蛇ノ肆【了】
安定せぬ呼気を繰返し、青年の友人は寝台に伏せる
其の額にはじわじわと汗の滲みが窺えるというのに、身体はひんやりと冷たい
「先生」
沈痛な面持ちで、後輩が友人に縋りついた
友人は唯、苦痛に震えて寝台の蒲団を強く握り締め、震う
友人を護る様、同志達が彼の寝台を囲う様に佇む
医師が施した鎮痛の為の注射も、薬剤も最早効果が無いのであろう
己を蝕む苦痛を堪え乍ら、友人はぐるりと自身を心配気に見遣る皆々を眺めた
其の中に、彼の-青年の姿は、無い
(嗚呼、そりゃあ、そうだ)
友人は苦悶の中、笑みを作り
自身の目許を覆い、呟いた
「-不味い、顔だナァ」
友人の死を知ったのは、新聞に載った訃報で
青年は、其の葬儀に参列する事も出来なかった
(そんな)
全身の力が抜け、畳に膝を着く
意味の分からぬ震えと酷い寒気に身体はくまなく包み込まれ
青年は瞳を見開き、只、長く時を過ごした
-約束
約束を、したのだ
桜を見ようと
一緒に、桜を見ようと
其れなのに
まだ、未だ春は遠い頃であると云うのに
涙は零れなかった
胸を穿つ痛みが、身体を麻痺させて居た
(-僕、は)
如何にか友人の墓所を聞き、知り
其処へと花を抱えて参る
墓には先客が居た
がっしりとした体躯の男性
確か、友人の門下たる文士の一人だ
「おや、先生。どうも」
彼は青年の姿を目にするとひょこりと立ち上がり、深く頭を下げた
「どうも、こんにちは」
青年も頭を下げ、歩み寄り彼と並び墓に向き直る
墓には綺麗な野菊が数本備えられて居た
青年も身を屈め、手に抱えていた花をそうっと野菊の傍らへと備える
「葬儀に、参列させて頂けませんでしたので」
彼の言葉に青年が意外そうな面持ちを向けると
彼は困り顔で頬など掻いて見せた
「何でも、親族か懇意な者で無いと駄目だとね-見舞いも、赦されませんでしたよ」
「貴方も、ですか」
「マア、従軍したり他所と懇意にしたりと、生粋の門下とは言い難くありましたからねえ……併し、貴方もとは。よもや先生も」
「はい、私は文學結社の皆に憎まれて居りましたので」
「-其う、でしたか」
拙い話だったか、とでも言う様に、彼はキュっと口を引き結ぶ
青年は儚く笑い、小さく首を振って見せた
誰も居らぬ墓所にて
二人並んで墓の前で手を合わせ、長く、長く拝む
悔みの言葉
其れと友人に伝えられなかった数多の言葉を心に紡いで
「-僕は、彼に世話になるばかりで。何の恩返しも出来ませんでした」
ぽつり、と青年が呟く様に言った
合せた手をそっと下ろし、彼が青年を見遣る
青年も合掌を解き、そうして哀し気にじっと墓標を見つめて居た
「彼は、ずっと文士としての僕を護ろうとしてくれていたのに、僕は、何も-」
「先生」
彼が青年へと声を掛ける
彼を見遣ると慈しみの瞳が青年へと向けられて居た
「-生きましょう」
「え」
「生きる事がきっと、恩返しだ。何が有っても、前向いて生きるんです」
「生きる……ですか」
「其うです。生きてさえ居りゃあ、何もかも-哀しい事も辛い事も、何れは越えられるってモンですよ……何もかもを越える事がきっと、恩返しになる筈です」
「……ええ」
「ネエ、頑張りましょうや。俺も頑張ります」
「ええ」
「大丈夫ですかい」
「何が、ですか」
「何でしょうね。今の先生は、まるでふうっと霞の様に消えちまいそうだ」
「大丈夫ですよ」
彼の言葉に青年は小さく笑い、再び首を横に振って見せた
「-僕ならば、大丈夫です」
其の後
世は、青年に対して益々
酷く厳しく在った
何が原因で在ったのか
誰の仕業に依る物であるか
其れは分からなかったが
様々な批難の言葉が世に流れ
青年は益々、仕事を失い
もはや、青年を護る者は誰も居らず-
其れこそ、文壇に名を連ねる人々を指を咥えて見る様な生活が続き
併し、家族を支えねばならず-
(嗚呼、亦、駄目だった)
足繁く、様々な出版社・新聞社を周り頭を下げ
仕事を求めた
一社を除いて
青年は悩み、唇を噛み締め
掌に爪を食い込ませ、悩み
其して、此れまで立ち寄る事の無かった新聞社へと足を運んだ
「御待ちして居りましたよ、先生」
新聞社を訪れ、受付にて話をすると直ぐに、彼の男が-
青年を苦しめた報道屋の男が、喜々と青年を出迎えた
「では、早速御仕事の話を致しましょうか」
男は青年を応接室へと招き入れる
其処までの所作は本当に事務的であり、只の職員の姿でしか無かった
勧められる儘に青年がソファへ腰を下ろすと、男もすっと、青年の側へ腰を下ろした
「先生」
男が囁く
青年は俯き、只じっと身を堅くする
「仕事を求めて、此処へとお出でになられたのでしょう」
「……はい」
青年は小さく頷く
男の手がスッと、青年の頬に触れ
其の顔を自身の側へと向く様に動かした
「先生-分かって、おられますね」
「……」
青年の身体がカタカタと震える
震えながらも、青年は頷いた
深く、一度だけ頷いた
男は微笑み
心からの笑みを浮かべ
青年の肩を優しく、抱き寄せた
--------------
脱ぎ、散らかされた衣服
幅広い、白い清潔な蒲団
仄かな灯りと淡い香の薫りが辺りを包むばかりで
「大丈夫ですよ、先生。私めが凡てを責任持って払拭致しますとも」
青年の上から男が囁く
「貴方は唯、思うが儘に筆を走らせて下さい-在りの儘の、其の美文を」
青年は男の下で、小さく頷いた
其の瞳は男を見る事無く、只遠くを見ている
汗ばむ素肌を擦り合わせ、男は青年の白い體を想うが儘に弄んだ
淫靡な音と、身体の奥にじくじくと響く苦痛にも似通う心地
拡がる熱に、青年は言葉も無く只震えて、唇を噛み締める
「もう直ぐ、春になりますね」
額に汗滲ませ、愛おし気に青年の髪に唇を触れさせて男が囁いた
「-桜を、見に行きましょうか」
青年の瞳がハッと見開かれる
男は笑みを湛え、続けた
「桜を、二人で見に行きましょう」
「-」
青年の瞳から、涙が零れ落ちる
其れに気付き、男が優しく青年の頭を撫で、頬を撫ぜた
ぼろぼろ、ぽろぽろと、堰を切った様に青年の瞳からは涙が止め処無く流れ
小さな声さえ漏らして、青年は泣き続けた
男の下で身を震わせ、延々と、泣き続けた
男は、蝮は喜悦の笑みを浮かべて泣きじゃくる青年の身体を抱き締め
涙に濡れる其の白い顔に口付けて、舌を這わせ
喜々として声を上げた
「やっと、貴方を手に入れた」
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