノインはしばらくぶりに会う息子を改めて抱き締めた。

「よくきたね。元気だったかい?」

「はい、とても。父様もお変わりありませんか?」

 身体を離し、背伸びした口調で尋ねるエイリーヴにノインは相好を崩す。

「ああ、父様も元気だよ。―――髪が伸びたね」

 エイリーヴの髪は肩に触れるくらいにまでなっていて、会えなかった時間を物語るようでノインは少し切ない。

 はにかむような笑みでエイリーヴが言う。

「母様には、父様の御髪おぐしと同じで、遠くからでもすぐわかると言われるんですけど……長い方が、もっと見付けやすいかと思って……」

 見付けやすいというのは、ノインがということだろう。同じ、というところを噛みしめるように言うのを感じ、ノインは面映ゆくも嬉しくなりながら息子の頭を撫でた。

「父様はお切りになったのですね」

「ああ、これかい? 少し前にうっかり毛先を焦がしてしまってね。もう一度伸ばそうかな。エルみたいに」

 冗談めかして言えば、エイリーヴは嬉しそうに笑んだ。

 廊下の真ん中で立ち止まっていては邪魔になるので、壁の方へ移動し、足を止めたエイリーヴは姿勢を正した。そして、折り目正しく一礼する。

「父様、誕生日の贈り物、ありがとうございました。万年筆、とても欲しかったんです。一生大切にします」

「一生だなんて大袈裟だな。使い潰していいんだよ、そのために贈ったのだから。駄目になったらまた贈らせてくれ」

「ありがとうございます。本当は、すぐにお礼を言いにきたかったんですけど……」

「そんなことは気にしないで。父様は、エルが会いにきくれただけで嬉しいよ」

 悲しげに俯く息子の頬に手を添え、やんわりと顔を上げさせた。エイリーヴは王立学院で寮生活をしており、原則として休日でなければ外出許可が出ないことはノインも知っている。学院は王都にあるとはいえ、王城からはかなり距離がある。この時間にここにいるということは、朝一番に出てきてくれたのだと思うと、胸苦しいほどの愛しさを感じる。

「それに、父様も同じだよ。本当は当日に言いたかった。―――誕生日おめでとう、エル。君が生まれてきてくれたことに感謝を」

「ありがとうございます、父様」

「どういたしまして。学院は楽しいかい? 何か困ったことはない?」

「楽しいです。この間、士官候補生と一般性が組んで、何班かに分かれての模擬戦があったんですけど、僕たちの班が勝ち残って、教官に褒められました。指揮官に向いているって」

「模擬戦か、懐かしいな。よくやったね、父様も鼻が高いよ」

 照れくさそうに、しかし嬉しそうな笑みを見せたエイリーヴは、微かに顔を曇らせた。

「その教官から、高等部は戦術・戦略科にこないかと言われて……」

 エイリーヴは十一歳になったばかりで、高等部に上がるのにはまだ四年ある。指導教官はよほどエイリーヴを買ってくれているのだろう。

 エイリーヴを嫡子とするハイレン家は学者の家系だ。ノインも、カルスルーエ家に連れ戻されるまでは王宮付きの学者をしていたし、エイリーヴも学者になることを望まれている。

 ノインとしても息子を軍人にはしたくないのだが、本人の意思も尊重したい。まだ時間はあるのだから焦ることはないと、ノインは目線を合わせるために腰を屈めた。

「エルはどうしたいんだい?」

「僕は……まだ、わかりません」

「うん。急ぐことはない、ゆっくり考えて決めなさい。エルが決めたことなら、なんだって父様は応援するから」

「……はい!」

 エイリーヴは嬉しそうな笑みを浮かべて大きく頷いた。ノインも笑みを返し、息子の頭をくしゃくしゃと撫でる。そこでノインは、いつの間にかエイリーヴの背後に控えるように立っていた護衛に気が付いた。ノインが気付いたことが相手にもわかったようで、顔見知りの護衛はノインへ向かって丁寧に頭を下げる。

「失礼いたします、ノイン様。―――坊ちゃま、そろそろ」

 振り向いたエイリーヴは、残念そうに眉を下げた。無理を言って護衛を困らせる前にと、ノインは彼に問う。

「今日は、これから?」

「母様とお買い物をご一緒します」

「それはいいね。母様も楽しみにしていることだろう。楽しんでおいで。母様によろしく」

「お伝えします。―――…」

 頷いて、エイリーヴは迷うように双眸を揺らした。しかし何も言わないので、ノインは首をかしげながら尋ねた。

「何か気にかかることでもあるのかい?」

「あ……その」

「母様かな?」

 言い淀むエイリーヴへ、母の話題が出たときに表情を変えたので彼女のことかと思って問えば、エイリーヴは躊躇いがちに話し始めた。

「はい……少し前から、なんだかご様子がおかしいんです。ずっと考え込んでいたかと思えばたくさんため息をついたり、何度か呼ばないと気付かなかったり」

「そうか……具合が悪いのかな。少しというのは、どれくらい?」

「一月と半分くらい前です。どこかお悪いのか訊いてみましたが、大丈夫だと仰るばかりで……」

 俯くエイリーヴの細い肩に手を添え、ノインは眉を寄せた。エイリーヴの母親であり、ノインの妻だった女性―――ヘルギは、一人息子をとても可愛がっている。身体が丈夫ではないが、体調が優れなくともエイリーヴには心配させまいと気丈に振る舞う女性なので、今は周囲への気遣いが疎かになるほど大きな悩み事を抱えているのかも知れない。

「心配なのはわかるけれど、エルまで悲しい顔をしていては、母様はもっと悲しくなってしまうかも知れないよ」

 エイリーヴははっとしたようにノインを見上げた。ノインは息子を安心させるよう笑んで続ける。

「母様はきっと大丈夫。エルが笑っていてくれれば、心も軽くなるさ」

「そうでしょうか……」

「うん。母様はエルが大好きなのだからね。勿論、父様も」

「はい。僕も、父様と母様が大好きです」

「ありがとう。でも、エルが無理をすることはないからね。辛かったり悲しかったり、何かあったら……いいや、何もなくとも、父様のところへおいで。エルが顔を見せてくれるのが、父様は何よりも嬉しいのだからね」

「……またきてもいいですか?」

 エイリーヴは別れ際、必ずまたきてもいいかと尋ねる。ノインからエイリーヴに会いに行くことはできない。年端もいかぬ息子に寂しく心細い思いをさせてしまっていることを心苦しく思いながら、ノインは笑んで首肯した。

「勿論だ。待っているよ、いつでも」

 安堵したように表情を緩める息子をもう一度抱き締め、ノインは彼らを見送った。

(……戻るか)

 息をつき、ノインは執務室へ行くべく踵を返した。歩きながら、ロズルが目的の資料を探すために、机を文字通りひっくり返していないよう祈る。

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