第16話 回る毒
「此れは、何という事を」
其の日に発刊された或る新報を見て、青年は驚きの声を上げた
其処には彼の、文壇の大家に於ける論が綴られており
「口先だけの改良者との噂あり」
「同盟を結んで於いて逃走せりと噂あり」
等と、如何に解釈してみても大家の讒謗としか思えぬ其れが綴られていたのだ
しかも其れを執筆したのは彼の男性-
綴り上げられた大家に目を掛けられていた文士其の人であった
「何故、此の様な事を」
青年は驚愕し乍に文字を追う
大家に対する酷い失礼であるとしか思えぬ其の綴り。
程無き頃合、人力車の掛声が家の外から聞こえて来た
其の声は段々と近付き、キイという車輪の音さえ聞こえ-
其れはふっと、止まった
青年の宅を訪れたのは、件の新報に綴られて居た文壇の大家と-
彼に可愛がられている筈の其の人。
先日、青年と呑み交わした男性であった
大家は何とも苦い面持ちをして居り
男性は酷く青褪めて居る
徒ならぬ其の雰囲気に、青年は緊張を以て二人を迎え、座敷へと通した
「此の記事についてなのだがね」
大家が新報を卓へと置き、難しい面で腕組みをする
「流石に如何な物であるかと、彼の元を訪ねたのだよ」
「はい」
男性は、酷く困惑した顔で俯いている
塩を噛む様な顔で、大家が言葉を続けた
「そうしたらどうだい、聞けば元は君が此れ等を語ったと云うじゃないか」
「何ですって」
青年は驚き男性の方を見遣る
男性もまた青年の方を見て居た
其の表情は、複雑としか云えぬものであり
「其れで、如何なものだ。本当に君が此れを云ったのかね」
大家が言う
青年は首を横に振った
「左様な事を云った覚えはございません」
言うや、男性が酷く困惑した顔で青年を見遣る
「いいえ、いいえ、若先生は確かに仰って-無論、私が其の言葉に載り此の様な記事を綴ってしまったと云う責はございますが……」
「何を」
男性の語りに青年は眉を寄せる
大家も同じく眉を寄せ、男性と青年を見比べた
「私は、此の様な事は申し上げては」
青年は尚の否定に掛かり
そうしてふ、と思い返した
男性が青年へ『過激でらっしゃる』と言った事を
-嗚呼、まさか
青年は口を閉ざし、戸惑う
「どうしたね」
訝しく見る大家に、青年は再び首を横に振って見せた
「私は、申してはおりません」
「本当かね」
「はい」
「まさか、そんな。若先生」
「申しておりません。私が記憶しておりますのは、貴方が『此れでは茶話会だ』と仰った事で……私は、確かに相槌を打つなど致してしまいましたが」
「いえ、若先生は御確かに。若先生も仰いまして」
言った、言わぬの応酬
普段は温厚である大家の表情にも険しさが窺える
青年と男性はじとりと冷汗などを滲ませた
「-申し訳ございません」
やがて、男性が深く頭を垂れて畳へ頭を押し付けた
「私の聞き間違いにございました。先生、どうか。此れは冗談で-大変に質の悪い其れにございますので。次回にて訂正記事を必ず」
「君か-」
大家は男性を見て深く溜息を吐く
此れにて、疑いは晴れたのであろうか
青年も密やかではあるがふ、と溜息を漏らす
些かの、不安等を覚えながら
一応なりと納得した様子を見せ、大家は男性を連れ立って帰って行った
其れを見送り乍らに、青年は未だ不安に胸を揺らがせて居た
(若し、記憶をして居らぬだけであったのなら-)
だが、しかし。男性が己の非を認めた訳である
兎も角、此れにて問題とされた事は終わるのだと、終わったのだと
青年は心を落ち着かせ自室へと戻り、仕事を-執筆を開始した
-其の後日、青年が世に出した作品に
大家は或る誌面上にて酷評を綴ったのである
「何故」
青年は驚愕し、臓腑が酷く揺さぶられる様な感を覚える
其れが道理である指摘だけで形成された物であるならば、青年も正面切り其れを受け止めて邁進すべく糧とでも致したであろう
だが、しかし
此れはそうではない。其の様に思える文面ではない
提言と呼べる其れではない
青年の綴りの弱みを、脆弱な部分を探し出しては只、只悪しと云う様で-
(-此れが、彼の先生の論評であろうか)
青年は人力車を呼び、彼の文壇の大家の元へと向かった
「此度はどうしたね」
大家が複雑な面持ちを以て青年を迎える
「私の作への評についてです」
「よもや、不服を申しに来たかね」
大家はそう、青年に言った
「其れは」
戸惑い、困惑の色見せながらに青年は頷くと、重く口を開く
「分からぬのです、何故此の様な評を受けたか」
「君の作へ対する思う処を述べた訳だが」
「いえ、しかし。あれは、あれではまるで」
「何だね」
青年は一度口篭り、そうして遠慮がちに言葉を紡いだ
「まるで、作品だけではなく私の総てを否定なさっておられる様で」
「君には其の様に読めたかね」
「恐れながら」
大家は腕を組み、ゆるりと頷き相槌とした
「ならば君は、反論を誌面にて載せると良い。其れを真っ向受け止める事としよう」
「其れは」
「出来ぬのかね」
青年は黙って、俯く
青年は論争という物と得意としない。ましてや相手が文壇の大家ともなれば尚の殊である
大家は眉を下げ、息を吐いた
「残念だよ」
「え?」
「私は、あの文章を誰が綴ったか、と怒った。酒の席の其れであるにせよ、流石に失礼が過ぎるのではないかと」
「……はい」
「結果、彼が自身の非を認めた訳ではあるが-だが、君」
「はい」
「私はあの時の君の反応が気になったのだよ」
「……そう、でしたか」
あの時、呑みの席にて自身が覚えて居らぬ刻の出来事-
よもや、其処に大家への失言が在ったのではないかと云う不安が拭えぬままであった
今も、尚。
大家は気付いていた。青年に疑念を抱いていたのであろう
ぽつ、と大家が小さく語る
「君の、大人振の人柄を。美しい文章を評価していたのだがね」
「先生、私は」
「私は彼の責だけを問うた腹積もりはなかったんだ。呑みの席-唯一人に責があるとは思っていなかった」
「……」
「さあ、済まないがもう帰ってくれ給え。仕事が立て込んで居るのでね」
返す、繕う言葉。言い訳も無い。
青年は促されるまま、大家の家を後にした
「嗚呼、全く。胆を冷やしました」
「ですが貴方、実に素晴らしくやってのけたではございませんか。貴方、作家より俳優などなさった方が宜しいのでは」
「冗談を云って下さいますな。気が気ではございませんでしたよ。幾ら先生が私に気を御許しだからと云って」
「そう、そうです。ですから貴方に御願いを致したのですよ。貴方ならばと」
「もう二度と御免ですぞ」
「無論。二度はございませんとも」
「処で、例の御話は」
「ええ、御約束通りに。我が社からの発刊を致しましょう、宣伝も新聞にて大々的に」
「宜しく御願い致します」
「はい、御任せ下さいな」
男は-蝮は
彼の人と固い握手を交わすとふ、と
此の場には居らぬ人物を頭に描き、笑みを浮かべた
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