湖畔の章
第22話 エリュマントスの猪①
翌日の正午、富嶽は連れと一緒にバスを下りた。
「ここからちょっと歩きますよ」
鼻歌まじりで湖岸沿いの道を歩く。隣には、
「忠太くんは一柳町は初めてですか?」
「はい、お嬢様の側仕えに採用されてから、ずっと京都でしたので」
幸先悪い凶夢もなんのその、自分は現金にできている。
十数日ぶりの下山を果たした彼女を、悪遮羅神社の北側の入り口、東熊山に対した鳥居の前で伊良忠太が待っていてくれていたのだ。それから二人で今日の対戦相手が待つ猪子山付近までバスに乗り、会話は少ないながらも心躍る旅を満喫した。
約束したのだから当然と言えばそれまでだが、富嶽が試練を放棄しないかの監査役も仰せつかっているとの理由が、やたら言い訳がましく、却って嬉しさを倍増させる。
「となると、湖国四山についても、あまりご存知ない」
「本家を守護する強者ぞろいということぐらいしか」
「江戸時代までは猪鹿蝶の三山だったのですがね」
銀の粉を散らしたような湖面を見ながら富嶽は言った。
「維新後、〝蝶の射水〟に同時に赤子が生まれて、一方が妾腹の子だったのですな。しかも嫡子より出来がよかったそうで。こうなると後はお決まりの……」
「……おおよその察しはつきます」
忠太は湖水の反射に眼を細めて答えた。
「お、あれが猪子山です」
民家の屋根越しに巨大な緑の塊がぬっと現れた。あの山裾に広大な畑地を持つ猪子神社の境内が、本日の
「妻城さんは猪子神社の神主さんのご令息でしてね。山に棲む大猪を妻城家でお祀りしているんですよ」
脇道に入って二十分あまり歩き、世俗と神域との境界線へ到着、石鳥居の下に立つ男の出迎えを受けた。
「遅いぜ片山の」
不敵に微笑む美丈夫は、湖国四山・猪子山の妻城頼廣である。
袖なしの着物からのぞく二の腕はみっちり筋肉がつき、下唇から飛び出す牙はさすがに飾りだが、羽織った毛皮はイノシシのものだ。
「約定どおり片山富嶽、帯刀で推参しました」
腰に差した大刀は言わずと知れた中道剣。ただし、抜刀を許されるのは宗家の条件を完全制覇した後という取り決めである。
「一番手があなたとは
「我ながら籤運の良さには自信があってな。他の奴らを蹴飛ばしてでも初陣を飾る気合で来た甲斐があったってもんだ」
「さっそくですが畑を荒らす猪を成敗と参りましょうか」
「気が早いな。臆しないところはうちの後輩にも見習わせたいぜ」
頼廣の先導で二人は猪子神社へ足を踏み入れた。狛犬の代わりに猪の石像、石灯籠には猪が彫られ、拝殿の御簾には〝亥の字〟の社紋とイノシシ尽くしだ。
「桜井さん、件のイノシシは、あなたでも手に負えないのですか」
「情けねえ限りだが、山の暴君みてえな怪物でな。猟銃で撃たれても涼しい顔してやがる。〝熊殺しの富嶽〟でもなきゃ太刀打ちできねえな」
熊殺しといわれて富嶽は苦笑いを浮かべた。
「また古いことを……」
猪子神を祭る拝殿で手を合わせた後、富嶽たちは境内の裏の畑へ案内された。
すでに怪物はいた。無我夢中で畑の作物を貪っている。
「あの怪獣がイノシシですか?」
「ああ、名は
「……小型のマンモスですなまるで」
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