卑湿汚泥
悪遮羅神社供養塔・祇怨閣。
開け放たれた厨子の中から、ひらりと舞い出てきた蝶一匹。
「後から強い観音力をまとう者が迫ってきます」
置塩晶美が白黒揚羽を指に止まらせて警戒を促した。
「皆、心の準備はしておけ」
片山斤吾以下、五階に集った面々が武器を取る。
厨子から出てくる白黒蝶が数を増し、果たして何が続くかと待ち構える中、岩瘤みたいな大猪の鼻面が現れた時は、一同は歓喜の声をあげた。
「護王!」
異界へ向かう際も窮屈そうに厨子をくぐった愛獣を、妻城頼廣が引っ張り出してやる。
背中から転がり落ちた忠太を見て、五一が
「……忠太! 良かった! 良かった!」
「ば、ばかっ、離せっ」
「やっぱり鳥のいる所に花あり。鳥がいなきゃ種は撒かれず、実も結ばず。僕の存在の重さを悟った謙虚さに免じて、血迷った行動の数々は許そう!」
「だ、だ、誰がっ」
接吻まで強請ってくる相棒を突き放そうとするも、すでに忠太は疲労困憊、帰路は護王の鬣にしがみ付くのがやっとの有様だったのだ。
「帰ってきたのね忠太! 初お嬢様のいる現生が一番よね! 偉い偉い!」
初が五一を押し退けて忠太を抱き寄せた。
「馬鹿! 大馬鹿! あたしと富嶽に闘って欲しくないからって馬鹿なことしてんじゃないわよもう! あんたは富嶽みたいに無理できる体じゃないんだから!」
桜精の頭をくしゃくしゃに撫で廻しながら、初は人目も憚らず泣いた。
二人の弟とも言っていい小姓の無事を願わぬ筈がないのだ。
「そんで……富嶽はどうしたの? まさかアシャラと相討ちで地獄へ沈んでいったんじゃないでしょうね⁉」
「大丈夫です。若先生ならすぐ」
幅二尺未満の厨子を押し開くようにして白鹿が現れた。
続いて、やれやれといった顔で、ボロボロの道着の巨体が這い出てくる。
「まったく、何度も振り落とそうとする上に蹄で蹴るんだものなあ」
「ちっ……」
「今、メリッて音がしなかったかしら?」
爪を噛む栄姫、美術品でもある厨子を気遣う芽類。
二人以外は凱旋してきた片山富嶽へと駆け寄る。
「富嶽―っ!」
「待つんだ!」
勇者を出迎えようとする面々を斤吾が制止した。
「あれが皆の知る富嶽とは限らん。悪遮羅大明神を宿らせているかもしれん」
「父様……旅へ戻られたんじゃなかったんですか?」
「白々しい悪鬼め。貴様が
「中身も私のままですよ」
「演技もしくは無自覚に憑依されている可能性がある。おまえが確かに富嶽であることを確かめる為、幾つか質問させて貰おう」
「どうぞ」
後ろで笑いを堪える満喜雄を見て富嶽も察した。
「氏名、年齢、身長体重を述べよ」
「片山富嶽。十八歳。身長二百二センチメートル、体重百四十キログラム」
「握力は?」
「二百キロ。調子が良ければ倍に達します」
「母の名は?」
「片山涙怖」
「小学生時代の通り名は?」
「熊殺しの富嶽、怪談潰しの富嶽」
「僕にも質問させてくれ」
満喜雄が手を上げた。
「本邸の多面体ペンダントライトのデザイナーは?」
「森谷延男」
「僕の妻の二つ名は?」
「主な所では、関勝御前、烏丸半島の鉄砲百合、誅道軒の水蜜桃です」
「芽類の胸囲は?」
「風聞ですが百……」
「答えなくて宜しい! あなたも黙りなさい!」
女当主が夫の首を絞める。
「じゃ、あたしも」
代わって初が出題する。
「昔、神前試合で如斎谷に負けた時、あたしの玉の肌の、ちょっと口にしづらい部分に傷ができたけど、それはどの辺り?」
「左の乳首の上」
先に答えた五一が殴られた。
「質問変える。映画『犬神家の一族』で好きな台詞は?」
「生卵」
「……本物ね。そんなくだらないことまで知ってるのは」
終始吊り目気味だった初の表情が、優しく崩れた。
「では最後に、こうしたらどう出る?」
斤吾が忠太の首筋に刀を当てた。
「おまえは金剛身で浄化できる。しかし、この
「父様、お戯れも程々に」
袖口から大ぶりな苦無が滑り出て、父の眉間に狙いを定める。
飛び道具を燐光のように包む殺気に斤吾は妻の面影を見た。
「合格だ。確かにおまえは富嶽だ」
納刀して忠太の桜色の耳たぶに口を寄せた。
「すまなかったな忠太。あんな娘だが、よろしく頼む」
「斤吾先生……」
「君さえいれば、あいつは鬼女になろうとも心は人であり続ける。おい富嶽、地獄の手前まで行って取り戻してきた宝物だぞ! 受け取れ!」
美童の体が抱え上げられる。訪仏線を描いたと思った時には、
「お帰り富嶽さん! あんたに任せて正解だった!」
五一も太い首にぶら下がる。
「あ~あちこち痛いんで、そっと触れてくれませんか」
「るっさい! 私のケガは元気の証が自論でしょ!」
初がジャンプして短髪の頭を叩く。
「悪遮羅は倒したの?」
「取り逃がしました。ですが、中道剣の痛さを改めて覚え込ませてやりましたから、当分は地底で養生でしょう。対策を練る時間が与えられたというわけです」
「うん! さしあたってはめでたしめでたし! 忠太も戻ってきたことだし」
「……おまえにも心配かけましたね」
親友に向かって、忠太は小さく詫びの言葉を口にした。
桜精の軽さと体温を富嶽は密着して確かめる。いっそ体の中へ押し込み、我が身の一部としてしまいたい。
「忠太君、私はこう考えます。金剛身とは、アシャラの手で非業の死を遂げた方々が、時を越えて私に託してくださった命なのだと」
「若先生にですか……?」
「はい。鳥になって成仏された霊はごく一部。アシャラが
「若先生が金剛身を使われる度に受け取った命が消費されている?」
「私はそう解釈しました。つまり、私に完全なる死を与え、息の根を止めるには、二千億回は殺さねばならんのです。誰にそのような芸当ができましょう? あの大悪鬼ですら容易なことではないのに?」
富嶽の言いたいことが清水のように忠太の胸に染入ってくる。
もう自分の強さを疑うな、自分を案じて早まった真似はしてくれるなと。
「今度こそ私を信じてくれますね?」
優しく問いかけられて忠太は、まっすぐ面(おも)を上げた。
「信解(じんげ)いたします……」
「本当に? 私が醜い大人の争いに巻き込まれるのが心配ではないんですか?」
「いいえ! あなたこそ汚泥に生ずる蓮花です……!」
忠太がまともに話すことができたのはここまでだった。後は富嶽の胸に顔をうずめ、溜めていたものすべてを吐き出すかのように号泣した。
五一が総括的な悪態をつく。
「最初からそう言って、この人の胸に飛び込んでりゃよかったんだよーだ!」
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