第2話 東熊山の富嶽 其の一
小枝を踏み折る音で目が覚めた。女性の悲鳴も聞こえた。
木剣を用いた型稽古の後、鬼桜の呼称を持つ大桜の上で一休みするつもりが、いつの間にかウトウトしてしまっていたようだ。
片山富嶽は、首を伸ばして声のした方角を凝視する。
富嶽は猛禽類並の視力を持つ。
視神経を集中させれば7キロ先まで見通すことができた。
東熊山の桜も盛りを過ぎ、葉桜を透かして、数人の若者たちが女性を押さえつけているのが見て取れた。
(
女性的な感性に乏しいゆえか、しばしば同性から冷たいとなじられることの多い富嶽であるが、人助けをするのは好きなのだ。
山に迷い込んできた自殺志願者や
まして現在襲われている女性は、悪夢から引き戻してくれた恩もある。
欠伸してから飛び降りると、花屑が舞い上がった。
枝が密生した木立の中へ分け入っていくのに葉擦れの音さえしない不思議な歩行術を富嶽は心得ていた。あっという間にならず者の宴の現場へ到着する。
「あーもしもし? ありがたい観音さまのお話を一講いかが?」
振り向いた男の顎を撫で上げると梢より高く飛んだ。
他の連中が悲鳴を飲み込み後ずさる。それぐらいお楽しみに水をさした粗忽者は、異様にして偉容であった。
白い着物に濃紺の袴の道着姿で、背丈は優に二メートルを超え、肩幅もがっちり広い。場所が場所だけに山の擬人化のような恰幅の良さだ。
ここまで大柄で野生の気に満ちた女には初めてお目にかかる。加えてアッパー効果は絶大で、数に頼んでも勝算なしと判断するや男たちは逃げ散った。
「霊山を侮辱した責任は取ってもらいますよ」
男たちは全部で六人。長躯の乙女はきわめて冷静に、農家の庭先で鶏でも追う要領で順番に捕まえ、首をひねって失神させる。
念入りに片方の足首を蔓草で縛って宙吊りにしておいてから、泣き伏す被害者に優しい声音を心がけて言葉をかけた。
「もう安心ですよ。この人たちには警察が来るまでミノムシの真似をしていてもらいましょう。お怪我はありませんかな?」
「うう……うわああっ!」
よほど怖かったのか、襲われていた女性は救世主の胸へ飛び込んでゆく。
しかし、片手で突き飛ばされた。帽子が脱げて長い髪が乱れ落ちる。
「ひ、ひどい……」
涙をぬぐいながらの抗議を富嶽は一笑に付した。
「女同士で抱き合う趣味はないもので。第一――」
自分の腹部に突き立った刃物を指さし、
「命と貞操の恩人を刺殺しようとする人とはなおさらです。ねえ、奥方様の“試し切り”から逃げた湖南道場の
正体を見破られた悪遮羅流門下の
まともにぶつかっては勝ち目は薄いからと後輩のゴロツキどもに小遣いを与えてまで一芝居うったのだ。着衣の下に忍ばせた短剣はよく研いであり、刺すタイミングも完璧だったはずだ。
「かなりの演技派ですが下準備が足りない。変装は帽子ひとつ、男どもの服装も登山客にしては適当過ぎます。もしかして利用されていたのは彼らか? 不慣れな女子登山家と山中ばったり出会い、ふと悪心を起こし、親切を装い道案内をしてあげるからと申し出て、藪の中へ連れ込み乱暴に及ぶが、そこを偶然目撃されるという筋書きで……」
腹の刃物を引き抜くと、マッチ棒みたいに折って捨てる。
刺さっていた箇所には衣類に血が滲んですらいない。
「私をおびき出すには成功したが肝心の場面で地金が出た。初対面の人はね、助けてくれたことを感謝する以前に、私の図体にぎょっとするもんですよ。あなたは私のような大女が山中にいると知っていたかのようだ」
「姫に向かって講釈たれるな!」
「背中は隙だらけよ雌ゴリラ!」
解説の途中、背後の茂みからふたつの影が躍り出た。
「ご丁寧に伏兵も潜ませて」
顔半分を布で隠した二人の少女が、小刀を突き立てんと襲いかかるが、富嶽は背を向けたままで裏拳で迎撃する。
「
腹を打たれて悶絶する二人の名を叫び、栄姫は懐に手を入れる。
八方に棘が生えた暗器が、富嶽の広い眉間に当たって跳ね返った。
「しかも武器を持ちなれている」
「あんた……化け物?」
「ここ最近、違うと言い切る自信がなくなってきました」
必中のマキビシすら通用せず逃走を決めた時、女は間合いを詰められていた。
「さて、どちらの差し金かな? 察しはついていますが」
すでに二十ほどの人数が、散開しながら包囲を縮めつつあることは把握ずみだ。
「どうして、そんなに変わってしまわれたんですか初さん?」
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