第17話 山姫と桜の精 其の六

 大桜を庭に擁する和風の山荘は、浣心軒かんしんけんという号を持つ。

 昭和の初め頃、大里逗家が野趣を満喫しながら茶の湯を楽しむ目的で建てたものだが、現在は立地的不便から、東熊山の山頂で神事が催される際の中継地点ぐらいにしか用途がなくなっていたところを、富嶽が勝手ながらも占有させてもらい、公然たる秘密の隠れ家と化していた。


 竹の垣根をくぐって玄関を入ると、土間と地続きになった台所があり、その向こうには壁で隔てられて風呂と手洗いがある。

 部屋は六つに分けられ、寝起きのための六畳間が三つ。縁側に面した茶会用の大座敷は、普段は襖で三つに仕切られていた。

 忠太が通された六畳の茶の間では、長火鉢の上で二つの五徳が並び、薬缶が湯気を立てている。もう一つの五徳に金網を乗せて、貰い物の草餅を焼くことにした。


 忠太に座布団をすすめると、少年はかしこまって手を着いた。

 「改めて……先日の無礼、お許しください」

 「もうよしてくださいよ。そんなに怖かったですか? ならば慎みます」

 「怖いというよりも理解を超えていました。若先生は本物の超人なのだなと」

 「できれば若先生もよしてください。照れますので」

 「免許皆伝の方なら立派な先生です」

 「もっと人を幸福へ導く仕事をして、初めて先生と呼ばれる資格ができるのです。私は強いだけで争いの種にしかなっていませんからね」


 「若先生が、他流試合で勝ったときなどは、皆様が大喜びだったとお聞きしていますが」

 「喜ばせるのと幸せにするのとでは違います」

 草餅がいい具合に焼けてきたので一つ取ってやる。他人の不幸で喜んでも幸福だろうか。笑っていても心が穢れるだけではないか。


 大女おとめの気持ちを察したか、忠太は遠慮がちに聞いてきた。

 「初お嬢様と仲直りできないのでしょうか」

 「仲直りしたいですよ。きっと初さんだって本心では、そう思ってくれていると信じています。しかし、折れぬ一線というものがあるのです」

 「申しわけございません。私などが立ち入れる問題ではありませんでした」


 少年はひどく思いつめたように見える。富嶽は気になった。

 「昨日初めてあなたをお見かけしましたが、一体どういう経緯で初さんの側仕えになったのですか?」

 人員に余裕があるなら、この子を自分に回してほしいという思惑が生まれた。


 「旦那様のご親族が経営している孤児院育ちなんです。五一とは同じ日に赤ちゃんポストに入れられて以来の仲で、本家のご厚意で義務教育だけは受けておけと、初お嬢様の小姓役という名目で学校にも行かせていただいております」

 「軽業も本家の命令ですか」

 「お嬢様の警護のために大里逗家の祭事に出入りする雑技団で修行しました」

 「お若くして苦労なさっているんですね……」


 赤ちゃんポスト? 孤児院育ち? 雑技団で修業?

 不運な星の生まれを象徴する言葉ばかりではないか。

 片岡安珠に叩かれていたような出来事が彼の人生ノートの大半を埋め尽くしているであろうことは想像に難くない。

 (そうだ、まずは彼を幸せにするために悪遮羅の力を使おう)

 膠着状態だった生活が、忠太の登場により、俄然やる気が湧いてきた。


 一柳の里を出て向かう当ては一応あるにはある。

 旅先の父から届いた手紙にはこうあった。富嶽のような規格外の体力を持つ女生徒を集めた仏教系のスクールが存在すると知ったので、おまえさえその気なら入学できるよう手配しておこうと。


 忠太が了承してくれれば、この山で静かに暮らすのも悪くはないと思う。

 山荘は元の作りがしっかりしている上に富嶽の手入れのおかげで十分居住に耐える。庭には井戸もある。畑もある。

 数百年活動を停止しているものの、東熊山は火山なので風呂に温泉を引くこともできる。

 富嶽を山の守り神のように慕う町民たちが、神饌と称して色々な物資を差し入れてくれるので生活に不自由は感じない。

 しかし、山奥で隠遁生活をするには二人とも若すぎる。もっと世間を知りたい、学びたい。外の世界で教育を受ければ、自ずと向かうべき道も開けるだろう。


 「ところで若先生」

 「なんでしょう」

 「座布団の覆いに仁と書かれてあったとお見受けしたのですが……もしかして亀毛先生ですか?」

 「や、三教指帰を読まれましたか。実践できているのは形ばかりに尽きますが」

 「では、お布団には礼と刺繍でもされているのですか?」

 「生憎と枕に義とマジックで書いたのみです」


 自分に冗談を言ってくれた! 

 どこかぎこちなかった少年の緊張が緩んだのを肌で感じ、富嶽は嬉しくなった。ひと思いに臥所へ連れ込みたい衝動に駆られたが、今はじっと我慢だ。


 「忠太くん」

 ごく自然に青い瞳を見据えて言えた。

 「はい」

 「明日の晩、私に同行してもらえませんか」

 「喜んで」

 ほころぶ花の快諾に、腰骨がとろけそうな思いをしながら富嶽は誓った。

 必ず試練を果たし、彼を連れて都会へ出る。

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