ハナ ノ伍

(踵を返してしまったけれど)

とぼとぼと病院を離れ行き乍、青年は考えた


きちんと、見舞えば良かったのだと

今更にして悔やんだ


歩き乍、廊下向こうから聞こえた会話を思い返す


彼の-友人の病を治療するには、今の病院、医師では足りぬのであると

併し、此れ以上の施療を受けるには、金が足りぬのだと


病を治す医師が存在するのか否かも、分からぬのだと


-もっと、詳しく聞いておけば良かったのだ

頭を下げてでも、彼等に罵られたとしても


(嗚呼、そうだ、僕は-)


「おや、先生。どうも」

流れる思考を遮ったのは、報道屋の声であった


見れば親し気に軽く手など上げつつ前方から此方へと歩いて来る


「こんにちは」

事も無い風に青年が挨拶を向けると、男はおやと目を丸くしつつも笑顔で挨拶を返した

「エエ、どうもこんにちは。此れから御出掛けですか」

「いえ、帰る処です」

「其うでしたか-何方へ行かれて居たのです」

「病院へ」

「よもや、彼の御見舞いへ」

「……ええ」

拍を置いた青年の頷きに、男は薄く笑う

「其れで、彼には面会出来たのですか」

「言わずとも御分りではないのですか」

「嗚呼、此れは失敬」

くつり、と男の喉が鳴る

青年は僅か頭を下げると、其の彼の傍らを通り抜けようとした


「宜しければ後程、彼の様子を御教え致しましょうか」

「-亦、何某かの代償を御求めになるのでしょう」

「まさか、無償で構いませんよ」

男を振り返る青年に、男は笑顔で首を傾げて見せる

「如何云う風の吹回しですか」

「如何も何も、もはや何ぞ求めずとも構いませぬので」

青年は怪訝に眉を寄せた

「何を御考えなのですか」

「何も、何も。其う勘繰りをなさいますな」

「貴方の是迄の行いを考えれば、至極当然と云う物では」

「オヤマア、手厳しい」

態との様に大きく肩を竦めると、男は笑う

「私とて、価値無き報せに不当な値を付けは致しませぬよ」

「価値無き、ですって」

「ええ」

「何故、其の様な事を」

青年は眉を顰めた儘、男に向き直る


真直ぐに合わさる批難の瞳と喜悦孕む瞳


「其の様な御顔をなさいますな、先生に価値が無いと申している訳では御座いませんよ」

「僕の価値等何れ程でも、其の様な物無くとも構いません-唯、彼の価値が無きかの様な、彼を下げるかの様な言葉は許し難く」

「分かりませんか、先生」

「回り諄い方ですね、貴方は」


男の肩が復、揺れる


「此れは失礼を。併し、彼の御方にはもう、価値など御座いませぬ」

「まだ仰いますか、愚かな事を」

「ええ、ええ、申し上げますとも。彼は-もう、文士として、人としての終焉を迎えるのですから」

「-」


瞳の裏に火花の散る感覚

青年は殆ど無意識に、男に詰寄り其の胸倉を掴んだ


何時に無い珍しい其の青年の反応に男は刹那と目を丸くするも直ぐに目を細め、

動作ゆったりと青年の白い手に己の手を重ね

包み込む様に自らよりも一回り程小さい其を柔らかく握り締めた


「先生、彼はもう、助かりませんよ」

「巫山戯た事を。其の様な事は」

「いいえ。御分りでしょうに、先生-彼の方の病状は悪くなる一方であり、其して生業である小説は、代筆であれ新たなる作も生み出せぬ……彼はもう」

「-其れ以上、何も仰らないで下さい」

「最早彼には、貴方を庇護する力など御座いません」

「……庇護……?」

「ええ、其うです。此れ迄の様に、彼は貴方を護れない-頼るべく依り代では無くなったのですよ」

「……頼る、依り代」


青年は言の葉の意を解さぬ鸚鵡の様に、男が口にした言葉の一つ、一つを呟く


聴こえる呟きに、男はゆると頷き

片手を青年の頬へと添えた


「-もう、彼の人に依存なさいますな。此れからは-」


声を遮る様、青年は強く腕を払い男の手を叩き、彼を突飛ばした

勢いに男は蹌踉めき地面に手を着き膝を着き、青年を見上げる


其の顔は-何とも良き笑みを湛えて居た


静観な顔に浮かぶ其の笑顔は青年にとっては只々難く、醜悪にしか映らず

青年は彼の顔を至極忌まわし気に睨み付けた


「何とマア、恐い御顔で」

「怒るのも当たり前でしょう。禄でも無い事ばかりを仰って」

「私は只、在りの儘を-事実を申し上げたまでです」

「何が、事実ですか。貴方は間違っておいでです」

「オヤ、私は何か違う事を申し上げましたかね」

「何か、処か。何もかも-全て」


捲し立てる勢いづけ、青年は息を吸うも

ぐ、と唇を噛むと静かに息を吐いた


「-いいえ。もう良いです。貴方に申し上げても、理解一つ出来ませんでしょう」

「先生?」

「さようなら」


青年は冷ややかに別れの言葉を告げると帰路へ着き

二度と、男の方を振り返る事は無かった




「只今、戻りました」

青年が帰宅すると、玄関に見慣れぬ男物の靴があった


来客など最近では珍しい物だが、誰であろうかと家へ上がるや

祖母から青年相手の客人だと云う事を告げられる


「やあ、御邪魔しているよ」

座敷に行くや、同僚が青年を何とも朗かな笑顔で出迎えた

「来ていたんだね」

青年も笑顔で応え、向いへと腰を下ろす

腰を落ち着けた姿を見てから、同僚が話題を向けた

「君、彼の見舞いに行ったのだろう-其うして、逢わない儘、帰った」

「どうして分かるんだい」

驚いた様子を見せる青年に、同僚はふふ、と愉快気に小さく声を漏らす

「誰が置いて行ったのか分からない、手土産らしい紙袋が彼の病室近くの廊下に置かれて居て、其れで少しばかり門下や同輩の皆々で混乱していたからね」

「其れで、其の紙袋を持参したのが僕であると察したのかい」

「そういう事さ。心当たりと云えば、君しか無いからね」

「察しが良いんだね、僕はてっきり-」

「何だい」

「否、何も」

「其うかい。其れで君、どうして見舞いに行かなかったのかね」

温かな煎茶の入った湯呑を傾け乍、同僚が問うと

青年は即座言葉を返した

「それより君、彼はどの様な塩梅だったのだい」

少し間を空け、其うして

同僚が答えた

「モルヒネを定期的に投与している様だがね、其れでも随分と苦しそうだったよ」

「そう-」

青年は伏目がちに頷く

同僚は静かに息をつき呟いた

「如何も、悪くなっている様だった」

「-回復の、見込みは無いのかい」

「さて、僕は医者ではないから何とも-もっと大きな病院に行けば良いか、彼の病に関して一番詳しくある医師を探せば良いか。尤も、其れには『ツテ』も必要だろうね。一見で診てくれる様な医師では無いだろうに……生憎、僕には『ツテ』がない」

「僕にだって、無いよ」

「其れに、『治療費』も尚、嵩む事になるだろうねえ。残念ながら、僕は彼の支えになれる程の見入りも無い-」

「……うん」

自分も其うだとばかり、青年は弱く頷く

同僚は再び、今度はふうっと大きく溜息を零すと困り顔で頭を掻いた

「金策に、縁探し……難しい事だよ。特に、僕は文士と呼ぶには遠い人間だからね」

「何故、文士で無ければ難しいんだい」

「数多、多くの方面の繋がりが有る輩が多いだろう。だから僕の立場より余程可能性は有るという物だよ」

「其んな事は、今の君だって」

「繕わなくとも良いさ、僕は文壇に上れなかった-君や彼とは違ってね」

「違う……君だって、共に築いたじゃないか。あの」

「君」

青年の言葉を同僚は途中で制し、にこりと頬笑む

「僕は只、君達の盛上りに加担したに過ぎないんだよ……まあ、御蔭で仕事にあぶれる、と云う事は無かったのだけれど」

「否、君は」

「サテ、そろそろおいとまさせて貰うとするかな。亦、遊びに来ても良いかい」

青年が否定の語を紡ぐより前に、同僚は席を立った

「勿論だよ……又、来てくれると、嬉しい」

青年は只、再会の確約を口にするより他無かった



同僚を見送り、青年は玄関を閉める


(-彼、は)

聞く事が出来たのは、絶望と八方塞だけであったのだろうか


青年は落胆の気持ちを抱え乍に、座敷へと向かった


座敷に入り、使った湯呑みを片付けようと卓に近付き

青年はふと、畳に目を留めた


同僚が座って居た側の座布団のほんの傍ら、其処には小さく畳んだ紙切れが落ちて居た


(忘れ物だろうか)


青年は紙切れを拾い上げる

此の儘同僚に渡すべきであるのだろうとも考えるが、只の塵であったらとの考えも浮かび

青年は失礼承知で、畳まれた紙切れをそっと広げて確かめた


「………………」




其れから、数日後-



「では、此れより文士會を開催致します」

本日の主催たる文士が、明るく号令を掛ける


品の良い西洋料理の広間

席に着く皆々は文壇の存在を世に轟かせた文士ばかりである


和気藹々

文士達は文學に、世俗にと言葉を交わして楽しむ



其の様な中-

バタン、と広間の扉を開け放ち、部屋の一同へ己の存在を知らしめる者が在った



其れは、あの美文と謳われ、其して堕ちた青年であった。

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