第15話 揺らぎの刻
雑誌に掲載された青年の作品は、評判を呼んだ
怠る事無く綴り続けた其の文章には磨きが掛かっており
大家の一人の後ろ盾を持った事により、彼は再び全盛期の様に咲き誇りつつあった
「追い詰め損ねたか、捨て置いても衰退するだろうと思っていたが」
報道屋の男-蝮が忌々し気に呟く
-此れでは、またも遠くなってしまう
青年を敷く絶好の機会で、逃げられ
もはや容易く飛び込んで来る事は無いと考えていたが
其れでもいずれは貧困に喘ぐ事となり、自分に泣き付いて来る事となるであろうと
蝮はそう踏んで居た
随分な、根回しを行ったのだ
青年が仕事を取れぬ様、仕事が減る様にと
其の悪評をじわじわと、毒を染ます様に綴り
其れで、充分であろうと、思っていた
だがしかし、是はどうした事であるか
青年は仕事を失う処か増やし
今や、文壇の大家のお墨付きまでも得て居るではないか
-思いの外、彼奴の支持者が文士の中に存在していたという事か
苦く眉を寄せてふと時計に目を遣り、蝮は呟く
「嗚呼、もう此の様な時間。仕事をせねばならないな」
蝮は溜息一つつくと新聞社から出て、或る場所へと向かった
報道屋として、新聞社の役員として-
「やあ、待っていたよ」
「遅えぞ」
「どうも、初めまして」
芸術的改革、と云う會合の為に大家が借りた約束の洋食屋に急ぎ青年が顔を出すと
其処には既に皆が待っていた
大家の姿も、友人の姿も在る
「申し訳ございません」
青年は皆へ一礼すると、初に顔を合わせる人物には自己紹介をし
そうして席に着いた
會が、始まる
小説を、文章を。果ては舞台演劇に関わる其れ等を皆々で語り尽くす
文學談話から、文藝談話を-
皆々が、思うがままの論を口にする
其れは本当に、文士としては楽しき一時であり
青年は、此の時間を本当に、本当に満喫した
此れまでの苦しい生活が嘘であるかの様な日々であった
仕事は順調で、雑誌社からの依頼も多々舞い込み
忙しく筆を走らせながらも実に晴れやかな、愉しくある気持ちを味わい
青年は、充実した日々を送っていた
そんな或る日の會合の後
「御一緒に、呑みに行きませんか」
會合に参加していた文士の一人である
彼は確か、大家が目を掛け、可愛がっている人物である
「まだ時間も早いですし、宜しければ」
「私が御一緒をさせて頂いて宜しいのですか」
「勿論です、一度ゆっくりと御話をしてみたくございましたので」
「ああ、私もです。其れでは、御一緒させて頂きたく」
男性に、馴染みなのだという料亭へと案内され、座敷へと通される
其処は見目に品の良さが分かる部屋であり
畳の青々とした薫りが何とも心地好くあった
仲居が運んで来た小料理を肴とし
酒を傾けては、愉しく語り合う
其れは會合の延長戦の様で
青年は心より是を満喫した
「藝術的な改革をと、大家の先生は仰いますが」
ぽつり、と男性がぼやき言う
「未だ實とし何かを為してはおられない。如何な物かと思うのです」
青年は言った
「先生も御忙しい身でいらっしゃいますし、是はじっくりした物なのでは」
「しかし、貴方。會合を如何程致しましたか。何の前進も無くば、只の茶話会然でしょうに」
男性は酔うて居るのだ。青年は其の様に考えると、困りながらも笑いを作り、頷いた
「まあ、確かに仰る通り-確かに、そうですね」
「先生怖気づいたのではありますまいか、大々的な、改革と云う夢に」
「其の様な事は」
「ですが、未だ何も進んでおりません」
「ええ……」
如何にすべきかと青年は迷う
「貴方、御酒が停まっておりますよ」
「ああ、これは」
「サア、サア御呑み下さいな」
「いえ、ですが」
「野暮な事を仰いますな。呑代の不安などは要りませんぞ、全て此の私が」
「ああ……はい、では」
男性に勧められるままに、青年は酒を重ねた
どんどんと
其れから何れ程が経ったであろうか
「-先生。ああ、ホラ、若先生」
身を揺すられ掛けられる言葉に、若先生とは己であるかと青年は瞼を開ける
何時の間にやら、寝入っていたらしい
目の前には男性の顔が在る
「大丈夫ですか。御酒を勧め過ぎましたね」
「いえ、其の様な事は」
「もう御時間も随分経ちました。御開きと致しましょうか」
「ああ、はい」
深酒に朧とする頭で頷き、青年は立ち上がった
先に言った通りに、支払は全て男性が持ち
青年は、男性に礼を述べて深く頭を下げた
「御一人で帰れますか。酩酊なさってるのでは」
「いいえ、大丈夫です」
男性の言葉に青年は首を振る
「宜しければ送りましょう」
「いいえ、いいえ本当に」
大丈夫だ問題ないと繰り返す青年に、相分かったと男性は頷く
「其れでは此れにて」
「はい」
「しかし若先生」
「はい、何でしょう」
男性は困った様にふふ、と笑った
「私も酒癖に於ちゃあ宜しくございませんが-貴方もなかなかどうして、過激でらっしゃる」
「えっ」
青年は驚き瞬いた
「私は、貴方に何か無礼を働きましたか」
「イイエ、何も何も」
「では、私は一体何を-」
男性は静かに首を横に振った
「要らぬ事を申しましたな。御気になさいません様」
「はあ」
「愉快な酒の席でございましたのに、失礼を致しました」
「いいえ、とんでもございません。此方こそすっかり御馳走になってしまい」
「宜しければまた、呑みましょう」
「はい-では、次は私が呑代を」
男性と青年はそう約束をして、別れた
しかし、以後青年と其の男性が酒宴を致す事は、無かった
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