第8話 捕獲
止める、べきなのであろう。彼の人の忠告の通り
少なくともあの芸姑に執着をする事は止めねばならないのではあるまいか
其れは頭では理解している
だがしかし、青年が身に受けた其れは雛鳥が初めて、親鳥を目の当たりとした其れと同じであり-
「マア、宜しいので」
黒塀のこじんまりとした、小綺麗な屋敷に鎮座して芸姑は微笑んだ
青年は頷く
「足繁く置屋に通う訳にも行かぬのです」
「ええ、ええ。文豪様ともなると、何かと世が五月蠅くなりますものねえ」
「まだ、文豪ではございません」
「何を仰いますの、すっかり噂となっておりますよ」
「花街で、ですか」
「いいえ。何処でも、かしこでも」
花の様に微笑む芸姑とは対称的に、青年は戸惑いも露な遠慮ある笑みを返した
その青年の腕を芸姑が取り、引き寄せる
引かれるまま身を寄せるとふわり、と良き香りが青年の花を擽った
今度は青年から、芸姑の柔らかい頬に触れて、その唇に吸い付いた
青年は以後、細心の注意を払い外出をした
元より、母にも祖母にも、知られておらぬ事である
朝、夜は執筆に勤しむ
借りた屋敷に芸姑を住まわせ、昼間だけ通う
芸姑は青年を暖かく出迎え
其の疲弊、苦悩全てを包む様に、その豊満な體で青年を包み込むのだ
青年は只、その體に赤子の様に甘え、尽くす
其の様な日々が続いてどれ位が経ったろうか
「先生」
青年が屋敷を出るや、声を掛けて来る人物が居た
其れは、あの男-報道屋であった
青年は刹那、身体を強張らせる
「何故、此処へ」
「いいえ、ほんの偶然です」
「偶然でこうも出会いますか」
「信じては頂けませんか」
「それは」
「そもそも、何を其の様に驚いておられているのですか」
「いえ、何も」
青年は首を横に振り、今更ながら何でもない事なのだと繕おうとする
男はそんな青年の姿に目を細めた
「先生、宜しければ少し御話を」
「いいえ、私はもう帰宅致しますので」
「いけませんか」
「急ぎます」
「では、御屋敷にどの様な御友人がおられたのか、覗いてみても」
「何故其の様な事をなさるのです」
「只の興味です、いけませんか」
「困ります、友人に迷惑が掛かります」
「只、覗くだけですが」
「なりません」
「そうですか、では御機嫌よう」
了解と男は頷き、別れの挨拶に手を振る
しかし、その足は動かず屋敷の前に佇んだままである
青年は帰路に着く事も出来ず、酷く困惑して男をじっと見遣った
「何故、御帰りにならないのですか」
「先生を御見送りさせて頂こうと」
「私を見送った後で家を覗くのでは」
「何故そうも警戒なさるのです。只の御友人なのでしょうに、私が一覗きした処で何になりますやら」
おやおや、と言った風に男が軽い反応を見せると
青年は口を閉ざす
其の様子や、男を如何に此処より追い払うかを悩んでいる風に見える
「先生、御話を致しませんか」
男が優しく、至って優しい旋律で青年に話し掛ける
「此処から離れましょう-不躾ですが、細道などで立ち話でも。往来で御話をする訳には参りませんでしょう」
「……はい」
青年は、頷いた
促されるまま細道へ、裏道へ
人の気の全く無い其の場所へと辿り着くや、男が話題を切り出した
「囲うて、しまわれたのですね」
青年は男から目を逸らし、言葉無く頷く
「何故ですか、あの芸姑はいけませんと御伝え致したでしょうに」
「貴方には、御理解頂けませんでしょう」
ぽつ、と呟く様に青年の形の良い唇から出た言葉に、男は目を丸くして、クックッと喉で笑い出す
「ええ、理解出来ませんとも、分かりませんとも」
そうして男は青年の身体を狭い道の塀へと押さえ付ける
「何を」
「理解出来ぬでしょう、分からぬでしょうに。私が貴方の心根を知り得なかったと同じく」
「御離し下さい」
「なりません」
「人を呼びます」
「御呼びになれば良い。私如きが、貴方に比べれば余程つまらぬ、下賤の者が誰ぞに不埒者と扱われた処で、何にもなりません」
「何故、この様な事を」
抗い、男を叩こうとさえする青年の手の首を
男は塀へと縫い止める
「全ては貴方の身を案じた事であると言うのに」
「御離し下さい」
「離しません。貴方がもう芸姑を囲わぬと約束なさるまでは」
「何故、其処まで」
「再三、危険であると御伝えしているではございませんか」
「何故にそうも私に、御注意をなさるのですか」
「申したでしょうに、先生が心配であるからと」
青年は、男に塀へ押さえ付けられたまま
コクリ、コクリと頷いた
「分かりました、もう彼女には逢いません」
「そう、其れが良いです。其れが貴方の為です」
青年の言葉を聞き、男は漸く青年から手を離した
咄嗟、青年は逃げ出す様に駆け出しかけるが
はっと、不安の色濃く男を振り返った
「どうか、是の事は」
男はひら、ひらと手を振る
「ええ、ええ。言いませんとも、記事にも致しませんとも……大切な、貴方の為ならば」
男の言葉に青年はようやっと安心した様相を見せ、男に小さく頭を下げた
其の後日
黒塗りの塀の屋敷に密やかに立ち入る青年の姿が。
誰の目にも付いては居ない
蝮の瞳以外には
「-捕まえましたよ、先生」
男-蝮は口端を吊り上げ悪辣と
至極、悪辣とした笑みを浮かべた
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