神は鏡を詰めたれば

 「しっかりおし富嶽―ッ!」

 「初さん⁉」

 「首だけ鬼女オンナなんざ、さっさと片して戻っておいでーっ!」


 天上からの甲高いダミ声は、確かに初のもの。

 厨子へ首を突っ込んでの激励が、異界の壁を越えて、富嶽の耳にまで届く奇蹟を起こしたのだ。


 「あんましもたついてると忠太を返して貰うわよーっ!」

 「……それは御免被る。一柳町の外で暮らす算段がついたんですから……」

 口端を曲げて苦笑した。


 (あの人はいつも私に勇気を与えてくれる)

 体格や武芸の才には恵まれずとも、大女おとめを収めるだけの器量を持つ人物。

 雑念が混じった時、尻を蹴飛ばしてくれたのは初だった。殴打に等しい叱咤が富嶽に勇気を取り戻させた。


 「若先生! 心に金剛石ダイヤモンドを描いて下さい!」

 宙吊りの忠太も咽喉を涸らして叫ぶ。

 「この首は若先生の御心おこころに揺さぶりをかける目的でアシャラが作った幻影まぼろしです! アシャラの手にかかった方々ならば、きっと若先生の生き方を支持して下さる筈!」


 鮮やかな双碧そうへきと目が合った。

 陽光を反射し、コバルトに輝く盛夏の琵琶湖が脳裏に浮かぶ。

 他愛なくも途方もない空想に耽った幼き日。いつか山を枕にする程の巨人になりたい。湖水で顔を洗いたい。

 湖面いっぱいに映る顔。桜精おうせいの瞳に映る顔。


 (そうだ鏡だ)

 金剛身とは攻撃遮断のみならず、精神の鏡化による悪念の反射。

 「鏡瞳かがみひとみ鏡瞳鏡瞳鏡瞳鏡瞳鏡瞳鏡瞳鏡瞳……真(しん)観(かん)清浄(しょうじょう)観(かん) 広大(こうだい)智慧(ちえ)観(かん)悲観(ひかん)及慈(ぎゅうじ)観(かん)、常願常詹仰(じょうがんじょうせんごう)、無垢(むく)清浄光(しょうじょうこう)、慧(え)日破(にちは)諸闇(しょあん)、能伏災風(のうぶくさいふう)火(か)、普(ふ)明照(みょうしょう)世間(せけん))」


 繰り返した後、観音経へ繋げば精神が光を放ち始める。

 ぱん。ぱん。ぱん。

 聖女の首が風船のように弾け飛んだ。

 その隣の首も破裂し、またその隣へと伝播。

 ぱん。ぱん。ぱん。

 浮かんだ首が次々と消滅、紅い虚空が広がった。

 隠れ蓑を奪われた鬼面に初めて狼狽の色が浮かぶ。


 「カミカガミを一字詰めたらば、己が心鏡の如く磨き上げれば、そこは常に神が住まうも同じ」


 内部からの精神防御こそ金剛身が秘中の秘とされる所以。肉体に受け継がれた鬼女の血を馴染ませつつ、心をアシャラの悪意に明け渡さぬことにあったのだ。

 磨き上げた精神こそ金剛身の極意、金剛心。


 「虫のいい話だとほざくか⁉ 自己おのれに課した誓約次第で、虫のいい話も実現できるのだ」


 一対一の白い空間で、生喰姫の前で立てた誓い。

 生涯を懸けて、発端にアシャラが関与する怪異あらば、地の果てまでも赴いて鎮圧する──富嶽はそう約束した。

 その誓約下で生きる限りにおいて、片山富嶽は鬼女の力と人のこころを両立し得る。


 「見込み違いでしたなアシャラ。私は私怨を晴らすための傀儡にあらず。私の生を生きる為にのみ、この世に根を張った!」

 (ほざくな虫が!)


 鬼女とて待ち続けた数百年、枕代わりの怨念を今一度燃え上がらせ、毛髪槍で女剣豪を包み込む。

 「念費観音力(ねんぴーかんのんりき)、刀刃(とうじん)段(だんだん)々壊(え)!」


 すでに大女おとめの精神は鏡面。悪意を送り返され毛槍は粉砕された。

 一束残し、手繰り寄せるように鬼女の首まで距離を詰める。

 おぞましい色の粘液が吐き出された。人畜を骨まで溶かす痰液をまともに浴びるが、もはや嫌がらせ以上の効果はなかった。


 「瞳鏡瞳鏡瞳鏡、念(ねん)彼(ぴ)観音力(かんのんりき)、波浪不能没(はろうふのうもつ)!」


 痰の海を蒸発させながら泳ぎ切った体躯が、大魚のように跳ねた。

 アシャラも大口を開けて噛み潰さんと試みる。

 上下の牙が噛み合わさり、引き裂かれた富嶽が桜吹雪へと変じた。


 「草花術・二楽想」

 伊良忠太の掌で一掴みの花びらが踊る。

 桜花の幻術に謀られたと知った時には、富嶽の渾身の一刀が決まっていた。


 「大山鳴動──神鏡かんかがみ!」


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