第31話 ステュムパリデスの怪鳥

 翌日の正午、片山富嶽は湖北の置塩家を訪れた。

 “猪”の妻城頼廣と“鹿”の桜井能監を撃破、残る四山は南北の“蝶”だが、南の蝶たる射水栄姫は本人と取り巻き以外は誰もが認める小人物、北の蝶・置塩晶美おじおてるみとの対決こそが事実上の最後の難関と言ってもよい。


 「ここが北の胡蝶神社なのですか?」

 流れ屋根の棟門の前で忠太が聞く。

 「お社はご自宅の庭にあるんですよ。まあ、本家と同じですね」

 程よく退色した和風家屋は白塀に囲まれ、扉との間の格子板が覆う左右の空間には、随身像が安置されているのが見える。一風変わっているのは、随身が矢を背負った束帯の武官姿ではなく、深紅の鎧武者である点だ。

 「あの鎧は昔、大里逗家の当主から下賜された品だそうです」

 「立派な賜り物ですね。では、あの黒い木は……?」


 置塩邸が見えてきた時点から気になっていたものがあった。

 塀越しに見える庭木の中で、取り分け目を引く常盤木らしき大樹、その生い茂る若葉の一枚一枚が真っ黒なのだ。

 自然の御業みわざにしては酔狂に過ぎ、かといって家人が黒く塗ったとすれば狂気の沙汰もいいところだ。

 「からすの大群でもとまっているのでしょうか」

 「すぐわかりますよ。置塩さーん!」

 富嶽は大声で自分の到着したことを奥へ向かって告げた。


 「お待ちしていました」

 すぐ門が開き、北の胡蝶の置塩晶美が二人を迎え入れた。

 「今日はよろしく」

 「いえいえ、こちらこそ」

 清々しい青空と四月の春風が薫る中で、両雄が挨拶を交わす。この後、勝負いくさを始める敵手同士とは思えぬのどかさだ。

 晶美は黒の着流しに緑のスカーフという服装いでたちで、少々気障に見えるところが生真面目で上品な顔立ちを巧みに引き立てている。


 「まずは胡蝶明神さまへ参拝を」

 境内を兼ねた庭を、晶美が先に立って歩く。

 背中で揺れる髪の束は、まるで漆黒の生糸だ。


 「置塩博士──お父様はお元気ですか?」

 「おかげ様で。ニューギニアで採取した蝶の繁殖に成功して上機嫌ですよ」

 「レメゲ島とかいう島へ行っていらしたとか」

 「そこの固有種です。私も生きた個体を初めて見せてもらいましたが、胡蝶明神の化身とも呼ぶべき神秘に満ちた美しさでした。レメゲ蝶の特質を養蚕業に活かせれば……というのが父の最終目標です」


 「晶美さんのお父様は昆虫学者でしてね」

 富嶽が囁き声で忠太に解説した。

 「中でも大の蝶好きで、珍種の蝶を求めて世界中を飛び回り、お屋敷の裏側に作った温室で、集めた蝶を飼育していらっしゃるんです」

 「父の研究の成果の一つが、あの木でもあるんだよ」

 晶美が振り返って、庭の黒樹を指さす。


 「気になるかい、忠太」

 「え……はい!」

 晶美に問われて、詰襟の少年は背筋をぴんと伸ばした。

 同じ大里逗家に仕える立場でも、拾われた捨て犬同然の自分と四山では身分が違う。まして名前を呼ばれるなどまったくの不測の事態であった。


 「よく見てみたまえ。君の目ならわかるはず」

 「あ……⁉」

 なぜ言われるまで気づかなかったのだろう。自分の迂闊さを忠太は恥じた。

 彼とて本家令嬢の身辺警護を仰せつかった身、修行で鍛えられた視力を以てすれば喝破できたはずなのだ。

 二枚の木の葉が、本のように開いては閉じる運動を繰り返している。

 あれは皆、動物だ。黒い羽を持つ生き物の集合体だ。

 「烏……いや蝶!」

 墨汁のような黒揚羽が樹木を覆い隠していたのだ。

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